一、序論
『大乗起信論』(以下、『起信論』)は、東アジア大乗仏教において、如来蔵思想と唯識思想を統合する上で画期的な役割を果たした、極めて重要な論書である。その影響は広範に及び、特に華厳宗においては、賢首大師法蔵(643-712)がその注釈書『大乗起信論義記』(以下、『義記』)を著し、自らの五教判形成の根拠としたことからも、その重要性が窺える。また、同様に注釈書である『釈摩訶衍論』(『釈論』)は、龍樹造・筏提摩多訳と伝承されるが、その真偽については古くから疑問視され、7~8世紀頃に中国か新羅で成立した偽撰書と見なす説が有力である。にもかかわらず、『釈論』は特に日本の真言宗において、開祖空海が即身成仏思想や十住心論を構築する上で極めて重視した論書として、大きな影響力を持ってきた。
仏教哲学における根源的な問いの一つに、「一と多の関係」(一多関係)がある。これは、究極的な実在の統一性(一心、真如)と、現象世界の多様性(万有万法)とをいかに整合的に理解するかという問題である。本稿は、『起信論』の主要な注釈書の一つである『釈摩訶衍論』(以下、『釈論』)が、この一多関係という難問に対し、いかなる解釈的アプローチを提示しているのかを検討する。具体的には、楊乗灃氏による分析に基づき、『釈論』が提示する「同義」(どうぎ)と「異義」(いぎ)という二つの解釈原理を主軸として、それが『起信論』本文の思想、特に阿梨耶識(あらやしき)や「非一非異」(ひいちひい)の概念とどのように関連し、一多関係を解明しているのかを深く掘り下げることを目的とする。分析は、提示された楊氏のテキストに含まれる情報と解釈を主要な資料として進める。
二、解釈の二つの鍵:『釈摩訶衍論』における同義と異義
『釈論』は、『起信論』における根本的な問い、すなわち無明(むみょう)と本覚(ほんがく)の関係性を解明するための中心的な解釈原理として、「同義」と「異義」という二つの概念を提示する。これは、『起信論』の「無明の相は覚性を離れず。壊す可きに非ず、壊すべからざるにあらず」(無明のありさまは、本覚の性質から離れて存在するものではない。それ故に、〔あたかも実体があるかのように〕破壊すべきものではない。しかし、〔迷いの原因である以上〕破壊せずにおくべきものでもない)という一節の解釈に直接対応するものである。
同義(どうぎ):同一性の視点
同義は、「同体同相義」(どうたいどうそうぎ)、すなわち本体も様相も同じであるという意味として説明される。これは、無明と本覚が、その根源において同一の体、すなわち一体不可分のものであるという理を示す。この観点に立てば、無明と本覚は本質的に分離できないため、「壊す可きに非ず」(破壊すべき対象ではない)という側面が説明される。この理解は、覚者、すなわち仏や真如の立場からの視点、あるいは全体を包括的に捉える視角(全体としての視角)に対応する。そこでは、現象の根底にある統一性が強調される。
異義(いぎ):差別性の視点
一方、異義は、「異体異相義」(いたい いそうぎ)、すなわち本体も様相も異なるという意味として説明される。これは、一切の諸法、特に「功徳」(くどく、本覚に関連する清浄な側面)と「過患」(かげん、無明に関連する染汚の側面)が、それぞれ固有の差別相を持つことを強調する(「功徳と過患と各差別なり」)。この観点からは、功徳である本覚を証得するためには、過患の原因となる無明は克服されるべき対象となる。したがって、「壊すべからざるにあらず」(破壊しないわけにはいかない、つまり対処すべきである)という側面が説明される。この理解は、迷いの中にある凡夫の日常的な認識(凡人の見方)や、個々の現象の差異を認識する視点(異相・多相の義)に対応する。
同義と異義の弁証法的機能
この同義と異義という枠組みは、単に二つの異なる見方を提示するだけでなく、弁証法的な機能を果たしている。それは、『起信論』の「壊す可きに非ず、壊すべからざるにあらず」という一見矛盾した表現を解き明かすための鍵となる。同義は「壊す可きに非ず」という究極的な非二元性を肯定し、異義は「壊すべからざるにあらず」という実践的な差別の必要性を肯定する。これにより、『釈論』は、究極的な実在の非二元性(同義)を主張しつつも、悟りへの道を歩む上で不可欠な現象世界の差別性(異義)をも同時に認めることを可能にする。これは、一方では虚無的な一元論(現象的差別を否定する)に陥ることを避け、他方では実体論的な多元論(差異を固定化・実体視する)に陥ることを避ける、巧みな解釈的方途であると言える。この二つの視点を緊張関係のうちに保持することは、大乗仏教の思想的特徴をよく示している。
認識の視点依存性
さらに重要なのは、同義と異義の妥当性や適用範囲が、観察者の認識レベル(覚者か凡夫か)に依存するものとして明確に位置づけられている点である。同義は「覚者・真如の立場」に、異義は「凡人の見方」に関連づけられる。これは、認識される世界のあり方が、それを認識する心の状態によって左右されるという、大乗仏教における重要な認識論的原理を反映している。同義は智慧によってアクセス可能な究極的な実在のあり方を示唆し、異義は無明によって条件づけられた現象的な現れ方を説明する。この区別は、実在そのものに絶対的な断絶があるというよりは、その実在を経験する様態の違いを反映している。悟りとは、この認識の転換であり、異義によって捉えられる機能的な真実を否定することなく、より根源的な同義の視点へと移行することを示唆している。
三、 概念の具体化:大海の譬喩の分析
『釈論』は、同義と異義の概念をさらに具体的に説明するために、『起信論』に由来する〈大海(龍王)・水・風・波〉の譬喩を用いる。
異義の視点からの譬喩解釈
この譬喩において、異義の観点は次のように説明される。水(水)は、その本性として「非動性なり」(動かざる性質)を持つため、清浄な側面、すなわち本覚(ほんがく)を表す。対照的に、風(風)は「動性のある故に」(動く性質)を持つため、無明(むみょう)を表す。無明である風が、本覚である水(特に大海の水)に作用すると、様々な相(すがた)を持つ波(波)が生じる。この波は、無明と本覚が和合した状態、すなわち衆生のあり方であり、「随染本覚」(ずいぜんほんがく、染に随う本覚)と呼ばれる状態を表す。したがって、清浄な「青白水」(本覚)の状態に至るためには、迷いの現れである波(染浄和合の随染本覚)を引き起こす原因である風(無明)は、「壊すべからざるにあらず」(除去されなければならない)とされる。これは、異義の立場から見れば、波(現象・衆生)と大海水(本覚)、風(無明)と水(本覚)はそれぞれ異なる働きを持ち、相互に影響を与え合うため、仏(本覚の証入)となるためには、無明を滅する必要があることを示している。
同義の視点からの譬喩解釈
一方、同義の観点は、風と水の起源を問う形で示される。「風と水は誰より而も生ずるや」(風と水は何から生じるのか)という問いに対し、「言わく龍王より生ずるが故に」(龍王から生じるのである)と答える。ここで、『釈論』は、水(本覚)と風(無明)の両者の根源を「龍王」(りゅうおう)に帰着させることで、両者を統一し、一体化させる。この龍王は、楊氏の指摘するように、おそらく究極的な心の基体である阿梨耶識(あらやしき)や如来蔵(にょらいぞう)を象徴していると考えられる。この統一的な根源(龍王)の視点、すなわち同義の立場から見れば、本覚と無明は別個の存在ではなく、同一の実体の異なる現れ、あるいは働きであり、「実に一体」なのである。
波が止まない理由:深層のダイナミズム
さらに、『釈論』は波が絶えず生起し続ける理由として「二事」(にじ)を挙げる。一は「同類の大種有る故に」(どうるいのだいしゅうあるゆえに)、二は「法爾に由るが故に」(ほうにによるがゆえに)である。
第一の「同類の大種有る」とは、水(水大)と風(風大)が、互いに同種の根源的要素(大種)を含み合っていることを意味する。「水大中に風大の要素を含み、風大中に水大の要素も含む」とされるように、水と風は単に外部から相互作用するだけでなく、互いに内在しあい、浸透しあっている(相互いに有なり)。さらには、互いに転換しうる可能性(互いに相転)をも示唆する。この譬喩の真意は、無明と本覚の和合状態、すなわち随染本覚の理をより深く示すことにあると考えられる。単なる風(無明)が水(本覚)に作用するというモデルを超えて、染(無明)と浄(本覚)が互いに深く関わり合い、影響しあい、転換しうる動的な関係性を示唆する。これは「染浄相転」(せんじょうそうてん)と呼ばれる考え方であり、華厳宗の「相即相入」(そうそくそうにゅう)の思想にも通じる、より深い相互浸透の関係を示している。現象世界(波)は、単なる表面的な攪乱ではなく、実在の構造そのものに内在する浄と染の可能性とその相互作用から生じる、という深遠な見方を提供する。
第二の「法爾に由る」とは、この染浄の相互浸透と転換(染浄相転)が、特定の原因による偶然の出来事ではなく、真如(しんにょ)の理法、すなわち存在の自然な法則(法爾、あるがままの道理)であるとする。これは、波(現象)が生じ続けること、すなわち浄と染の相互作用から多様な世界が現れること自体が、異常事態ではなく、一心(阿梨耶識・如来蔵)の本来的な働き、存在の自然なあり方であることを意味する。この理解は、異義によって説明される差別現象でさえも、究極的には同義によって示される統一的な実在の法則性に従って機能していることを示唆し、同義の視点を補強する。
四、阿梨耶識と非一非異の原理
『起信論』は、心真如門(しんしんにょもん)に続いて心生滅門(しんしょうめつもん)を説く中で、阿梨耶識について次のように述べる。「心生滅とは、如来蔵に依るが故に、生滅する心有り。所謂、不生不滅が生滅と和合して、非一非異なり。名付けて阿梨耶識となす。この識に二種の義有り。能く一切法を摂し、一切法を生ず。如何が二と為す。一には覚の義、二には不覚の義なりと。」(心の生滅とは、如来蔵(本覚)を根拠として生滅変化する心が存在するということである。すなわち、不生不滅(本覚・真如)と生滅(現象・無明)とが和合して、一でもなく異でもない状態、これを名付けて阿梨耶識とする。この識には二つの側面がある。それは、一切の法をその内に摂(おさ)め、また一切の法を生み出す働きを持つ。その二つとは何か。一つは覚(悟り)の側面、もう一つは不覚(迷い)の側面である。)
阿梨耶識:絶対と現象の統合
この記述によれば、阿梨耶識(あるいは如来蔵)は、絶対的な側面(不生不滅、真如、覚の義)と現象的な側面(生滅、無明、不覚の義)とが「和合」(わごう)し、不可分に結びついた状態として定義される。そして、この和合状態そのものが「非一非異」(一でもなく、異でもない)と特徴づけられる。阿梨耶識は、その不変の清浄な本性と、差別された現象世界を現出する能力の両方を併せ持つ「一心」なのである。
非一非異と同義・異義の連関
楊氏の解釈に基づけば、この非一非異の原理は、同義・異義の枠組みと密接に関連している。阿梨耶識が「能く一切法を摂し、一切法を生ず」(一切の法を包括し、一切の法を生み出す)という側面は、その統一性を示すものであり、同義(同体同相義)に対応し、「非一非異」の中の「不異」(ふい、異ならず)の側面を説明する。一方、不覚の義(迷いの側面)に基づいて生滅変化する多様な心の相(現象)が生じ、それが衆生の認識する世界となる側面は、その差別性を示すものであり、異義(異体異相義)に対応し、「非一非異」の中の「不一」(ひいち、一ならず)の側面を説明する。
非一非異:包括的な原理
このように見ると、「非一非異」は単に阿梨耶識の一特徴ではなく、絶対(不生不滅)と現象(生滅)の関係性を規定する根本原理として提示されている。そして、同義と異義という『釈論』の解釈ツールは、この「非一非異」という逆説的な状態が、異なる視点からどのように理解されうるかを解き明かす鍵となる。すなわち、「非一非異」が阿梨耶識(ひいては実在)の本質に関する存在論的な規定であり、同義がその「不異」(異ならず)の側面を、異義がその「不一」(一ならず)の側面を、それぞれ解釈的に照らし出す役割を担っていると考えられる。非一非異が原理であり、同義・異義がその解釈的視角を提供するのである。
見かけ上の矛盾への対処(不覚を含みつつ「不異」である理由)
阿梨耶識が不覚(迷い)の側面を含むにもかかわらず、なぜ「不異」(異ならず)と言えるのか、という問いに対して、楊氏のテキストは二つの理由を示唆している。
- 究極的一体性: 阿梨耶識の内部においては、覚(悟り)と不覚(迷い)は根源的に一体であり、分離できない。
- 悟りによる理解: 『楞厳経』の「見見之時、見非是見」(自らの心にある迷いの識(見)を実際に見ようとする時、(識は自性を持たないゆえに)もはやその識(見)は存在しない)という一節を想起させるように、実際の修行を通じて始覚(しがく、初めての悟り)に至り、阿梨耶識の清浄な側面(本覚)を証得する時、不覚とは阿梨耶識の一つの働きに過ぎず、実体的なものではないことが理解される。覚と不覚、不生滅と生滅は元来一体であり、不覚・生滅心から覚・不生滅へと転換することは、同時に阿梨耶識・如来蔵の全体性への到達でもある、という解釈が可能となる。迷いの側面は、悟りの光によってその実体のなさが照破されるのである。
非一非異のさらなる説明:『釈論』引用句の分析
楊氏のテキストは、非一非異についてさらに『釈論』からの引用を提示する。「非一非異者。即是開示有為無為同異差別故。…復次所熏淨法與能熏染法。各差別故名為非一。能熏所熏俱一心作。無有他故名為非異。」(非一非異とは、すなわちこれ有為(うい、作られたもの、現象)と無為(むい、作られざるもの、絶対)の同じ点・異なる点・差別を開示するものである。…さらに次に、熏習(くんじゅう)を受ける浄法(じょうほう、清浄な可能性)と熏習を行う染法(せんぼう、汚れた働き)は、各々差別があるので非一と名づける。能熏(のうくん、熏習するもの)と所熏(しょくん、熏習されるもの)は倶(とも)に一心(いっしん)の所作(しょさ、働き・現れ)であり、他のものではない故に非異と名づける。)
この引用は、非一非異の原理を、唯識思想の中心概念である熏習(種子が阿梨耶識に影響を与え、現行を生み出すプロセス)の用語を用いて説明している。
- 有為(作られたもの、染法、現象)は、生滅、不覚、異義に関連する。
- 無為(作られざるもの、浄法、絶対)は、不生不滅、覚、同義に関連する。
- 熏習を受ける対象(所熏浄法、清浄な可能性)と熏習を行う主体(能熏染法、汚れた働き)との間には機能的な差別があるため、「非一」(一ならず)とされる。これは異義の観点と一致する。
- しかし、その両者(能熏と所熏)は共に一心(阿梨耶識)の働き・現れであり、それ以外のものではない(「無有他」)ため、根源的には同一であり、「非異」(異ならず)とされる。これは同義の観点と一致する。
この引用句は、非一非異という原理を、単なる静的な形而上学的記述ではなく、唯識思想や『起信論』の中心である意識変容と解脱のダイナミクス(熏習プロセス)そのものに根差したものとして描き出す。抽象的な概念(有為・無為)と具体的な実践プロセス(熏習)を結びつけることで、阿梨耶識、同義・異義、そして修行道という要素が、非一非異の原理の下で統合的に理解されることを示している。
六、統合:『釈摩訶衍論』における視点と実在
二つの視点の要約
これまでの分析をまとめると、『釈論』は、阿梨耶識に根ざした実在に対する二つの有効かつ異なる視点を明確にするために、同義と異義という解釈的枠組みを用いていることがわかる。
- 同義(どうぎ): 究極的な視点(自宗決定、じしゅうけってい – 自らの教えの究極的な真理を確立すること)、すなわち覚者・真如の視点を代表する。全ての存在は唯一なる一心(一法界心)の顕現であり、本質的に同一体であり、異なるものではない(「同体」、「不異」)。
- 異義(いぎ): 世俗的な視点(引摂決定、いんじょうけってい – 衆生を導き摂るための便宜的な真理を確立すること)、すなわち不覚の衆生の視点を代表する。衆生は無明ゆえに(「如実に知らず」)、生滅変化する現象世界を個別に認識し、それらを異なった実体として捉える(「異体」、「不一」)。
同義と異義の比較
以下の表は、『釈論』における同義と異義の解釈的特徴を比較したものである。
特徴 | 同義 (どうぎ – Same Meaning) | 異義 (いぎ – Different Meaning) |
核心的意味 | 同体同相義 (本体も様相も同じ) | 異体異相義 (本体も様相も異なる) |
代表される視点 | 覚者・真如の立場、全体的視角、究極的真理 (自宗決定) | 凡夫の立場、個別的視角、世俗的・実践的真理 (引摂決定) |
本覚/無明との関係 | 本覚と無明は根源的に一体 | 功徳 (本覚) と過患 (無明) は機能的に差別される |
『起信論』引用句との関係 | 「壊す可きに非ず」 (破壊すべき対象ではない) | 「壊すべからざるにあらず」 (対処・克服すべき対象である) |
大海の譬喩要素 | 龍王 (統一的根源)、水と風の同一起源 | 水 (本覚)、風 (無明)、波 (随染本覚)、風による波の生起 |
阿梨耶識の側面 | 一切法を摂し、生ずる統一性 (覚の義、不生不滅) | 生滅する多様な相 (不覚の義、生滅) |
非一非異との関係 | 不異 (異ならず) – 根源的同一性 | 非一 (一ならず) – 現象的差別性 |
教説上の位置づけ | 自宗決定 (究極的な真理の確立) | 引摂決定 (衆生教化のための便宜的真理の確立) |
救済論的機能 | 究極的な悟りの境地、存在の真実相を示す | 迷いの現実と修行の必要性 (無明の克服) を示し、実践へと導く |
統一性と多様性の調停
『釈論』の解釈体系は、非一非異の原理を核とし、同義・異義という二つの視点を通して、一見矛盾するように見える実在の統一性と現象の多様性が、阿梨耶識という一つの心のあり方の中で、いかに非二元的に共存しているかを巧みに示している。究極的な視点(同義)と現象的な視点(異義)は対立するものではなく、阿梨耶識という共通の基盤に根ざした、相補的な二つの真理の側面なのである。見かけ上の矛盾は、視点の違いと阿梨耶識そのものの本性を理解することによって解消される。
異義の持つ実践的重要性
特に注目すべきは、異義の視点が持つ実践的な重要性である。異義は「凡夫の見方」や「不覚」と関連づけられるが、単に誤った見解として退けられるわけではない。むしろ、悟りへの道を歩む上で、それは現実的かつ必要な枠組みを提供する。染(無明)と浄(本覚)の区別、苦しみの現実とその原因、そしてそれを滅するための道筋といった差別相を認識すること(異義)が、まさにその視点自体を超えるための実践(無明の克服)への動機付けとなり、具体的な指針を与える。したがって、異義は、究極的な実在(同義)がそのような差別を超越しているとしても、迷いの状態にある衆生を導くための不可欠な方便としての役割を担っているのである。
七、 結論
本稿では、楊乗灃氏による論考に基づき、『釈摩訶衍論』が『大乗起信論』における「一多関係」をどのように解釈しているかを検討した。その核心には、「同義」と「異義」という弁証法的な解釈原理があることが明らかになった。同義は、覚者の視点から見た存在の究極的な統一性・同一性(同体・不異)を示し、異義は、凡夫の視点から認識される現象世界の多様性・差別性(異体・不一)を説明する。
これらの概念は、『起信論』本文の無明と本覚の関係性に関する逆説的な記述(「壊す可きに非ず、壊すべからざるにあらず」)を解明し、大海・水・風・波の譬喩によって具体的に例証される。特に、波が止まない理由として挙げられる「同類の大種」と「法爾」の概念は、染浄の相互浸透とそれが存在の自然法則であることを示唆し、単なる二元論を超えた深い関係性を描いている。
さらに、この同義・異義の枠組みは、『起信論』の中心概念である阿梨耶識と、それを特徴づける「非一非異」の原理と不可分に結びついている。阿梨耶識は、不生不滅(覚)と生滅(不覚)が「非一非異」の状態で和合する場であり、同義がその「不異」の側面を、異義が「不一」の側面をそれぞれ代表する。この解釈は、熏習の教理を用いた『釈論』の引用箇所によっても補強され、唯識思想との整合性を示している。
結論として、『釈摩訶衍論』の一多関係に対する解釈は、同義と異義という二つの視点を巧みに用いることで、究極的な実在(一)に関する形而上学的な洞察と、現象世界(多)における実践的な要請(救済論)とを見事に統合している。それは、阿梨耶識と非一非異の原理に基づき、実在が一でありながら多、多でありながら一であるという、大乗仏教の深遠な世界観を、論理的かつ体系的に解き明かす試みとして、高く評価されるべきものである。この解釈は、視点によって真理の現れ方が異なることを示しつつ、それらが究極的には一つの実在に根ざしていることを明らかにする、洗練された哲学的アプローチを提供している。