起信論義疏 慧遠撰 上巻

 浄影寺沙門慧遠撰

 大乗起信論者。蓋乃宣顕至極深理之妙論也。摧邪之利刀。排浅之深淵。立正之勝幢。是以諸仏法身菩薩。皆以此法為体。凡夫二乗此理為性。改凡成聖莫不由之。是故釈尊為表此法以殊勝故。超過巨海須弥山等。於鉄囲上楞伽城中。十頭羅刹宮殿之中。説此法也。即表其三乗絶分。Keonsyo01-01R
  (『大乗起信論』は、蓋し乃ち至極の深理を宣顕するの妙論なり。邪を摧くの利刀、浅を排するの深淵、正を立つるの勝幢なり。これを以て諸仏法身菩薩は皆、この法を以て体と為す。凡夫二乗はこの理を性と為す。凡を改め聖を成ずること、これに由らざることなし。この故に釈尊はこの法、以て殊勝なることを表さんが為の故に、巨海須弥山等を超過して、鉄囲の上、楞伽城の中、十頭羅刹の宮殿の中に於いてこの法を説くなり。即ちその三乗の分を絶することを表す。)Keonsyo01-01R

 如法華論主。論主問言。何故住此霊鷲山中説此法耶。釈言。為題此一乗法以殊勝故。依処以題。又十地論中問。何故在此他化自在天摩尼宝殿中。説此法門。釈言。為題十地法門以殊勝故。[キョウ01]量勝故。此亦如是。Keonsyo01-01R,01L
  (『法華論』主の如きんば、論主、問いて言く。何が故にこの霊鷲山中に住してこの法を説くや。釈して言く。この一乗の法は以て殊勝なることを題〈あらわ〉さんが為の故に、処に依りて以て題す。また『十地論』の中に問わく。何が故にこの他化自在天摩尼宝殿の中に在りてこの法門を説くや。釈して言く。十地の法門は以て殊勝なることを題〈あらわ〉さんが為の故に、勝を[キョウ01]量するが故に。これもまたかくの如し。)Keonsyo01-01R,01L

 一化所説教雖衆多。要唯有二。一者声聞蔵。二者菩薩蔵。教声聞法名声聞蔵。教菩薩法名菩薩蔵。Keonsyo01-01L
  (一化所説の教は衆多なりといえども、要ず唯、二あり。一には声聞蔵、二には菩薩蔵なり。声聞に教ゆる法を声聞蔵と名づけ、菩薩に教ゆる法を菩薩蔵と名づく。)Keonsyo01-01L

 何以故知仏教但二。有事有文。言有事者。仏滅度後。迦葉阿難。於王舍城結集三蔵。名声聞蔵。文殊阿難。於鉄囲山集摩訶衍。名菩薩蔵。故知。仏教無出此二。Keonsyo01-01L
  (何を以ての故に仏教は但二なることを知るや。事あり、文あり。事ありと言うは、仏滅度の後、迦葉・阿難の、王舍城に於いて三蔵を結集するを声聞蔵と名づけ、文殊・阿難の、鉄囲山に於いて摩訶衍を集むるを菩薩蔵と名づく。故に知りぬ、仏教はこの二を出づることなしと。)Keonsyo01-01L

 言有文者。涅槃経言。十二部中唯方広部菩薩所持。余十一部声聞所持。地持論中亦同此説。下復説言声聞菩薩出苦道説修多羅。結集経者謂集二蔵。説声聞行為声聞蔵。説菩薩行為菩薩蔵。故知所説無出此二。亦名大乗小乗半満教也。名雖有異其義不殊。Keonsyo01-01L,02R
  (文ありと言うは、『涅槃経』に言く。十二部の中に、唯、方広部のみ菩薩の持つ所なり。余の十一部は声聞の所持なりと。『地持論』の中もまたこの説に同じ。下〈『菩薩地持経』〉にまた説きて「声聞菩薩の出苦の道、修多羅を説く」と言う。経を結集する者〈ひと〉、二蔵を集むと謂い、声聞の行を説くを声聞蔵と為し、菩薩の行を説くを菩薩蔵と為す。故に知りぬ、所説はこの二を出づることなし。また大乗・小乗・半満教とも名づくるなり。名は異ありといえども、その義は殊ならず。)Keonsyo01-01L,02R

 此二蔵中各分有三。謂修多羅毘尼毘曇。小乗三蔵者如四阿含経。是修多羅蔵。五部戒律是毘尼蔵。毘曇成実是毘曇蔵。大乗三蔵者。如涅槃華厳等。是修多羅蔵。清浄毘尼方等経等。是毘尼蔵。十地地持等。是阿毘曇蔵。Keonsyo01-02R
  (この二蔵の中におのおの分ちて三あり。謂く、修多羅と毘尼と毘曇となり。小乗の三蔵、『四阿含経』の如きは、これ修多羅蔵なり。五部の戒律はこれ毘尼蔵なり。毘曇・成実はこれ毘曇蔵なり。大乗の三蔵は、『涅槃』『華厳』等の如きはこれ修多羅蔵なり。『清浄毘尼方等経〈清浄毘尼方広経か?〉』等はこれ毘尼蔵なり。『十地』『地持』等はこれ阿毘曇蔵なり。)Keonsyo01-02R

 今此論者。二蔵之中菩薩蔵摂。三蔵之中是第三阿毘曇蔵。亦名摩徳勒伽蔵。此云行境界。亦名摩夷。此云行母。此論所明。八識之理為体。行法為宗。諸菩薩等。依於此理得起修行。依行成徳故。言菩薩摩徳勒伽蔵也。Keonsyo01-02R
  (今この論は、二蔵の中には菩薩蔵の摂なり。三蔵の中にはこれ第三阿毘曇蔵なり。また摩徳勒伽蔵と名づく。ここには行境界と云う。また摩夷と名づく。ここには行母と云う。この論に明かす所、八識の理を体と為し、行法を宗と為す。諸の菩薩等は、この理に依りて修行を起こすことを得て、行に依りて徳を成ずるが故に菩薩摩徳勒伽蔵と言うなり。)Keonsyo01-02R

【論】大乗起信論

 所言大者物莫能過目之為大。既言至極焉有勝己。故言名大。所言乗者運載為義。乗有二種。一法。二行。言法乗者能運他用。無自運義。即是理法。言行乗者自運運他故名為乗。今此論中具明理行故有二種乗。総而言之亦名一乗。無異趣故亦名仏乗。仏所乗故此皆是。名雖有異其実不改。故言大乗也。Keonsyo01-02R,02L
  (言う所の「大」とは、物の能く過ぐることなきを、これを目づけて大と為す。既に「至極」と言う。焉ぞ己に勝るものあらん。故に言いて「大」と名づく。言う所の「乗」とは、運載を義と為す。乗に二種あり。一には法、二には行なり。法乗と言うは、能く他を運ぶ用なり。自運の義なし。即ちこれ理法なり。行乗と言うは、自ら運び他を運ぶが故に名づけて「乗」と為す。今この論の中には具に理行を明かすが故に二種の乗あり。総じてこれを言わば、また一乗と名づく。異趣なきが故に、また仏乗と名づく。仏の所乗なるが故に、これ皆これ、名には異ありと雖も、その実は改まらざるが故に「大乗」と言うなり。)Keonsyo01-02R,02L

 所言起者成立為義。所言信者決定為義。此信有二釈。一云就十信位中令起真常証信也。二云即是妙法師説。是勧信也。論主是其不足之人所説之法甚深極理。恐其不順。作煩悩縁。故言我所説大乗法応当起信。不応誹謗。故論末中我今随分総持説竟。応当敬信。若人能信是法功徳無尽。何以故。理無尽故。若人誹謗獲大罪苦。始終意同。豈容異乎。如菩提心論中勧発品在初建也。為説六度故先勧発心為修行也。此亦如是。為説深理故先勧起信也。Keonsyo01-02L,03R
  (言う所の「起」とは、成立を義と為す。言う所の「信」とは、決定を義と為す。この信に二釈あり。一に云く。十信位の中に就きて真常の証信を起こさしむるなり。二に云く。即ちこれ妙法師説、これ信を勧むるなり。論主はこれその不足の人、所説の法は甚深の極理なり。恐くはそれ順ぜずして煩悩の縁と作らんことを。故に言く。我が所説の大乗の法は応当に信を起こすべし。応に誹謗すべからずと。故に論の末の中に「我今、分に随いて総持して説き〈我今随順総持説〉」竟りぬ。応当に敬信すべし。もし人、能くこの法を信ずれば功徳無尽なり。何を以ての故に。理無尽なるが故に。もし人、誹謗すれば大罪の苦を獲。始終の意は同じ。あに異を容れるべけんや。『菩提心論』の中の「勧発品」初に在りて建つるが如きなり。六度を説かんが為の故に先ず発心を勧めて修行を為すなり。これまたかくの如し。深理を説かんが為の故に先ず起信を勧むなり。)Keonsyo01-02L,03R

 問。何故要先勧起信者。此信乃是入仏法之首故。華厳経云。信為道源功徳母。又論中云。信心如手。有手之人入海宝蔵随意拾取。無手之人雖遇宝蔵不得拾取。信心亦爾。若有信人入仏法宝随分修行得解脱楽。若無信人雖遇仏法空無所獲。故要起信。Keonsyo01-03R
  (問う。何が故に要ず先ず起信を勧むとならば、この信は乃ちこれ仏法に入るの首〈はじ〉めなるが故に。『華厳経』に云く「信は道の源、功徳の母と為す」。また論の中に云く。信心は手の如し。手あるの人は海に入りて、宝蔵、意に随いて拾取す。手なき人は宝蔵に遇うと雖ども拾取することを得ず。信心もまた爾り。もし信ある人は仏法の宝に入りて分に随りて修行し解脱の楽を得。もし無信の人は仏法に遇うと雖ども空しくして獲る所なし。故に要ず信を起すべし。)Keonsyo01-03R

 所言論者簡異仏経之辞也。若通言之一切皆論。謂五明論是也。一切皆経謂五経是也。若別言之仏所説者名之為経。若余人説仏所印可亦名為経。如維摩勝鬘等是也。若仏滅度後聖人自造解釈仏経名之為論。凡夫所造名為義章。今此論者仏滅度後菩薩所造名之為論。論者所謂賓主相談因之為論。故言大乗起信論也。Keonsyo01-03R,03L
  (言う所の「論」とは、仏経に簡異するの辞なり。もし通じてこれを言わば、一切は皆論なり。謂く五明論これなり。一切皆経なり。謂く五経これなり。もし別してこれを言わば、仏の所説の者をこれを名づけて経と為す。もし余人の説にして仏の印可する所を、また名づけて経と為す。『維摩』『勝鬘』等の如き、これなり。もし仏滅度の後、聖人自ら造りて仏経を解釈する、これ名づけて論と為す。凡夫の所造を名づけて義章と為す。今この論は仏滅度の後に菩薩の造る所、これを名づけて論と為す。論は所謂、賓主相談ず。これに因りて論と為す。故に「大乗起信論」と言うなり。)Keonsyo01-03R,03L

【論】馬鳴菩薩造 真諦三蔵訳

 言馬鳴菩薩造者。是為題其論主名也。亦釈幡者如龍樹論釈。所以菩薩造此論者。仏滅度後正法之時大聖去近。人根厚信故無異端。七百歳後大聖去遠。聖弟子衆遂仏滅度人根薄信。以世衰故外道異端競興於世。所謂青同仙人出建陀論二十巻。過去無因為宗。黄頭仙人出闡陀論。自然為宗。及衞世師論等十八部是也。Keonsyo01-03L,04R
  (「馬鳴菩薩造」と言うは、これその論主の名を題さんが為なり。また釈幡とは龍樹の論に釈するが如し。菩薩の、この論を造る所以は、仏滅度の後、正法の時は大聖去ること近く、人根厚く信ずる故に異端なし。七百歳の後には大聖去ること遠く、聖弟子衆く仏に遂〈したが〉いて滅度し、人根、信薄し。世衰うるを以ての故に、外道異端、世に競興す。所謂、青同仙人『建陀論』二十巻を出だし、過去無因を宗と為す。黄頭仙人『闡陀論』を出だし、自然を宗と為す。及び衞世師が論等十八部これなり。)Keonsyo01-03L,04R

 於時有沙門釈子。号曰法勝。対破外道故依毘婆娑広論西方沙門及薩婆多抄出二百五十行偈。造出四巻毘曇。雖然人根薄心鈍故。毘婆沙広論不能受持。四巻其略不得義理。是故須出。達磨多羅広論之中。依西方沙門義与譬喩義。加二百五十行偈。抄以用造作雑心十一巻論也。故論初言極略難解知。極広令智退。我今処中説広説義荘厳。此二論主并宣有相之教令退異乗。因縁為宗。雖明空理但法上横計定性不定法体。Keonsyo01-04R
  (時に沙門釈子あり、号して法勝と曰う。外道を対破するが故に『毘婆娑広論』と西方沙門及び薩婆多とに依りて二百五十行の偈を抄出して、四巻の毘曇を造出す。然りと雖ども人根薄く心鈍し。故に『毘婆沙広論』も受持すること能わず。四巻はそれ略にして義理を得ず。この故に須く出だすべし。達磨多羅というひと、広論の中に、西方の沙門の義と譬喩の義とに依りて、二百五十行の偈を加え、抄して以て用いて『雑心十一巻の論』を造作するなり。故に論の初に言く「極略なるは解知し難く、極広なるは智をして退かしむ。我今、処中にして説広説の義を荘厳す」と。この二論主は并びに有相の教を宣べて異乗を退せしむ。因縁を宗と為し、空理を明かすと雖ども、但、法の上に定性不定の法体を横計す。)Keonsyo01-04R

 又後八百九十歳後出呵梨跋摩。前雖造論滅邪外道。観有相故不得聖道。依毘婆沙此方沙門義与曇無徳義。造成実論二十巻也。広論之中偏宣無相之教。明生法二空。観空得道為宗。雖三論主造論宣通。猶謂六識名相之事。非題極理。而衆人等競習此論。執為究竟。興弘於世。将欲隠没牟尼大意。Keonsyo01-04R,04L
  (また後八百九十歳の後に呵梨跋摩出で、前に論を造くりて邪外道を滅すと雖ども、観有相なるが故に聖道を得ず。毘婆沙とこの方の沙門の義と曇無徳の義に依りて『成実論』二十巻を造るなり。広論の中において偏に無相の教を宣べ、生と法との二空を明かす。観空得道を宗と為す。三の論主は造論宣通すと雖ども、なお六識名相の事を謂いて、極理を題すにあらず。而るに衆人等はこの論を競習して、執して究竟と為し、世に興弘して、将に牟尼の大意を隠没せんと欲す。)Keonsyo01-04R,04L

 是故復出馬鳴菩薩。愍傷衆生[タ10]非人流。感[X39]仏出極意潜没。依楞伽経造出起信論一巻也。雖文略少義無不尽。八識常住為体。修行趣入為宗。習六七識妄故。修尽抜衆人等執。究根原。釈八九識真故。湛然示迷方類趣入処也。造意如是。Keonsyo01-04L
  (この故にまた馬鳴菩薩出でて、衆生を愍傷し、非人の流〈ともがら〉を[タ10]〈ひ〉き、仏出の極意の潜没せんことを感[X39]して、『楞伽経』に依りて『起信論』一巻を造出するなり。文は略少なりと雖ども、義は尽きざることなし〈尽くることなし か?〉。八識常住を体と為し、修行趣入を宗と為す。六七識は妄なりと習うが故に、修尽して衆人等の執を抜き、根原を究む。八九識は真なりと釈するが故に、湛然として迷方の類の趣入の処を示すなり。造意かくの如し。)Keonsyo01-04L

 此論中有三段明義。第一致敬三宝。第二論曰有法以下出其所造。第三後終二偈総結回向。何故有此三段者欲作大事不能軽為故先敬三宝。次出作事作事竟故所有功徳回向発願。次第三総結回向。Keonsyo01-04L,05R
  (この論の中に三段ありて義を明かす。第一に三宝を致敬し、第二に「論曰有法」以下はその所造を出だし、第三に後終の二偈は総結回向なり。何が故にこの三段あるとならば、大事を作さんと欲すれば、軽為すること能わざるが故に先ず三宝を敬い、次に作事を出だす。作事竟るが故に、所有の功徳を回向し発願して、次に第三に総結回向するなり。)Keonsyo01-04L,05R

 就第一中有三。一者汎明諸論之首致敬不同。二者論首帰敬之意。三者随文解釈。Keonsyo01-05R
  (第一の中に就きて三あり。一には汎そ諸論の首めの致敬の不同を明かす。二には論首の帰敬の意。三には文に随いて解釈す。)Keonsyo01-05R

 所言論首帰敬不同者。或具敬三宝。如大智論今此論等。或唯仏法。如十地論等。或但敬仏。如地持論等。此皆有意。所以具敬具足福田故。何故但敬人法者。藉法成人故須礼仏。法者所釈之理。故須敬法。何故唯敬仏者。仏為教主故須礼仏。余非教主故廃不礼。Keonsyo01-05R,05L
  (言う所の論首帰敬不同をいわば、或いは具に三宝を敬す。『大智論』、今この論等の如し。或いは唯仏と法とのみ。『十地論』等の如し。或いは但、仏を敬す。『地持論』等の如し。これ皆、意あり。具に敬する所以は、福田を具足するが故に。何が故に但、人と法とを敬すとは、法を藉て人を成ずるが故に、須く仏を礼すべし。法は所釈の理なるが故に、須く法を敬すべし。何が故に唯、仏を敬することは、仏は教主為るが故に須く仏を礼すべし。余は教主にあらざるが故に廃して礼せず。)Keonsyo01-05R,05L

 言敬意者有六種意。一者作論所依荷思致敬。二者請承加護。三者為生物信。四者敬事之宜。五者為表勝相。六者為開衆生仏法僧念。Keonsyo01-05L
  (敬意を言わば、六種の意あり。一には作論の所依、思を荷い敬を致す。二には加護を請承す。三には物の信を生ぜんが為なり。四には敬事の宜。五には勝相を表さんが為なり。六には衆生の仏法僧の念を開かんが為なり。)Keonsyo01-05L

 初言作論所依荷思敬者。若無仏説経今無所説。若無其法論無所依。若無僧伝已則不聞。由藉此三。今論得興故須皆礼。Keonsyo01-05L
  (初に作論所依荷思敬と言うは、もし仏の経を説くことなければ、今、所説なし。もしその法論なくば、所依なし。もし僧の伝うることなければ已に則ち聞かず。この三に藉るに由りて、今の論は興こることを得るが故に、須く皆礼すべし。)Keonsyo01-05L

 二言請護者。若無加力何能勘説如此深理。要仏加力能説此法。如金剛蔵菩薩欲説十地法門時。加四勘知四十無礙弁才。故末法悪時伝化不易。若無三宝威力加護無由自通。故須致敬以請助。Keonsyo01-05L
  (二に請護と言うは、もし加力なくんば何ぞ能くかくの如きの深理を勘説せん。仏の加力を要として能くこの法を説く。金剛蔵菩薩の、十地の法門を説かんと欲せし時、四勘知四十無礙弁才を加せしが如し。故に末法悪時には伝化易からず。もし三宝の威力加護なくんば自ら通ずるに由なし。故に須く致敬して以て助を請うべし。)Keonsyo01-05L

 三言為信者。論主自是不足之人造論釈経。人多不信。要須帰礼示有宗承。有所制立人方取信。是故頂礼。Keonsyo01-05L,06R
  (三に為信と言うは、論主は自らこれ不足の人なれば、論を造りて経を釈すとも、人多く信ぜず。要ず須く帰礼して宗承あることを示して制立する所あれば、人方に信を取るべし。この故に頂礼す。)Keonsyo01-05L,06R

 四言敬儀者。如似世間孝子忠臣凡所為作。必造啓白君父。菩薩如是。重敬三宝過父及君。今欲造論解釈経時。寧不致敬啓白造論。故須帰礼。Keonsyo01-06R
  (四に敬儀と言うは、世間孝子、忠臣の凡そ為作する所、必ず造〈いた〉りて君父に啓白するが如似し。菩薩もかくの如し。三宝を重敬すること、父及び君に過ぎたり。今、論を造りて経を解釈せんと欲する時、寧ぞ致敬して論を造ることを啓白せざらんや。故に須く帰礼すべし。)Keonsyo01-06R

 五言表勝者。如成実説。三宝是其吉祥境界。樹之論首以題論勝故先致敬。Keonsyo01-06R
  (五に表勝と言うは、『成実』に説くが如し。三宝はこれその吉祥の境界と、これを論首に樹つることは、論の勝るることを題すを以ての故に、先ず致敬す。)Keonsyo01-06R

 六言開衆生三宝念者。如雑心説。為令衆生於三宝中発心趣求信解観察供養帰命故頂礼之。Keonsyo01-06L
  (六に開衆生三宝念と言うは、『雑心』に説くが如し。衆生をして三宝の中に於いて発心・趣求・信解・観察・供養・帰命せしめんが為の故に、これを頂礼したてまつる。)Keonsyo01-06R

【論】帰命
【論】 (帰命す。)

 第三随文解釈者。文中有二。一者初両行偈。正明致敬三宝。二者為欲令下一行偈。明造論之意。就第一中有三。一行余一句。明仏宝。二者法性真下二句。明法宝。三者如実修行等一句者。明僧宝也。就第一中有二句。一者一行偈明応身。二者一句明法身。Keonsyo01-06R,06L
  (第三に文に随いて解釈せば、文の中に二あり。一には初両行の偈は正しく三宝を致敬することを明かす。二には「為欲令」の下の一行の偈は造論の意を明かす。第一の中に就きて三あり。一行と余の一句とは仏宝を明かし、二には「法性真」という下の二句は法宝を明かし、三には「如実修行等」の一句は僧宝を明かすなり。第一の中に就きて二句あり。一には一行の偈は応身を明かし、二には一句は法身を明かす。)Keonsyo01-06R,06L

 言帰命者。是其論主敬心了辞也。内正報中命根為要。故挙要命属彼三宝。名之為帰。為表心了。如身業中頂礼仏足。字及釈者。命者告也。Keonsyo01-06L
  (「帰命」というは、これその論主敬心し了わるの辞〈ことば〉なり。内の正報の中には命根を要と為すが故に要命を挙げて彼の三宝に属す。これを名づけて帰と為す。心了を表さんが為に、身業の中に仏足を頂礼するが如し。字及び釈せば、命は告なり。)Keonsyo01-06L

【論】尽十方
【論】 (尽十方の)

 所言尽者。非局之辞。言十方者挙処以明所敬仏宝遍在十方。故挙在方皆依之辞。此是広義。若言縦義応言三世。而義左右隠題言耳。Keonsyo01-06R
  (言う所の「尽」とは、局るに非ざるの辞なり。「十方」というは処を挙げ以て所敬の仏宝は十方に遍在することを明かすが故に在方皆依の辞を挙ぐ。これはこれ広の義なり。もし縦の義をいわば応に三世というべし。而も義に左右ありて、言に隠題〈隠顕か?〉あるのみ。)Keonsyo01-06R

【論】最勝業遍知
【論】 (最勝業の遍知)

 言最勝者是応仏十号中初号也。非群品同故曰最勝。乗如実道来成正覚。豈非最勝。言業遍知者応仏中福智二徳也。福成就故衆人応供。種智成就名正遍知。十号中略挙三号。経中多挙此三号者。十号中体故。涅槃序品中言今日如来応正遍知将入涅槃。勝鬘経亦如是説。此是一句嘆応仏名称功徳。Keonsyo01-06L,07R
  (「最勝」というは、これ応仏十号の中の初号なり。群品の同にあらざるが故に「最勝」という。如実の道に乗じて来りて正覚を成ず。あに最勝にあらずや。「業遍知」というは、応仏の中の福智の二徳なり。福成就の故に衆人は応に供すべし。種智成就するを正遍知と名づく。十号の中に略して三号を挙ぐ。経の中に多くこの三号を挙ぐるは、十号の中の体なるが故に。『涅槃』「序品」の中に言く「今日如来応正遍知、将に涅槃に入らんとす」。『勝鬘経』にもまた、かくの如く説きたまう。これこの一句は応仏名称の功徳を嘆ず。)Keonsyo01-06L,07R

【論】色無礙自在
【論】 (色無礙自在)

 下次一句嘆色身徳。所言色者。以三十二相荘厳其身故名為色。言無礙者嘆其異辞。凡夫色者質礙為義。如来之身而無礙故曰異也。言自在者嘆其勝也。転輪聖王雖具三十二大人相而不得自在。猶苦無我。応仏非此。自在無極。此之一句嘆色身也。Keonsyo01-07R
  (下次の一句は色身の徳を嘆ず。言う所の「色」とは、三十二相を以てその身を荘厳するが故に名づけて色と為す。「無礙」というはその異を嘆ずる辞なり。凡夫の色は質礙を義と為し、如来の身は而も無礙なるが故に異というなり。「自在」というはその勝を嘆ずるなり。転輪聖王も三十二大人の相を具すと雖も自在を得ず。猶お苦にして無我なり。応仏はこれに非ず。自在にして極りなし。この一句は色身を嘆ずるなり。)Keonsyo01-07R

【論】救世大悲者
【論】 (救世の大悲者と)

 下次一句歎意業徳。言救世者救者覆義。救覆生善。即是与楽得楽因故此是慈也。言大悲者悲者護義。護之止悪。悲能抜苦。応仏之意無出此二。是之一句嘆意業徳也。Keonsyo01-07R,07L
  (下次の一句は意業の徳を歎ず。「救世」というは、救は覆の義、救覆、善を生ず。即これ楽を与え楽を得る因なるが故に、これはこれ慈なり。「大悲」というは、悲は護の義。これを護りて悪を止む。悲は能く苦を抜く。応仏の意はこの二を出づることなし。この一句は意業の徳を嘆ずるなり。)Keonsyo01-07R,07L

【論】及彼身体相
【論】 (及び彼の身の体相)

 自下一句合敬真身。言及彼者敬応仏。已兼敬真故名之及也。対此応仏体用異故名之為彼。言身体者是法仏也。万徳積聚名之為身。法無藉他故名為体。亦可応用所依在之為体故曰身体。所言相者是報仏也。法体之相故曰報仏。此之一句合明法身。Keonsyo01-07L
  (自下の一句は合して真身を敬す。「及彼」というは応仏を敬し已りて兼て真を敬するが故に、これを及と名づけるなり。この応仏に対すれば、体と用と異なるが故に、これを名づけて彼と為す。「身体」というは、これ法仏なり。万徳積聚する、これを名づけて身と為す。法は他を藉ることなきが故に名づけて体と為す。また応用の所依、これに在りて体と為すべきが故に身体という。言う所の「相」とは、これ報仏なり。法体の相なるが故に報仏という。この一句は合して法身を明かすなり。)Keonsyo01-07L

 問。何故応中具明三徳真中総乎。答。応仏其是教主也。故偏広嘆。真身非主故総嘆耳。理応斉論。敬仏宝竟。Keonsyo01-07L
  (問う。何が故に応の中に具に三徳を明かし、真の中には総するや。答う。応仏はそれこれ教主なり。故に偏に広く嘆ず。真身は主に非ざるが故に総じて嘆ずるのみ。理は応に斉しく論ずべし。仏宝を敬し竟りぬ。)Keonsyo01-07L

【論】法性真如海
【論】 (法性真如海)

 此下明法。言法性者此之真有自体名法。恒沙仏法満足義故。非改名性。理体常故。大智論云。白石銀性。黄石金性。水是湿性。火是熱性。一切衆生有涅槃性。故言法性。言真如者是之真空無可妄故。名之為真。無所立故。名之為如。此法絶待。超出百非故曰真如。故十地論云。自体本来空。自体此是猶前法性。空猶真如。所言海者従喩為名。不得当法為言。故挙勝以況。深邃難底猶如大海。故大経中譬如大海有八不思議。涅槃亦爾。此之一句明嘆理性。Keonsyo01-07L,08R
  (この下は法を明かす。「法性」というは、この真有自体を法と名づく。恒沙の仏法満足する義なるが故に。改に非ざるを性と名づく。理体は常なるが故に。『大智論』云く「白石は銀性、黄石は金性。水はこれ湿性。火はこれ熱性。一切衆生に涅槃の性あるが故に法性という」。「真如」というは、この真空は妄とすべきなきが故に、これ名づけて真と為す。立つる所なきが故に、これを名づけて如と為す。この法は絶待にして百非を超出するが故に真如という。故に『十地論』に云く「自体は本来空なり」と。自体は、これはこれ前の法性の猶し。空は真如の猶し。言う所の「海」とは喩に従いて名と為す。法に当りて言と為すことを得ざるが故に、勝を挙げて以て況す。深邃難底なること猶し大海の如し。故に『大経〈涅槃経〉』の中に「譬えば大海に八不思議あるが如し」と。涅槃もまた爾り。この一句は理性を嘆ずることを明かす。)Keonsyo01-07L,08R

【論】無量功徳蔵
【論】 (無量の功徳蔵)

 自下一句行教合論。言無量者数中極也。此之非是華厳経中数中無量。非数量故名為無量。言功徳者為功用所得。故為功徳。徳者得也。修行所得非数量。故名無量功徳。此之行法。所言蔵者此之教也。教能包含理行之法。故名為蔵。故文言三蔵教也。亦可行蔵。無量功徳積集名蔵。理法如海。行法如蔵。教法無也。何故無者教無別体。音声為体。故是不敬。此之二句明法宝也。Keonsyo01-08R,08L
  (自下の一句は行と教とを合して論ず。「無量」というは数の中の極なり。これはこれ、これ『華厳経』の中の数中の無量なるには非ず。数量に非ざるが故に名づけて無量と為す。「功徳」というは、功用の得る所と為すが故に功徳と為す。徳とは得なり。修行して得る所は数量に非ず。故に「無量功徳」と名づく。これはこれ行法なり。言う所の「蔵」とは、これはこれ教なり。教は能く理行の法を包含するが故に名づけて蔵と為す。故に文に三蔵教というなり。また行の蔵なるべし。無量の功徳の積集するを蔵と名づく。理法は海の如く、行法は蔵の如し。教法には無きなり。何が故に無きなりとならば、教には別体なし。音声を体と為す。故にここには敬わず。この二句は法宝を明かすなり。)Keonsyo01-08R,08L

【論】如実修行等
【論】 (如実修行等に〈帰命す〉)

 自下一句嘆僧宝。言如実者遣邪取正。故曰如実。言修行者在不足位。研習勝進故曰修行。所言等者此類非一。故曰等也。Keonsyo01-08L
  (自下の一句は僧宝を嘆ず。「如実」というは、邪を遣り正を取るが故に如実という。「修行」というは、不足の位に在りて、研習して勝進するが故に修行という。言う所の「等」とは、この類は一に非ざるが故に等というなり。)Keonsyo01-08L

【論】為欲令衆生 除疑捨邪執
【論】 (衆生をして疑を除き、邪執を捨て、)

 自下一偈造論之意。此中有二。一者半偈遣邪。二者半偈立正。言為欲令衆生者明所為人。不自為己。専為衆生。造論意業故曰為欲。以悪法成故処処受生。名為衆生。Keonsyo01-08L
  (自下の一偈は造論の意なり。この中に二あり。一には半偈は邪を遣り、二には半偈は正を立つ。「為欲令衆生」というは所為の人を明かす。自ら己が為にせず、専ら衆生の為にす。論を造るは意業なり。故に「為欲」という。悪法成ずるを以ての故に処処に生を受くるを名づけて衆生と為す。)Keonsyo01-08L

 自下一句明所除事。言除疑者猶予名疑。正信対治名為除也。何故除者諸衆生等不得聖道。生諸惑者皆以疑故。故須除也。除者遣也。言捨邪執者諸衆生等。以我見故以為邪執。今題正義故捨邪執。捨者離也。何故捨者我見是其衆惑之本。若無我見衆惑無住。Keonsyo01-08L,09R
  (自下の一句は所除の事を明かす。「除疑」というは、猶予するを疑と名づけ、正信をもって対治するを名づけて除と為すなり。何が故ぞ除とならば、諸の衆生等は聖道を得ず。諸惑を生ずるは皆、疑を以ての故に、故に須く除すべきなり。除は遣なり。「捨邪執」というは、諸の衆生等は我見を以ての故に以て邪執と為す。今、正義を題するが故に邪執を捨つ。捨は離なり。何が故ぞ捨とならば、我見はこれその衆惑の本なり。もし我見なくんば衆惑は住することなし。)Keonsyo01-08L,09R

 問。若爾何故毘曇我見非惑。釈。此之就欲界衆生以我見故起修道行。故作此説。非是道理。Keonsyo01-09R
  (問う。もし爾らば、何が故ぞ毘曇に我見は惑にあらずという。釈すらく。これはこれ欲界の衆生は我見を以ての故に修道の行を起こすに就くが故にこの説を作す。これ道理にあらず。)Keonsyo01-09R

【論】起大乗正信 仏種不断故。
【論】 (大乗正信を起こし、仏種をして断たざらしめんと欲するための故に。)

 自下二句明立正也。言起大乗正信者。正者非曲為義。余義釈同前也。何故起此信者下題其意。仏種不断故。立信之人修行能得常住仏果。故経言。生信心者生諸仏家。已種仏種。勝鬘経四種真子中。初真子者即是其事。紹仏位故名真子。此之初段竟。Keonsyo01-09R,09L
  (自下の二句は立正を明かすなり。「起大乗正信」というは、正は非曲を義と為す。余の義釈は前に同じなり。何が故ぞこの信を起こすとならば、下にその意を題すらく。「仏種不断故〈仏種をして断たざらしめんと欲するための故に〉」と。立信の人は修行して能く常住の仏果を得。故に経に言く。信心を生ずる者は諸仏の家に生まれ、已に仏種を種ゆ。『勝鬘経』の四種の真子の中に、初の真子は即ちこれその事なり。仏位を紹〈つ〉ぐが故に真子と名づく。これはこれ初段竟わりぬ。)Keonsyo01-09R,09L

【論】論曰。有法能起摩訶衍信根。是故応説。
【論】 (論に曰わく。法あり、能く摩訶衍の信根を起こす。この故に応に説くべし。)

 自下第二正出所造。此中有三。一者序分。二者従立義分以去。立正宗分。三者従勧修利益分以去。伝持末代分。論必有由故先明序。由序既興所説宜題。故次第二明正宗分。聖者造論為利群品。造論既周。嘆勝勧学令不断絶。故次第三明伝持分也。Keonsyo01-09L
  (自下は第二に正しく所造を出だす。この中に三あり。一には序分。二には「立義分」より以去は正宗分を立つ。三には「勧修利益分」より以去は伝持末代分なり。論には必ず由あり。故に先ず序を明かす。由序、既に興こる。所説、宜しく題すべし。故に次ぎ第二に正宗分を明かす。聖者の、論を造るは群品を利せんが為なり。造論既に周し。勝を嘆じて学を勧め、断絶せざらしむ。故に次ぎ第三に伝持分を明かすなり。)Keonsyo01-09L

 就初序中二門分別。一明経論作序不同。二者随文解釈。Keonsyo01-09L
  (初めの序の中に就きて二門をもって分別す。一には経論の序を作る不同を明かす。二には文に随いて解釈す。)Keonsyo01-09L

 言不同者。経之与論序相則異。意則同也。言相異者。経中序者凡有二種。一者証信序。二者発起序。言証信者。阿難禀承仏化。欲伝末代。先云如是我従仏聞。証成可信。名証信序。言発起者。如来将説法故先現諸相。招衆有縁。集衆起説。名発起序。Keonsyo01-09L,10R
  (不同をいわば、経と論と、序の相は則ち異にして、意は則ち同じなり。相の異なることをいわば、経の中、序には凡そ二種あり。一には証信序、二には発起序なり。証信というは、阿難、仏化を禀承し、末代に伝えんと欲して、先ず、かくの如く我、仏より聞くというは、信ずべきことを証成するを証信序と名づく。発起というは、如来、将に法を説かんとするが故に、先ず諸相を現じ、衆の有縁を招し、衆を集めて説を起こすを発起序と名づく。)Keonsyo01-09L,10R

 論家為序則不如是。無有二序。何故爾者論主是其自意造論不伝仏語。不同阿難直伝仏語故。無如是我聞等言以為証信。又須論主無有現相然後造論。不同如来大聖本説。故無発起。但述其意以為序耳。是故異也。Keonsyo01-10R
  (論家の序を為すこと、則ちかくの如きにあらず。二序あることなし。何が故ぞ爾るとならば、論主はこれその自意をもって論を造りて仏語を伝えず。阿難の直ちに仏語を伝えるに同じからざるが故に、如是我聞等の言の以て証信と為すことなし。また須く論主は現相ありて然る後に論を造ることなし。如来大聖の本説に同じからず。故に発起なし。但、その意を述ぶるを以て序と為すのみ。この故に異なり。)Keonsyo01-10R

 言意同者。経之与論同為欲説正之初。故名為同也。Keonsyo01-10R
  (意同というは、経と論と、同じく正を説かんと欲する初なるが為の故に名づけて同と為すなり。)Keonsyo01-10R

【論】論曰。有法。能起摩訶衍信根。是故応説。
【論】 (論に曰わく。法あり、能く摩訶衍の信根を起こす。この故に応に説くべし。)

 言随文釈者。文中有二。一者総表。二者問有何因縁以下。別表其意。就第一中有二。一者総勧起信。二者従有五分以下総判科文。Keonsyo01-10R
  文に随いて釈すというは、文の中に二あり。一には総表。二には「問有何因縁」より以下は別してその意を表す。第一の中に就きて二あり。一には総じて起信を勧む。二には「有五分」より以下は総じて科文を判ず。)Keonsyo01-10R

 言論曰者。馬鳴菩薩説法之辞也。言有法者。是所説法也。謂七八識。言能起者能応起也。言摩訶衍者。是其胡語。此方翻者。摩訶言大。衍是言乗。大乗之言如先説也。言信根者。信是諸行之根本也。故言応起大乗信根也。何以故。此法中信者。即是大乗信故。即是最勝感仏近因。故経説言。復有正因。所謂信心首楞厳等也。信者是其報仏正因。首楞厳者亦名仏性。即是法仏之正因也。言是故応者総結釈之。Keonsyo01-10R,10L
  (「論曰」というは、馬鳴菩薩説法の辞なり。「有法」とは、これ所説の法なり。謂く七八識なり。「能起」というは、能く応に起こすべしとなり。「摩訶衍」というは、これその胡語なり。この方に翻せば、摩訶を大という。衍はこれ乗という。大乗の言は先に説くが如きなり。「信根」というは、信はこれ諸行の根本なり。故に応に大乗の信根を起こすべしというなり。何を以ての故に。この法の中の信は、即ちこれ大乗の信なるが故に、即ちこれ最勝感仏の近因なり。故に経に説きて言く。また正因あり。所謂、信心・首楞厳等なり。信とは、これその報仏の正因。首楞厳はまた仏性と名づく。即ちこれ法仏の正因なり。「是故応」というは総結してこれを釈す。)Keonsyo01-10R,10L

【論】説有五分。云何為五。一者因縁分。二者立義分。三者解釈分。四者修行信心分。五者勧修利益分。
【論】 (説に五分あり。云何が五となす。一には因縁分。二には立義分。三には解釈分。四には修行信心分。五には勧修利益分。)

 自下第二科文。説有五分者。是総挙也。因縁分等。是其別釈。文題可知。Keonsyo01-10L
  (自下は第二に科文なり。「説有五分」とは、これ総じて挙ぐるなり。「因縁分」等は、これその別釈なり。文題、知るべし。)Keonsyo01-10L

【論】問曰。有何因縁而造此論。
【論】 (問いて曰わく。何の因縁ありてこの論を造るや。)

【論】答曰。是因縁有八種。云何為八。
【論】 (答えて曰わく。この因縁に八種あり。云何が八となす。)

 自下第二表其造意。此中有二。一者正表其意。二者問修多羅中以下。難解者料簡分別。就初中有二。一者問。二者答。言有何因縁而造此論者。問其造意。自下正答。此中有三。一者略表挙。二者云何為八以下。別釈。三者有如是等下。結釈也。就別釈中有二。一者総表其意。二者従第三以下出所為人。Keonsyo01-10L,11R
  (自下は第二にその造意を表す。この中に二あり。一には正しくその意を表し、二には「問修多羅中」より以下は、難解の者、料簡分別す。初の中に就きて二あり。一には問、二に答なり。「有何因縁而造此論〈何の因縁ありてこの論を造るや〉」とは、その造意を問う。自下は正しく答う。この中に三あり。一には略して表挙す。二には「云何為八〈云何が八となす〉」よえり以下は別釈す。三には「有如是」等より下は結釈なり。別釈の中に就きて二あり。一には総じてその意を表す。二に第三〈三者為令善根成熟衆生〉より以下は所為の人を出だす。)Keonsyo01-10L,11R

【論】一者因縁総相。所謂為令衆生離一切苦。得究竟楽。非求世間。名利恭敬故。
【論】 (一には因縁総相。所謂、衆生に一切の苦を離れ、究竟楽を得しめんためなり。世間の名利恭敬を求むるにはあらざるが故に。)

 就初言令衆生離苦者。所以衆生常在三途恒受苦者。由迷理故也。既是非不知。故造作悪行。常在三途。如人自宅無有出期。甚為可愍。是以菩薩造作斯論。顕真極理。令示是非離苦処也。Keonsyo01-11R
  (初に就いて「令衆生離苦」というは、衆生は常に三途に在りて恒に苦を受くる所以は、理に迷うに由るが故なり。既に是非を知らざるが故に悪行を造作して常に三途に在り。人の自宅にして出期あることなきが如し。甚だ愍ずべしと為す。これを以て菩薩はこの論を造作して、真極の理を顕して、是非を示して苦の処を離れしむるなり。)Keonsyo01-11R

 言得究竟楽者。所以衆生不得楽者。不知善行是応行故。是故菩薩説諸善行。令知衆生修行趣入。得涅槃楽。何故非得人天楽者。非究竟故。悉無常故。是不令得也。Keonsyo01-11R,11L
  (「得究竟楽」というは、衆生の、楽を得ざる所以は、善行はこれ応に行ずべきことを知らざるが故に、この故に菩薩は諸の善行を説きて、衆生修行趣入を知りて、涅槃の楽を得しむ。何が故ぞ人天の楽を得るにあらずとならば、究竟に非ざるが故に、悉く無常なるが故に、これは得しめざるなり。)Keonsyo01-11R,11L

 言非求世間名利敬者。有二意。一者就菩薩説。我為衆生離苦得楽者。我非求名利。避他譏謙。二者所為衆生。我所説法非令得求世間恭敬。唯令求心証無上菩提。故説此法。Keonsyo01-11L
  (「非求世間名利敬」というは二意あり。一には菩薩の説に就く。我、衆生の為に苦を離れ楽を得しむることは、我、名利を求め、他の譏謙を避くるに非ず。二には所為の衆生、我が所説の法は世間恭敬を求めて得しむるに非ず。唯、心に無上菩提を証ることを求めしむるが故にこの法を説く。)Keonsyo01-11L

【論】二者為欲解釈如来根本之義。令諸衆生正解不謬故。
【論】 (二には如来の根本の義を解釈して、諸の衆生をして正しく解して謬らざらしめんと欲するがための故に。)

 次明所顕之法。言為欲解釈如来根本義者。出所説理非不了也。下顕其意。令諸衆生解不謬故。或執邪為正。或執妄為真。或執不了以為了義。皆是謬故。Keonsyo01-11L
  (次に所顕の法を明かす。「為欲解釈如来根本義」というは、所説の理は不了に非ざることを出だすなり。下にその意を顕す。「令諸衆生解不謬故〈諸の衆生をして解して謬らざらしめんと欲するが為の故に〉」、或いは邪を執して正と為し、或いは妄を執して真と為し、或いは不了を執して以て了義と為す。皆これ謬なるが故に。)Keonsyo01-11L

【論】三者為令善根成熟衆生。於摩訶衍法堪任不退信故。
【論】 (三には、善根成熟の衆生をして摩訶衍の法に於いて堪任不退信ならしめんための故に。)

【論】四者為令善根微少衆生。修習信心故。
【論】 (四には善根微少の衆生をして信心を修習せしめんための故に。)

 自下第二出所為人。此中有三。一者有善根人。二者示方便消息業者無善根人。三者示修止観以下明凡夫二乗。Keonsyo01-11L
  (自下は第二に所為の人を出だす。この中に三あり。一には善根あるの人。二には「示方便消息業〈為示方便消悪業障〉」は無善根の人。三には「示修止観〈示修習止観〉」より以下は凡夫二乗を明かす。)Keonsyo01-11L

 就初中一厚信。次一薄信。言善根成就衆生者。此種性以上分得賢首証信位故。何以知者。仏性四句中為善根人故。言善根微少衆生者。是十信人也。以玄信故。Keonsyo01-11L,12R
  (初の中に就きて一は厚信、次の一は薄信なり。「善根成就衆生」というは、これ種性より以上、分に賢首証信の位を得るが故に。何を以て知るとならば、仏性の四句の中に善根の人と為すが故に。「善根微少衆生」というは、これ十信の人なり。玄信するを以ての故に。)Keonsyo01-11L,12R

【論】五者為示方便。消悪業障。善護其心。遠離癡慢。出邪網故。
【論】 (五には方便を示し悪業障を消し善くその心を護り癡慢を遠離し邪網を出でしめんための故に。)

 自下第二無善根人。言示方便者。依此論中悔過礼仏等也。言消悪業者此是業障。言善護心者是報障也。言遠離癡慢出邪網者。是煩悩障。癡慢是其五鈍使也。邪網是五利使也。此等三障皆滅除也。小乗法中但伏煩悩。不能除二。大乗法中皆断三障。Keonsyo01-12R
  (自下は第二に無善根の人なり。「示方便」というは、この論に中に依るに、悔過礼仏等なり。「消悪業」というは、これはこれ業障なり。「善護心」というはこれ報障なり。「遠離癡慢出邪網」というは、これ煩悩障なり、癡慢はこれその五鈍使なり。邪網はこれ五利使なり。これ等の三障は皆滅除するなり。小乗法の中には但、煩悩を伏して、二を除くこと能わず。大乗法の中には皆、三障を断ず。)Keonsyo01-12R

【論】六者為示修習止観。対治凡夫二乗心過故。
【論】 (六には止観を修習することを示し、凡夫二乗の心過を対治せんための故に。)

 自下第三益凡夫二乗。此中有二。一者総釈凡二乗。二者別釈。言修止観者。止是定也。観是慧也。対治凡夫二乗心過故者。凡夫有著有之過。二乗有著無之過。為凡著有故令修定。為二乗人故令修慧。Keonsyo01-12R,12L
  (自下は第三に凡夫二乗を益す。この中に二あり。一には総じて凡二乗を釈し、二には別して釈す。「修止観」というは、止はこれ定なり。観はこれ慧なり。「対治凡夫二乗心過故」とは、凡夫には著有の過あり。二乗には著無の過あり。凡の著有の為の故に定を修せしむ。二乗の人の為の故に慧を修せしむ。)Keonsyo01-12R,12L

【論】七者為示専念方便。生於仏前。必定不退信心故。
【論】 (七には専念の方便を示して、仏前に生ぜじめ必定して不退信心ならんための故に。)

 自下第二別釈。此中初一就凡。後一就二乗。言専念方便者。是其定也。言生仏前不退信者。得益不虚。如生浄土常見仏面。恒聞妙法。信心増強不退失也。Keonsyo01-12L
  (自下は第二に別して釈す。この中に初の一は凡に就き、後の一は二乗に就く。「専念方便」というは、これその定なり。「生仏前不退信」というは、得益虚しからず。如〈も〉し浄土に生ずれば常に仏面を見たてまつり、恒に妙法を聞きて、信心増強して退失せざるなり。)Keonsyo01-12L

【論】八者為示利益。勧修行故。有如是等因縁。所以造論。
【論】 (八には利益を示し、修行を勧むるための故に、かくの如き等の因縁あり。所以に論を造る。)

 自下次明二乗。言示利益者是慧益也。慧益不虚故勧修也。自下第三総結意也。Keonsyo01-12L
  (自下は次に二乗を明かす。「示利益」というは、これ慧の益なり。慧益虚しからざるが故に修を勧むなり。自下は第三に総じて意を結するなり。)Keonsyo01-12L

 亦可此八種因縁中。初一是総。後七別釈。就別釈中初一正釈。離苦章門。後七是其釈別。得楽章門。衆生離苦要是解理。衆生得楽由是行。故善行之首信心是也。余義同前。Keonsyo01-12L
  (またいいつべし。この八種の因縁の中に、初の一はこれ総、後の七は別釈。別釈の中に就きて初の一は正しく釈す。離苦の章門なり。後の七はこれその別を釈す。得楽の章門なり。衆生の、苦を離るるは、要ずこれ理を解す。衆生の、楽を得るはこの行に由るが故に、善行の首は信心これなり。余義は前に同じ。)Keonsyo01-12L

【論】問曰。修多羅中具有此法。何須重説。
【論】 (問いて曰わく。修多羅の中に具にこの法あり。何ぞ重ねて説くことを須る。)

 自下第二有難解者。重料簡。此中有二。一者問。二者答。Keonsyo01-12L,13R
  (自下は第二に、解し難き者ありて重ねて料簡す。の中に二あり。一には問、二には答なり。)Keonsyo01-12L,13R

【論】答曰。修多羅中雖有此法。以衆生根行不等。受解縁別。
【論】 (答えて曰わく。修多羅の中にこの法ありといえども、衆生の根行等しからず、受解縁別なるを以てなり。)

 就答中有三。一者略。二者広。三者結。Keonsyo01-13R
  (答の中に就きて三あり。一には略、二には広、三には結なり。)Keonsyo01-13R

 初中二句。一初所為人後所寄人。言衆生根行不等者。受道衆生心器不平也。根者就昔。行者拠今。昔根今欲深浅不同。故言不等。言受解縁別者。昔是極聖説経是仏。今日論主不足之人。故言縁別。既言所寄不同所為不等。何不重説。Keonsyo01-13R
  (初の中に二句あり。一に初の所為人、後に所寄の人なり。「衆生根行不等」というは、受道の衆生心器は平ならざるなり。根は昔に就く。行は今に拠る。昔根と今欲と深浅同じからず。故に「不等」という。「受解縁別」というは、昔はこれ極聖の説経、これ仏なり。今日の論主は不足の人なり。故に「縁別」という。既に所寄同じからず、所為等ならずという。何ぞ重説せざらん。)Keonsyo01-13R

【論】所謂如来在世。衆生利根。能説之人色心業勝。円音一演異類等解。則不須論。
【論】 (所謂、如来の在世に衆生は利根、能説の人は色心業勝れ、円音一たび演べ異類等しく解すれば、則ち論を須いず。)

 自下広釈。此中有三。初釈縁勝所為亦勝。中釈衰事。後釈当機。Keonsyo01-13R
  (自下は広く釈す。この中に三あり。初に縁勝れ所為もまた勝なることを釈し、中には衰事を釈し、後には当機を釈す。)Keonsyo01-13R

 言仏在世時者。表其時勝。衆生利根者所為之勝。能説之人以下表所寄勝。色心業勝者。色者是其三十二相。是身業也。心者是其大悲大慈。是意業也。言業勝者以因題果。以業勝故所感果勝。言円音一演異類等解者。是口業也。如来一音大小並陳。随機等解。不差機説。此則仏為不虚説法。Keonsyo01-13R,13L
  (「仏在世時」というは、その時勝を表す。「衆生利根」とは所為の勝なり。「能説之人」より以下は所寄の勝を表す。「色心業勝」とは、色はこれその三十二相。これ身業なり。心はこれその大悲大慈。これ意業なり。「業勝」というは因を以て果を題す。業勝るを以ての故に所感の果勝るなり。「円音一演異類等解〈円音一たび演べ異類等しく解すれば〉」というは、これ口業なり。如来の一音に大小並び陳ぶ。機に随いて等しく解す。機に差〈たが〉いて説かず。これ則ち仏は虚しく説法せずと為す。)Keonsyo01-13R,13L

 華厳云。如来一音演説法。衆生随力各得解也。三業皆勝故言縁勝。言則不須論者。結釈利根。以鈍根故造論解経。乃得悟解。以利根故仏説則解。故不須論也。Keonsyo01-13L
  (『華厳』に云く「如来一音、法を演説す。衆生は力に随いて、おのおの解を得るなり」。三業皆勝るる故に縁勝という。「則不須論〈則ち論を須いず〉」というは、利根を結釈す。鈍根なるを以ての故に論を造りて経を解し、乃ち悟解を得。利根なるを以ての故に仏説きたまう則ば解するが故に論を須いざるなり。)Keonsyo01-13L

【論】若如来滅後。或有衆生。能以自力広聞而取解者。或有衆生。亦以自力。少聞而多解者。或有衆生。無自心力。因於広論而得解者。自有衆生。復以広論文多為煩。心楽総持少文而摂多義。能取解者。
【論】 (もしは如来の滅後に、或いは衆生の、能く自力広聞を以て解を取る者あり。或いは衆生の、また自力少聞を以て多く解する者あり。或いは衆生の、自の心力なく、広論に因りて解を得る者あり。自ずから衆生のまた広論の文多きを煩となすを以て、心に総持の文少くして多義を摂するを楽〈ねが〉いて、能く解を取る者あり。)

 自下第二釈衰事。若如来滅後者。表其時衰。或有衆生者。所為不等。両双四句。所謂有力無力。初二句有力。後二句無力。初中広聞小解。小聞多解。是為一双。或有衆生無自心力以下。明無力人。此中有二句。初無力故。広聞而得解者。後句無力故。広聞不得。心楽少文而得多解。是為一双。Keonsyo01-13L,14R
  (自下は第二に衰事を釈す。「若如来滅後」とは、その時の衰を表す。「或有衆生」とは所為等しからず。両双の四句は所謂る有力と無力となり。初の二句は有力なり。後の二句は無力なり。初の中とは広く聞きて小に解し、小し聞きて多く解す。これを一双と為す。「或有衆生無自心力」より以下は無力の人を明かす。この中に二句あり。初には無力の故に広く聞きて解を得る者なり。後の句は無力の故に広く聞きて得ず、心に少文を楽いて多解を得。これを一双と為す。)Keonsyo01-13L,14R

【論】如是此論。為欲総摂如来広大深法無辺義故。応説此論。
【論】 (かくの如く、この論は如来の広大深法の無辺の義を総摂せんと欲するための故に、応にこの論を説くべし。)

 如是論者。以下明正当機。猶前第四人也。此論文略而義無不尽。故言総摂如来広大深法無辺義故也。非是小乗狭小之理。故言広大。仏乃所窮故言深法。理無限斉故。言無辺。応説此論者。結表造意。初序分訖。Keonsyo01-14R
  (「如是論者」より以下は正に機に当ることを明かす。前の第四の人の猶きなり。この論は文略にして義は尽くさざることなし。故に「総摂如来広大深法無辺義故」というなり。これ小乗狭小の理に非ず。故に「広大」という。仏乃ち窮むる所なるが故に「深法」という。理に限斉なきが故に「無辺」という。「応説此論」とは、結して造意を表す。初に序分訖わる。)Keonsyo01-14R

【論】已説因縁分。次説立義分。摩訶衍者総説有二種。云何為二。一者法。二者義。
【論】 (已に因縁分を説く。次に立義分を説かん。摩訶衍は総じて説くに二種あり。云何が二となす。一には法、二には義。)

 立義分下。自下第二明正釈分。此中有三。初立義分。中解釈分。後修行信心分。Keonsyo01-14R
  (「立義分」より下は、自下第二に正釈分を明かす。この中に三あり。初に立義分、中に解釈分、後に修行信心分なり。)Keonsyo01-14R

 何故有此三分者。有二意。一者説法次第。欲説法者先制義宗故。先立義。宗既定広分別示故。次第二解釈分也。説法之意非但空説。如説修行得利益故。説法既周故。次第三修行信心分。Keonsyo01-14R,14L
  (何が故にこの三分あるとならば、二意あり。一には説法の次第。法を説かんと欲する者は、先ず義宗を制するが故に、先に義を立つ。宗既に定まらば広く分別して示すが故に、次に第二に解釈分あり。説法の意は但に空の説のみに非ず。説の如く修行して利益を得るが故に、説法は既に周ねきが故に、次に第三に修行信心分あり。)Keonsyo01-14R,14L

 二者説法所為。以三根故。故有三段。謂上中下。以上根故説立義分。為中根故説解釈分。為下根故説修行信心分。上中二人説法可爾。下根人中何不広説。上中説理法時即得悟解。下根之人不得悟解。顕示行法。令勧修行爾乃得入。以行劣故以行令入。故不広説也。Keonsyo01-14L
  (二には説法の所為。三根を以ての故に、故に三段あり。謂く上中下なり。上根を以ての故に立義分を説く。中根の為の故に解釈分を説く。下根の為の故に修行信心分を説く。上中の二人は説法、爾るべし。下根の人の中には何を広く説かず。上中は理法を説く時、即ち悟解を得。下根の人は悟解を得ず。行法を顕示して、修行を勧め爾して乃ち入ることを得しむ。行は劣なるを以ての故に行を以て入らしむ。故に広く説かざるなり。)Keonsyo01-14L

 初中有三。一表章門。二正釈義。三以総結。Keonsyo01-14L
  (初の中に三あり。一に章門を表す。二に正しく義を釈す。三に以て総結す。)Keonsyo01-14L

 次説立義分者。是表章門。立者制定義。義者有深所以。目之為義。大乗極理豈是浅由。故深所以。摩訶衍者以下正釈。此中有二。初立二章門。後釈二章門。摩訶言大。衍是言乗。此義如前広釈。所言法者。自体名法。理不頼他。故言自体。Keonsyo01-14L,15R
  (「次説立義分」とは、これ章門を表す。立とは制定の義。義とは深き所以あり、これを目づけて義と為す。大乗の極理、豈これ浅由ならんや。故に深き所以なり。「摩訶衍者」より以下は正しく釈す。この中に二あり。初に二章門を立て、後に二章門を釈す。摩訶を大という。衍はこれ乗という。この義は前に広く釈するが如し。言う所の法とは、自体を法と名づく。理は他に頼らず。故に自体という。)Keonsyo01-14L,15R

 問曰。万法無有別守自性。以楽徳中無生滅義。名之為常。如是一切何不頼他。解曰。万法一体無異体。故以楽体異無有常体。故言無頼。Keonsyo01-15R
  (問いて曰く。万法は別に自性を守ることあることなし。楽徳の中に生滅の義なきを以て、これを名づけて常と為す。かくの如きならば一切は何ぞ他に頼らざらん。解して曰く。万法は一体にして異体なきが故に楽と体と異なるを以て常体あることなし。故に無頼という。)Keonsyo01-15R

 難曰。若爾以堅触用以為柱用。無異柱用。亦応此柱無頼他乎。解言。不例。柱是無体。以四微上仮号柱。名頼他義。顕真法之中。同一体中随義分万。挙一尋体即是其体。万亦如是。一中全体。万中全体。何用彼中他用為己。他体為己。此真法中。同一体中万義互相縁集。不相捨離。Keonsyo01-15R
  (難じて曰く。もし爾らば堅触の用を以て以て柱の用と為す。異柱の用なし。また応にこの柱は他に頼ることなかるべきや。解して言く。例せざれ。柱はこれ体なし。四微の上に仮に柱と号するを以て、他に頼る義と名づく。真法の中、同一の体の中に義に随いて万を分かつことを顕す。一を挙げて体を尋ぬるは即ちこれその体。万もまたかくの如し。一の中の全体。万の中の全体。何を用いてか彼の中の他の用を己と為し、他の体を己と為ん。これ真法の中の同一体中の万義、互に相い縁集して、相い捨離せず。)Keonsyo01-15R

 故経説言。譬如父母。各各異故。故名無常。有彼此者即是無常。理是一体無彼此故。故湛然常。又経説言。我所説法非一非異。湛然常住。非如仮合一。故言非一。非如実法各別体故。故言非異。是故異也。Keonsyo01-15R,15L
  (故に経に説きて言く。譬えば父母の如きはおのおお異なるが故に、故に無常と名づく。彼此ある者は即ちこれ無常なり。理はこれ一体にして彼此なきが故に、故に湛然として常なり。また経に説きて言く。我が所説の法は一に非ず異に非ず、湛然として常住なり。仮合して一なるが如きには非ず。故に非一という。実法の各別の体の如きには非ざるが故に、故に非異という。この故に異なり。)Keonsyo01-15R,15L

 所言義者。随事名義。雖体一味而随義万差。然則体義不殊。無有一性。即是如故。而無不性。義差別故。此二即是極理体状。Keonsyo01-15L
  (言う所の義とは、事に随いて義と名づく。体は一味なりと雖も義に随いて万差なり。然れば則ち体と義とは殊らず。一性あることなし。即ちこれ如なるが故に。而も性ならざることなし。義に差別あるが故に。この二は即ちこれ極理の体状なり。)Keonsyo01-15L

【論】所言法者。謂衆生心。
【論】 (言う所の法とは、謂く。衆生心なり。)

 自下第二正釈章門。此中有二。初釈法章門。後釈義章門。初中有二。一者正釈。二何以下転釈。初中有三句。一表出其体。二是心下明其用。三依於此下明立義意。Keonsyo01-R,L
  (自下は第二に正しく章門を釈す。この中に二あり。初には法の章門を釈し、後には義の章門を釈す。初の中に二あり。一には正釈、二に「何以」より下は転釈なり。初の中に三句あり。一にはその体を表出し、二に「是心」より下はその用を明かし、三に「依於此」より下は立義の意を明かす。)Keonsyo01-15L

 所言法者。牒前章門。謂衆生心者。以法受生。名為衆生。此是就凡。若通言之衆法合生名為衆生。此是通聖。心者是其三聚法中。簡色無作是心法也。此心即是有命中実。故名真心。問曰。何故心是理乎。答。理非物造。故名為理。非為木石。神知之慮故名為心。Keonsyo01-15L,16R
  (「所言法」とは、前の章門を牒す。「謂衆生心」とは、法を以て生を受くるを名づけて衆生と為す。これはこれ凡に就く。もし通じてこれを言わば、衆法合して生ずるを名づけて衆生と為す。これはこれ聖に通ず。心とは、これその三聚の法の中に色と無作とを簡ぶ、これ心法なり。この心即ちこれ有命の中の実なり。故に真心と名づく。問いて曰く。何が故ぞ心はこれ理なるや。答う。理は物造に非ず。故に名づけて理と為す。木石と為すに非ず。神知の慮あり。故に名づけて心と為す。)Keonsyo01-15L,16R

【論】是心則摂一切世間出世間法。依於此心顕示摩訶衍義。
【論】 (この心則ち一切の世間・出世間の法を摂す。この心に依りて摩訶衍の義を顕示す。)

 是心則摂一切世間出世間者。如此理者諸法中体。以用帰体。故言則摂。用雖衆多無出染浄。染則世間。浄則出世。依於此心以下明其立義。此心理故拠此明義。顕示摩訶衍義者。即是其説大乗義也。Keonsyo01-16R
  (「是心則摂一切世間出世間」とは、かくの如き理は諸法の中の体なり。用を以いて体に帰す。故に「則摂」という。用は衆多なりと雖も染浄を出づることなし。染は則ち世間、浄は則ち出世なり。「依於此心」より以下はその立義を明かす。この心理の故にこれに拠りて義を明かす。「顕示摩訶衍義」とは、即ちこれその大乗の義を説くなり。)Keonsyo01-16R

【論】何以故。是心真如相。即示摩訶衍体故。
【論】 (何を以ての故に。この心真如の相は即ち摩訶衍の体を示すが故に。)

 何以故下。明伝釈。所以是心世出世法体者。彼前第二句釈之。以二義釈。一義云。是心真如相者。即是第九識。第九識是其諸法体故。故言即示摩訶衍体故也。Keonsyo01-16R
  (「何以故」下は伝釈を明かす。この心、世出世の法体たる所以は、彼の前の第二句これを釈す。二義を以て釈す。一義に云く。「是心真如相」とは、即ちこれ第九識なり。第九識はこれその諸法の体なるが故に、故に「即示摩訶衍体故」というなり。)Keonsyo01-16R

【論】是心生滅因縁相。能示摩訶衍自体相用故。
【論】 (この心生滅因縁の相は能く摩訶衍の自体相用を示すが故に。)

 是心生滅因縁相者。是第八識。第八識是其随縁転変。随染縁故。生滅因縁相也。何以知者。文中言即示摩訶衍体相用故也。用是正義。体相随来。於一心中。絶言離縁為第九識。随縁変転。是第八識。則上心法有此二義。是第八識随縁本故。世及出世諸法之根原故。言則摂。前中但言八識。後転釈中了顕二識。故言体用。Keonsyo01-16R,16L
  (「是心生滅因縁相」とは、これ第八識なり。第八識はこれその随縁転変す。染縁に随うが故に生滅因縁の相なり。何を以てか知るとならば、文の中に「即示摩訶衍体相用故〈即示摩訶衍体故〉〈能示摩訶衍自体相用故〉」というなり。用はこれ正義なり。体相は随い来たる。一心の中に於いて、言を絶し縁を離るるを第九識と為す。縁に随いて変転するは、これ第八識。則ち上の心法にこの二義あり。これ第八識は随縁の本なるが故に、世及び出世の諸法の根原なるが故に「則摂」という。前の中に但、八識といい、後の転釈の中には二識を了顕するが故に「体用」という。)Keonsyo01-16R,16L

 第八識者摂体従用。故言為用。心生滅也。上中具明染浄二用。釈中但明随染之用。故勝鬘云。有二難可了知。自性清浄心難可了知。彼心為煩悩所染。難可了知。彼言自性清浄。猶此心真如。本来無二。Keonsyo01-16L
  (第八識は体を摂して用に従うが故に言いて用と為す。心生滅なり。上の中には具に染浄の二用を明かす。釈の中には但、随染の用を明かす。故に『勝鬘』に云く「二の了知すべきこと難きものあり。自性清浄心、了知すべきこと難し。彼の心は煩悩の為に染せらるるも、了知すべきこと難し」。彼に自性清浄というは、猶しこの心真如のごとし。本来二なし。)Keonsyo01-16L

【論】所言義者則有三種。云何為三。一者体。謂一切法真如平等不増減故。二者相大謂如来蔵具足無量性功徳故。三者用大。能生一切世間出世間善因果故。
【論】 (言う所の義とは、則ち三種あり。云何が三となす。一には体。謂く。一切の法は真如平等にして増減せざるが故に。二には「相大」。謂く。如来蔵は無量の性功徳を具足するが故に。三には用大。能く一切世間・出世間の善の因果を生ずるが故に。)

 言用大者。用有二種。一染。二浄。此二用中各有二種。Keonsyo01-16L,17R
  (「用大」というは、用に二種あり。一に染、二に浄。この二用の中におのおの二種あり。)Keonsyo01-16L,17R

 染中二者。一依持用。二縁起用。依持用者。此真心者能持妄染。若無此真妄則不立。故勝鬘云。若無蔵識不種衆苦。識七法不住。不得厭苦楽求涅槃。言縁起用者。向依持用雖在染中而不作染。但為本耳。今与妄令縁集起染。如水随風集起波浪。是以不増不減。解言。即此法界輪転五道。名為衆生。染用如是。Keonsyo01-17R
  (染の中の二とは、一には依持の用、二には縁起の用なり。依持の用とは、この真心は能く妄染を持す。もしこの真妄なくんば則ち立せず。故に『勝鬘』に云く「もし蔵識なくんば衆苦を種えず。識の七法は住せずんば、苦楽を厭いて涅槃を求むることを得ず」。縁起の用というは、向〈さき〉の依持の用は染中に在りと雖も染と作らず。但、本と為るのみ。今、妄と縁集して染を起こさしむ。水の、風に随いて波浪を集起するが如し。これ以て不増不減なり。解して言く。即ちこの法界、五道に輪転するを名づけて衆生と為す。染用かくの如し。)Keonsyo01-17R

 浄用亦有二種。一者随縁顕用。二者随縁作用。Keonsyo01-17R
  (浄用にまた二種あり。一には随縁顕用。二には随縁作用。)Keonsyo01-17R

 言顕用者。真識之体本為妄覆。修行対治後息妄染。雖体本来浄随縁得言始浄顕也。是故説為性浄法仏無作因果。是名顕用。Keonsyo01-17R
  顕用というは、真識の体は本〈もと〉妄の為に覆わる。修行して対治し、後に妄染を息む。体は本来浄と雖も、縁に随いて始めて浄顕ということを得るなり。この故に説きて性浄法仏無作の因果と為し、これを顕用と名づく。)Keonsyo01-17R

 問曰。若修行始浄者。何故得言無作因果。答。雖顕由修体非今生。故曰無作。問曰。若非今生何故名果。随縁故名為果也。若拠体言非因非果湛然一味。而就妄論真。在因名因。在果名果。故名因果。Keonsyo01-17R,17L
  (問いて曰く。もし修行して始めて浄ならば、何が故に無作の因果ということを得るや。答う。顕るるは修に由ると雖も、体は今生ずるに非ず。故に無作という。問いて曰く。もし今生ずるに非ざれば、何が故ぞ果と名づけん。縁に随うが故に名づけて果と為すなり。もし体に拠りて因に非ず果に非ずといわば、湛然として一味なり。而るに妄に就きて真を論ぜば、因に在るを因と名づけ、果に在るを果と名づくるが故に因果と名づく。)Keonsyo01-17R,17L

 言作用者。本在凡時但是理体。無有真用。但本有義。後随対治始生真用。是故説為方便報仏有作因果。又云。但是一中義分為二。言能生一切世間出世間善因果者。世間是其染用之義。出世間者浄用之義。此是総説理用也。Keonsyo01-17L
  (「作用」というは、本〈もと〉凡に在る時は但これ理体にして真用あることなし。但し本有の義。後に対治に随いて始めて真用を生ず。この故に説きて方便報仏有作の因果と為す。また云く。但これ一の中に義をもって分かちて二と為す。「能生一切世間出世間善因果〈能く一切世間・出世間の善の因果を生ず〉」というは、世間はこれその染用の義なり。出世間は浄用の義なり。これはこれ総じて理用を説くなり。)Keonsyo01-17L

【論】一切諸仏本所乗故。一切菩薩皆乗此法到如来地故。
【論】 (一切の諸仏の本所乗の故に。一切の菩薩は皆この法に乗じて如来地に到るが故に。)

 下就人以顕。諸仏本所乗者。依此識故諸仏得成。無此余縁故。本所乗故。菩薩皆乗此法到如来地者。此識為正因。菩薩修行得成仏道。此之用也。自下縁也。Keonsyo01-17L,18R
  (下は人に就きて以て顕す。「諸仏本所乗」とは、この識に依るが故に諸仏は成ずることを得。この余縁なきが故に、本〈もと〉乗ずる所なるが故に。「菩薩皆乗此法到如来地〈菩薩は皆この法に乗じて如来地に到る〉」とは、この識を正因と為す。菩薩は修行して仏道を成ずることを得。これはこれ用なり。自下は縁なり。)Keonsyo01-17L,18R

【論】已説立義分。次説解釈分。
【論】 (已に立義分を説く。次に解釈分を説かん。)

【論】解釈有三種。云何為三。一者顕示正義。二者対治邪執。三者分別発趣道相。
【論】 (解釈に三種あり。云何が三となす。一は正義を顕示す。二は邪執を対治す。三は発趣道相を分別す。)

 次説解義分者。表顕也。自下第二広釈之中有三。初所弁正理無有邪局故。先明顕示正義。立正既周。宜以遣邪。故次第二対治邪執。示是非已[タ10]是可入故。次第三発趣道相。段意如是。之三句列三段名也。Keonsyo01-18R
  (「次説解義分〈次説解釈分〉」とは表顕なり。自下は第二に広釈の中に三あり。初に弁ずる所の正理に邪局あることなきが故に、先に顕示正義を明かす。正を立つること既に周し。宜しく以て邪を遣るべし。故に次に第二に邪執を対治す。是非を示し已りて、これを[タ10]〈くだ〉きて入るべきが故に、次に第三に発趣道相あり。段意かくの如し。この三句は三段の名を列するなり。)Keonsyo01-18R

【論】顕示正義者。依一心法有二種門。云何為二。一者心真如門。二者心生滅門。
【論】 (正義を顕示すとは、一心法に依りて二種の門あり。云何が二となす。一には心真如門。二には心生滅門。)

 顕示正義者以下。正明初段。此中有二。一明題章門。二依一心下。正釈正義。就第二中有二。一者総別略釈。二者心真如者。即一法界以下。別列広釈。初中有四。一者総表数。二者列二章門。三者略釈。四者此義云何以下。転釈。Keonsyo01-18R
  (「顕示正義者」より以下は、正しく初段を明かす。この中に二あり。一に題章門を明かし、二に「依一心」より下は正しく正義を釈す。第二の中に就きて二あり。一には総別略釈。二には「心真如者即一法界」より以下は別列広釈。初の中に四あり。一には総じて数を表す。二には二の章門を列す。三には略釈。四には「此義云何」より以下は転釈。)Keonsyo01-18R

 依一心法者。簡異色無作二聚。但一心聚故言一心。就此明義故名為依。有二種門者。随義依数。云何為二以下。第二列二章門。心真如者。是第九識。全是真故名心真如。心生滅者。是第八識。随縁成妄。摂体従用。摂在心生滅中。亦一師云。六識七識生滅也。Keonsyo01-18R,18L
  (「依一心法」とは、色と無作との二聚に簡異す。但、一心聚の故に「一心」という。これに就きて義を明かすが故に名づけて「依」と為す。「有二種門」とは、義に随い数に依る。「云何為二」より以下は、第二に二の章門を列す。「心真如」とはこれ第九識。全くこれ真なるが故に「心真如」と名づく。「心生滅」とはこれ第八識。縁に随い妄を成じ、体を摂して用に従い、心生滅の中に摂在す。また一師云く。六識七識は生滅なり。)Keonsyo01-18R,18L

 問。全是妄不是。若爾生滅不非是。何故如是。妄者就用。生滅者就法体。随用故成。法体真故非是生滅。故経説言。不染而染其体常住。Keonsyo01-18L
  (問う。全くこれ妄ならば是ならず。もし爾らば生滅は是に非ざるにあらず。何が故ぞかくの如きなる。妄は用に就く。生滅は法体に就く。用に随うが故に成ず。法体は真なるが故にこれ生滅に非ず。故に経に説きて言く「不染にして染、その体常住なり」と。)Keonsyo01-18L

 問曰。真妄相違無相合理。何故言一心。答曰。随妄義辺終日成妄而不妨真。全真義辺終日令真而不妨妄。如柱実法義辺全滅無有続転。仮名義辺全転無有滅義而不相礙。有為尚在転滅二義不相礙妨。何況真心有二義乎。Keonsyo01-18L,19R
  (問いて曰く。真妄は相違して相合の理なし。何が故ぞ「一心」というや。答えて曰く。随妄の義辺には終日〈ひねもす〉妄を成じて真を妨げず。全真の義辺には終日、真ならしめて妄を妨げず。柱の如きは、実法の義辺には全く滅して続転あることなし。仮名の義辺には全く転じて滅の義あることなくして相い礙げず。有為すら尚、転滅の二義在りて相い礙妨せず。何を況んや真心に二義あらんや。)Keonsyo01-18L,19R

 問曰。何故如就妄論真。真与妄合縁集起尽名心生滅。Keonsyo01-19R
  (問いて曰く。何が故ぞ妄に就きて真を論ずるが如し。真と妄と合して縁集起尽するを心生滅と名づく。)Keonsyo01-19R

【論】是二種門皆各総摂一切法。此義云何。以是二門不相離故。
【論】 (この二種の門は皆おのおの一切の法を総摂す。この義、云何。この二門は相い離れざるを以ての故に。)

 言是二門皆各総摂一切法者。有二義。一義云。心真如中皆摂出世間一切法。心生滅中皆摂世間一切法。故皆名総摂也。二義云。心真如中皆摂世間出世間一切法。心生滅中亦爾。何者雖真如不随縁染浄所依。諸法之体。如影依形。故言各摂。心生滅中。随浄縁者転理成行。随染成妄。故言皆摂。Keonsyo01-19R
  (「是二門皆各総摂一切法〈この二種の門は皆おのおの一切の法を総摂す〉」というは、二義あり。一義に云く。心真如の中には皆、出世間一切の法を摂し、心生滅の中には皆、世間一切の法を摂す。故に皆、総摂と名づくるなり。二義に云く。心真如の中に皆、世間出世間一切の法を摂し、心生滅の中にもまた爾り。何となれば真如は縁に随わずと雖も染浄の所依、諸法の体なり。影の、形に依るが如きなるが故に「各摂」という。心生滅の中に、浄縁に随う者は理を転じて行を成じ、染に随えば妄を成ずるが故に「皆摂」という。)Keonsyo01-19R

 自下第四伝釈。此義云何。何故二門各摂一切法者。一心二義故。故言是二門不相離故也。義分為二。非是別体故言不離。Keonsyo01-19R
  (自下は第四に伝釈。「此義云何〈この義云何〉」。何が故ぞ「二門各摂一切法〈二門おのおの一切法を摂す〉」とは、一心二義の故に、故に「是二門不相離故〈この二門は相い離れざるが故に〉」というなり。義をもって分かちて二と為す。これ別体なるに非ざるが故に「不離」という。)Keonsyo01-19R

【論】心真如者。即是一法界大総相。法門体。
【論】 (心真如とは、即ちこれ一法界の大総相、法門の体。)

 自下第二別釈章門。此中有三。一者釈心真如章門。二者心生滅者以下。釈心生滅章門。三者復次真如自体相者以下。就真如体用以弁当現。所以爾者。心真如門。猶前立義是心真如相也。心生滅門者。猶前是心生滅因縁相也。是心体義衆生現有。用義在当。是故第三弁当現也。Keonsyo01-19R,19L
  (自下は第二に別釈章門。この中に三あり。一には心真如章門を釈し、二には「心生滅者」より以下は心生滅章門を釈し、三には「復次真如自体相者」より以下は、真如の体用に就きて以て当現を弁ず。爾る所以は、心真如門は前の立義の「是心真如相」の猶きなり。心生滅門は前の「是心生滅因縁相」の猶し。この心の体の義は衆生現に有り。用の義は当に在り。この故に第三に当現を弁ずるなり。)Keonsyo01-19R,19L

 初中有二。一者明真如体一。二者後次真如者以下。就真如中。義分空有以明真如。初中有二。一者真如絶言。二者問曰以下。明其趣入方法。初中有七。一者明真如体。二者一切諸法唯依妄下。明妄法体。三者是故一切法下。以明真如法体有相無。四者以一切言説仮名以下。以明妄法相有体無。五者言真如者以下。因言遣言。六者此真如体以下。釈真如名。七者当知一切法以下。総結絶名。此中大概正明真如。兼明妄法者是対来耳。非是正宗。Keonsyo01-19L,20R
  (初の中に二あり。一には真如体の一なることを明かす。二には「後次真如者〈復次真如者〉」より以下は真如の中に就きて義をもって空有を分かちて以て真如を明かす。初の中に二あり。一には真如絶言。二には「問曰」より以下はその趣入の方法を明かす。初の中に七あり。一には真如の体を明かす。二には「一切諸法唯依妄」より下は妄法の体を明かす。三には「是故一切法」より下は、以て真如の法は体有・相無を明かす。四には「以一切言説仮名」より以下は、以て妄法は相有・体無を明かす。五には「言真如者」より以下は、言に因りて言を遣る。六には「此真如体」より以下は真如の名を釈す。七には「当知一切法」より以下は、総じて絶名を結す。この中には大概正しく真如を明かし、兼ねて妄法を明かすことは、これ対して来たるのみ。これ正宗に非ず。)Keonsyo01-19L,20R

 初中有二。一者総明体義。二者所謂以下。正表其体。言即是一法界者是一心也。異彼余法故言法界。亦可対妄。拠真為一。大総相者。心是能総恒沙仏法。欖衆諸法。以成総心。豈得不大。故言大総相。若通言之諸法各有総別之義。然心一総者。心為能知。法為所知。故名為総。依此心生種種法故言法門体。此是総相。明体之。Keonsyo01-20R,20L
  (初の中に二あり。一には総じて体義を明かす。二には「所謂」より以下は、正しくその体を表す。「即是一法界」というは、これ一心なり。彼の余法に異するが故に「法界」という。また妄に対すべし。真に拠れば一為〈た〉り。「大総相」とは、心はこれ能く恒沙の仏法を総べ、衆の諸法を欖〈攬か?〉〈す〉べ、以て総心を成ず。あに大ならざることを得ん。故に「大総相」という。もし通じてこれをいわば、諸法におのおの総別の義あり。然るに心の一つ総なることは、心を能知と為し、法を所知と為すが故に名づけて総と為す。この心に依りて種種の法生ずるが故に「法門体」という。これはこれ総相にして体を明かすなり。)Keonsyo01-20R,20L

【論】所謂心性不生不滅。
【論】 (いわゆる心性は不生不滅なり。)

 自下第二正表其体。上明諸法之体。何為所謂心性非色無作。何為諸法以心為体。不生不滅故湛然常。一得不退名為常。不生不滅名為恒。此真如心不生滅故諸法之体。Keonsyo01-20L
  (自下は第二に正しくその体を表す。上に諸法の体を明かす。何ぞ所謂心性は色無作に非ずと為すや。何ぞ諸法は心を以て体と為すと為さん。不生不滅の故に湛然常なり。一得、退かざるを名づけて常と為す。生ぜず滅せざるを名づけて恒と為す。この真如心は生滅せざるが故に諸法の体なり。)Keonsyo01-20L

【論】一切諸法唯依妄念。而有差別。若離心念。則無一切境界之相。
【論】 (一切の諸法は、ただ妄念に依りて差別あり。もし心念を離るれば、則ち一切の境界の相なし。)

 自下第二明妄法体。此中有二。一者順釈。二者若離心念以下。返釈。Keonsyo01-20L
  (自下は第二に妄法の体を明かす。この中に二あり。一には順釈。二には「若離心念」より以下は返釈。)Keonsyo01-20L

 一切諸法者。生死妄法非一。故名一切諸。如虚非無故名之為法。唯依妄念而有差別者。無明是其為妄念也。以有無明迷真如故即有生滅。如空中花。眼患故有。眼治則無。衆生如是。無明眼[バク03]故生滅。非有妄計為有。起種種業受種種苦。若以修起縁知金神決其眼[バク03]。方知妄無豁然会真。故肇師言。所以衆生輪転生死者皆著欲故也若欲止於心即無復生死。Keonsyo01-20L,21R
  (「一切諸法」とは、生死の妄法は一に非ざるが故に一切諸と名づく。虚の如く無に非ざるが故に、これを名づけて法と為す。「唯依妄念而有差別〈ただ妄念に依りて差別あり〉」とは、無明はこれそれ妄念と為すなり。無明ありて真如に迷うが故に即ち生滅あるを以て、空中花の、眼患の故にあり、眼治すれば則ちなきが如し。衆生もかくの如し。無明眼[バク03]の故に、生滅は有に非ず、妄計して有と為して、種種の業を起こして、種種の苦を受く。もし修起縁知の金神を以てその眼[バク03]を決し、方に妄は無なりと知りて、豁然として真に会す。故に肇師〈『肇論』〉言く「衆生の、生死に輪転する所以は、皆、欲に著するが故なり。もし欲、心に止むれば即ちまた生死なし」。)Keonsyo01-20L,21R

 自下返釈。若離心念者。是七識為心念也。則無一切境界之相者。是生死境界也。有妄念故則有妄境。若無妄念生死妄境何由得起。故下文言。心生法生心滅法滅。三界虚妄但一心作。問曰。何故上中八識為生死体。今此何故妄心為体。答。近体者妄心是也。若遠由者真識亦是。又問。即此法界輪転五道名為衆生。何故遠由尋妄根原即為是也。而体非妄故云遠由也。Keonsyo01-21R
  (自下は返釈。「若離心念〈もし心念を離るれば〉」とは、これ七識を心念と為すなり。「則無一切境界之相〈則ち一切の境界の相なし〉」とは、これ生死の境界なり。妄念あるが故に則ち妄境あり。もし妄念なくば、生死妄境は何に由りてか起こることを得るや。故に下の文に言く「心生ずれば法生じ、心滅すれば法滅す〈心生則種種法生。心滅則種種法滅〉」。「三界虚妄にして但一心の作なり〈三界虚偽唯心所作〉」。問いて曰く。何が故ぞ上の中に八識を生死の体と為し、今ここに何が故ぞ妄心を体と為すや。答う。近体は妄心これなり。もし遠由は真識またこれなり。また問う。即この法界、五道に輪転するを名づけて衆生と為す。何が故ぞ遠由、妄の根原を尋ねて即ちこれと為す。而も体は妄に非ざるが故に遠由というなり。)Keonsyo01-21R

【論】是故一切法。従本已来離言説相。離名字相。離心縁相。畢竟平等無有変異不可破壊。唯是一心故名真如。
【論】 (この故に一切法は本よりこのかた言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れて、畢竟平等にして変異あることなく、破壊すべからず。ただこれ一心なり。故に真如と名づく。)

 自下第三。明其真如体有相無。此中有三。初結前。中明相無。後弁体有。是故者結前心性。頌前釈成不生不滅故絶相妙有。自下明其離相。此中有二。一者無他相。二畢竟下無自相也。Keonsyo01-21R,21L
  (自下は第三にその真如の体有・相無を明かす。この中に三あり。初に前を結し、中に相無を明かし、後に体有を弁ずるなり。「是故」とは前の心性を結す。頌の前に不生不滅の故に絶相妙有なることを釈成す。自下はその相を離るることを明かす。この中に二あり。一には他相なし。二に「畢竟」の下は自相なきなり。)Keonsyo01-21R,21L

 一切法者。真如中恒沙法是也。従本以来者非始絶相。表其久来清浄也。離言説相者。以無像故不可以言着。体非是生死有相。故言所不及。離名字相者。非是生死名字呼法。故涅槃云。涅槃無名。強与立名。離心縁相者。非是意識所対法塵境界。前二句者非身識境。後一句非意識境。六識皆非所対之境也。Keonsyo01-21L
  (「一切法」とは、真如の中の恒沙の法これなり。「従本以来」とは始めて相を絶するに非ず。その久来清浄なることを表すなり。「離言説相〈言説の相を離れ〉」とは、像なきを以ての故に言を以て着すべからず。体はこれ生死有相に非ざるが故に言の及ばざる所なり。「離名字相〈名字の相を離れ〉」とは、これ生死名字呼法に非ざるが故に。『涅槃』に云く「涅槃は名なし。強いて与えて名を立つ」と。「離心縁相〈心縁の相を離れ〉」とは、これ意識所対の法塵の境界に非ず。前の二句は身識の境に非ず。後の一句は意識の境に非ず。六識は皆、所対の境に非ざるなり。)Keonsyo01-21L

 自下明其無自相義。畢竟平等者無有優劣也。無有変異者。明其非是変易生死。不可破壊者。明其絶断分段生死。永絶二種生死。離性平等故名無自相也。Keonsyo01-21L,22R
  (自下はその無自相の義を明かす。「畢竟平等」とは優劣あることなきなり。「無有変異」とは、それこれ変易生死に非ざることを明かす。「不可破壊」とは、それ分段生死を絶断することを明かす。永く二種の生死を絶ち、離性平等なるが故に無自相と名づくるなり。)Keonsyo01-21L,22R

 自下明其体有之義。唯是一心者表其真体。心外更無余法可得。故言一心。相無而体有也。故名真如者総結釈之。Keonsyo01-22R
  (自下はその体有の義を明かす。「唯是一心」とはその真体を表す。心の外に更に余法の得べきことなきが故に一心という。相無にして体有なり。「故名真如」とは、総結してこれを釈す。)Keonsyo01-22R

【論】以一切言説仮名無実。但随妄念不可得故。
【論】 (一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随りて不可得なるを以ての故に。)

 自下第四。明其妄法相有体無。此中有二。一者明相有。二者不可得下明其体無。Keonsyo01-22R
  (自下は第四にその妄法は相有・体無なることをを明かす。この中に二あり。一には相有を明かす。二には「不可得」の下はその体無を明かす。)Keonsyo01-22R

 以一切言説者。以言説着体。対上離言説也。仮名無実者生死法中以名呼法。定着彼法。不得呼余。無実而作名呼彼法。故有名而無実。尋名推求不得。故無実也。対離名字相也。但随妄念者。以妄故有所縁之境。生死境界但随妄生。相応不捨。対上離心縁相也。自下明其体無之義。不可得故者。生死之体迷人即有。悟解理人終日不得故言不可得也。Keonsyo01-22R,22L
  (「以一切言説」とは、「以言説」は体に着く。上の離言説に対するなり。「仮名無実」とは、生死法の中には名を以て法を呼び、定めて彼の法に着して、余を呼ぶことを得ず。無実にして名を作し彼の法を呼ぶが故に、名有りて而も実無し。名を尋ね推求するに得ず。故に無実なり。離名字相に対するなり。「但随妄念」とは、妄を以ての故に所縁の境あり。生死の境界は但、妄に随りて生じ、相応して捨てず。上の離心縁相に対するなり。自下はその体無の義を明かす。「不可得故」とは、生死の体は、迷人は即ち有。理を悟解する人は終日不得の故に「不可得」というなり。)Keonsyo01-22R,22L

【論】言真如者亦無有相。謂言説之極。因言遣言。
【論】 (真如というは、また相あることなし。謂く。言説の極。言に因りて言を遣る。)

 自下第五明其遣言。言真如者亦無有相者。重題上言也。謂言説之極者。言語道断而黙不顕。其理絶名故寄極表也。因言遣言者。上云極言。恐著理体。重遣於言也。Keonsyo01-22L
  (自下は第五にその言を遣ることを明かす。「言真如者亦無有相〈真如というは、また相あることなし〉」とは、重ねて上の言を題するなり。「謂言説之極〈謂く、言説の極〉」とは、言語道断にして黙して顕さず。それ理は名を絶つが故に極に寄せて表すなり。「因言遣言〈言に因りて言を遣る〉」とは、上に「極言〈言説之極〉」という。恐らくは理体に著せん。重ねて言を遣るなり。)Keonsyo01-22L

【論】此真如体無有可遣。以一切法悉皆真故。亦無可立。以一切法皆同如故。
【論】 (この真如の体は遣るべきあることなし。一切の法は悉くみな真なるを以ての故に。また立すべきなし。一切の法はみな同じく如なるを以ての故に。)

 自下第六釈名。論主何故名真如者。是心法中無所妄。故名之為真。故言此真如体無有可遣。妄法可遣。諸法皆真故無可遣。故与真名。是心法中。恒沙仏法無差別相。故名為如。非如生死彼此差別定性也。故言亦無可立。前明真故無有可遣。然応可存。釈此疑故言亦無可立。何故無可立者。以一切法皆同如故也。問。已非如故言同如耶。答。如理一味。就差別中明無相。故言皆同如故也。Keonsyo01-22L,23R
  (自下は第六に名を釈す。論主、何が故ぞ真如と名づくるとならば、この心法の中には無所妄なるが故に、これを名づけて真と為す。故に「此真如体無有可遣〈この真如の体は遣るべきあることなし〉」という。妄法は遣るべし。諸法は皆、真なるが故に遣るべきものなし。故に真の名を与う。この心法の中に恒沙仏法は差別の相なきが故に名づけて如と為す。生死・彼此・差別・定性の如くなるに非ざるなり。故に「亦無可立〈また立すべきなし〉」という。前に真なるが故に遣べきことあることなしと明かす。然れば応に存すべし。この疑を釈さんが故に「亦無可立」という。何が故ぞ立すべきなしとならば、「以一切法皆同如故〈一切の法はみな同じく如なるを以ての故に〉」なり。問う。已に如に非ざるが故に如に同ずというや。答う。如理一味。差別の中に就きて無相を明かす。故に「皆同如故〈みな同じく如なるを以ての故に〉」というなり。)Keonsyo01-22L,23R

【論】当知。一切法不可説不可念故。名為真如。
【論】 (当に知るべし。一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。)

 自下第七総結。当知一切法不可説不可念者。就妄法中言説心念皆不相応也。此明真如体竟也。Keonsyo01-23R
  (自下は第七に総結。「当知一切法不可説不可念」とは、妄法の中に就きて、言説・心念、皆、相応せざるなり。これ真如の体を明かし竟るなり。)Keonsyo01-23R

【論】問曰。若如是義者。諸衆生等云何随順而能得入。
【論】 (問いて曰く。もしかくの如き義ならば、諸の衆生等は、云何が随順し而して能く得入せん。)

 自下第二。明趣入方法。此中有二。一問。二答。Keonsyo01-23R
  (自下は第二に趣入の方法を明かす。この中に二あり。一に問。二に答。)Keonsyo01-23R

 問中有二。一者領前。二者諸衆生下正明問意。若如是義者。若上所言絶言離心。今者此領前也。自下正問。初表行人。後弁正問。諸衆生等者表其行人。正問中二。一修行方。二問証入方。云何随順者問修行方。何為修行真如理中而得随順也。而能得入者問証入方法。絶言離念云何而能得入真如。Keonsyo01-23R,23L
  (問の中に二あり。一には前を領す。二には「諸衆生」の下は正しく問意を明かす。「若如是義」とは、若上に言う所の絶言離心なり。今はこれ前を領すなり。自下は正問。初は行を表す人。後に正問を弁ず。「諸衆生等」とはその行人を表す。正問の中に二。一に修行方。二に証入の方を問う。「云何随順」とは修行の方を問う。何ぞ修行を為して真如の理の中に而も随順することを得るや。「而能得入」とは、証入の方法を問う。言を絶し念を離るれば、云何がして能く真如に入ることを得るや。)Keonsyo01-23R,23L

【論】答曰。若知一切法雖説無有能説可説。雖念亦無能念可念。是名随順。若離於念名為得入。
【論】 (答えて曰く。もし一切法は説くといえども能説の説くべきことあることなく、念ずといえども、また能念の念ずべきことなしと知る、これを随順と名づく。もし念を離るを名づけて得入となす。)

 就答中有二。一者答修行方法。二若離念下答趣入方。Keonsyo01-23L
  (答の中に就きて二あり。一には修行の方法を答う。二に「若離念」の下は趣入の方を答う。)Keonsyo01-23L

 若知一切法者総挙諸法也。雖説無有能説可説者。雖説是其寄相以明也。能説是其論主言也。可説是其所説法也。若有此二非是捨詮。有詮不得順理而聞。是聞慧也。雖念者寄相明也。亦無能念可念者。修行之人名為能念。所行之法名為可念。若有能所行則不成。此則思修二慧也。寄言解理亦捨此言。不得着詮会真如理。如似世間依筏度海。恒着筏中何由到地。既度海已捨筏地行。修行如此。是名随順者結答行方。Keonsyo01-23L
  (「若知一切法」とは、総じて諸法を挙ぐるなり。「雖説無有能説可説〈もし一切法は説くといえども能説の説くべきことあることなく〉」とは、説くと雖ども、それ相に寄せて以て明かすなり。「能説」はこれはそれ論主の言なり。「可説」はこれはそれ所説の法なり。もしこの二あらば、これ詮を捨つるに非ず。詮あらば理に順いて聞くことを得ず。これ聞慧なり。「雖念」とは相に寄せて明かすなり。「亦無能念可念〈また能念の念ずべきことなし〉」とは、修行の人を名づけて能念と為し、所行の法を名づけて可念と為す。もし能所あらば行は則ち成ぜず。これ則ち思修二慧なり。言に寄せて理を解するも、またこの言を捨つ。詮に著して真如の理を会することを得ず。世間に筏に依りて海を度るが如似し。恒に筏中に着せば何に由りてか地に到らん。既に海を度り已らば筏を捨てて地より行く。修行もかくの如し。「是名随順」とは、行方を結答す。)Keonsyo01-23L

 若離於念者前行已熟名為得入。暫得還失名為修行。決定離念名得入也。問曰。若離念者是修行人不。答。最大修行人以理会故皆是大行。故経中説。声聞之人無数劫中修行之福。不及菩薩一念眠福也。名為得入者此結答也。Keonsyo01-24R
  (「若離於念〈もし念を離る〉」とは、前の行、已に熟するを名づけて得入と為す。暫く得て還りて失するを名づけて修行と為す。決定して念を離るるを得入と名づくるなり。問いて曰く。「若離念」とは、これ修行の人や不や。答う。最大修行人は理を以て会するが故に皆これ大行なり。故に経の中に説かく。声聞の人の、無数劫の中に修行するの福は、菩薩の一念眠福に及ばざるなり。「名為得入〈名づけて得入となす〉」とは、これ結答なり。)Keonsyo01-24R

【論】復次真如者。依言説分別有二種義。云何為二。一者如実空。以能究竟顕実故。二者如実不空。以有自体具足無漏性功徳故。
【論】 (また次に真如とは、言説に依りて分別するに二種の義あり。云何が二となす。一には如実空。能く究竟して実を顕すを以ての故に。二には如実不空。自体あり、無漏の性功徳を具足するを以ての故に。)

 自下第二。明真如中空有二義。此中有三。一者総表章門。二者列章門。三者別釈。Keonsyo01-24R
  (自下は第二に真如の中の空有の二義を明かす。この中に三あり。一には総じて章門を表す。二には章門を列す。三には別釈。)Keonsyo01-24R

 復次真如者此上已説。欲重説故名為復次。依言説分別者。就真之中不得分言空有両義。而依名相言説故。得言空有。故依言説也。有二種義者。謂空有二義也。Keonsyo01-24R
  (「復次真如」とは、これ上に已に説く。重ねて説かんと欲するが故に名づけて「復次」と為す。「依言説分別」とは、真の中に就きて分ちて空有両義をいうことを得ず。而も名相言説に依るが故に、空有ということを得。故に「依言説〈言説に依る〉」なり。「有二種義」とは、謂く空有二義なり。)Keonsyo01-24R

 云何為二下。列章門略釈。言以能究竟顕実故者。雖夫空義是皆真空。是諸法之体。更無復染故究竟実也。以有自体具足無漏性功徳者。此心体中恒具諸法湛然満足。如妄心中具足一切諸煩悩性。彼心亦爾。具足一切三昧智慧神通解脱陀羅尼等功徳之性故言不空也。Keonsyo01-24R,24L
  (「云何為二」の下は、章門を列して略釈す。「以能究竟顕実故〈能く究竟して実を顕すを以ての故に〉」というは、それ空義はこれ皆真空なりと雖ども、これ諸法の体にして、更にまた染することなきが故に究竟実なり。「以有自体具足無漏性功徳〈自体あり、無漏の性功徳を具足するを以ての故に〉」とは、この心体の中に恒に諸法を具して湛然として満足す。妄心の中に一切諸煩悩性を具足するが如く、彼の心もまた爾り。一切の三昧・智慧・神通・解脱・陀羅尼等の功徳の性を具足するが故に「不空」というなり。)Keonsyo01-24R,24L

【論】所言空者。従本已来一切染法不相応故。謂離一切法差別之相。以無虚妄心念故。
【論】 (言の所の空とは、本よりこのかた一切の染法は相応せざるが故に。謂く。一切法の差別の相を離る。虚妄の心念なきを以ての故に。)

 所言空者以下第三別釈。先釈空門。後弁不空。就第一中有三。一者総表空体。二者当知真如以下。広釈其相。三者故説為空以下。結前所釈也。Keonsyo01-24L
  (「所言空者」というより以下は第三に別釈。先に空門を釈し、後に不空を弁ず。第一の中に就きて三あり。一には総じて空体を表す。二には「当知真如」以下は広くその相を釈す。三には「故説為空」以下は前の所釈を結するなり。)Keonsyo01-24L

 所言空者顕名也。従本已来染法不相応者正表空体。理無相故染所非応。染是理外以妄而起故。就真望妄本来無妄。何得妄立能応真乎。将妄待真。無有似妄之物。以無似有物故名為空也。非是理孤無也。何者是義。万法皆是総別無障礙。即是空体。此之真空妄法不爾。以実成仮。不得以仮成実法也。故言染法不相応也。Keonsyo01-24L,25R
  (「所言空者〈言の所の空とは〉」は名を顕すなり。「従本已来染法不相応〈本よりこのかた一切の染法は相応せざる〉」とは、正しく空の体を表す。理は無相の故に染の応ずるに非ざる所なり。染はこれ理外にして、妄を以て起こるが故に、真に就きて妄を望むに本来妄なし。何ぞ妄立ちて能く真に応ずることを得んや。妄を将いて真を待つるに、似妄の物あることなし。似有の物なきを以ての故に名づけて空と為すなり。これ理は孤無なるに非ず。何となれば、この義、万法皆これ総にして別に障礙なし。即ちこれ空体。この真空妄法は爾らず。実を以て仮を成ず。仮を以て実法を成ずることを得ざるなり。故に「染法不相応」というなり。)Keonsyo01-24L,25R

 言謂離法差別相以無虚妄心故者。釈其前中染法不相也。所以染法有其上下優劣差別不同。真法不爾。理無彼此。平等一味故名離也。尋本而言所以染法有差別者。以妄心故。所以真法無差別者。無妄心故。故言以無虚妄心念故也。顕空体竟。Keonsyo01-25R
  (「謂離法差別相以無虚妄心故〈謂く、一切法の差別の相を離る。虚妄の心念なきを以ての故に〉」というは、その前の中の染法不相を釈すなり。染法には、その上下優劣の差別の不同ある所以なり。真法は爾らず。理に彼此なし。平等一味なるが故に離と名づくるなり。本に尋ねて言わば、染法に差別ある所以は、妄心を以ての故なり。真法に差別なき所以は、妄心なきが故なり。故に「以無虚妄心念故〈虚妄の心念なきを以ての故に〉」というなり。空体を顕し竟りぬ。)Keonsyo01-25R

【論】当知真如自性。非有相。非無相。非非有相。非非無相。非有無倶相。非一相。非異相。非非一相。非非異相。非一異倶相。乃至総説。依一切衆生以有妄心。念念分別皆不相応。故説為空。若離妄心。実無可空故。
【論】 (当に知るべし。真如の自性は、有相に非ず、無相に非ず、非有相に非ず、非無相に非ず、有無倶相に非ず。一相に非ず、異相に非ず。非一相に非ず、非異相に非ず。一異倶相に非ず。乃至総じて説く。一切衆生は妄心あるを以て、念念分別するに依りて、みな相応せず。故に説きて空となす。もし妄心を離るれば、実に空ずべきことなきが故に。)

 自下第二明其空相。此中尋経本中有其六種。一者有無相対以弁空相。二者一異相対以弁。三者自他相対以弁。四者大小相対以弁。五者彼此相対以弁。六者就衆生心念以弁空相。而此論文但有前二後一句耳。略無中三。何故爾者義例。以故論主不備。経中具有。此六句中前五之中具有五句。後一句者結排浅相。Keonsyo01-25R,25L
  (自下は第二にその空相を明かす。この中、経本の中を尋ずるに、その六種あり。一には有無相対して以て空相を弁ず。二には一異相対して以て弁ず。三には自他相対して以て弁ず。四には大小相対して以て弁ず。五には彼此相対して以て弁ず。六には衆生心念に就きて以て空相を弁ず。而してこの論文は但、前の二と後の一句とあるのみ。略して中の三なし。何が故に爾るとならば、義例す。故を以て論主は備わらず。経の中には具に有り。この六句の中に、前の五の中に具に五句あり。後の一句は結して浅相を排す。)Keonsyo01-25R,25L

 言当知真如自性者。欲寄相顕故略顕。言非有相是第一句。非如虚有故言非有。言非無者是第二句。非如独無故。此是二句題其所無。非同世間有無法也。然則何物非非有相。是第三句。浄法満足故。非非無相者。是第四句。真如湛然故。此之二句顕其所有。然則有無合相可取故。是第五。非有無倶相。爾乃法相了顕然矣。余後五句其相同爾。Keonsyo01-25L,26R
  (「当知真如自性」というは、相に寄せて顕さんと欲するが故に略して顕す。「非有相」というは、これ第一句。虚有の如きに非ざるが故に非有という。「非無」というは、これ第二句。独無の如きに非ざるが故に、これはこの二句、その所無を題す。世間有無の法に同ずるに非ざるなり。然れば則ち何物か「非非有相〈非有相に非ず〉」。これ第三句。浄法満足するが故に。「非非無相〈非無相に非ず〉」とは、これ第四句。真如湛然たるが故に。この二句はその所有を顕す。然れば則ち有無合して相、取るべきが故に、これ第五「非有無倶相〈有無倶相に非ず〉」。爾れば乃ち法相了は顕然なり。余後の五句はその相同じく爾り。)Keonsyo01-25L,26R

 非一相者就実法門。非是令一一相。故名非一相。無守性故。如一常法万皆是常。万徳之外無得常体。余皆亦爾。言非異相者。非是別。故非異相也。万徳皆是同一体。故非是別体異也。非非一者。能無一性。而無不性。常義為言終日是常。非是楽義。余皆同爾。言非非異者。常義楽義非一。故名非非異也。非一異相者。是双遣也。Keonsyo01-26R
  (「非一相」とは実法門に就く。これ一ならしめて一相なるには非ず。故に「非一相」と名づく。性を守ることなきが故に、一の常法の如く万皆これ常なり。万徳の外に常体を得ることなし。余皆また爾り。「非異相」というは、これ別なるに非ず。故に異相に非ざるなり。万徳皆これ同一体の故に、これ別体異なるには非ざるなり。「非非一」とは一性なしと能〈雖?〉も、而も性ならざることなし。常の義を、言うことを為さば、終日これ常にして、これ楽の義に非ず。余皆同じく爾り。「非非異」というは常の義と、楽の義と、一に非ざるが故に「非非異」と名づくるなり。「非一異相」とは双べて遣るなり。)Keonsyo01-26R

 言非自相者。離相離性。言離相者。猶如醍醐湛然満器。而無青黄赤白等相。亦如衆生心識無大小長短等相。真法亦爾。故名離相也。言離性者。無別守性。万法之外常体匹得。故名離性。故言非自相也。非他相者。無生死相故。問曰。是互無耶。答。非是也。互無者就馬中無牛。故名馬空也。無他相者。就真法中。尋推生死法相。不可得故。故名為空。言非非自相者。雖無別自相。取万中不生滅義。以為常故。即是常相也。余皆同爾。非非他相者。常対楽。非是常相故名非非他也。非自他倶相者双遣也。Keonsyo01-26R,26L
  (非自相というは、相を離れ、性を離る。相を離るというは、猶し醍醐の、湛然として器に満ちて、青黄赤白等の相なきが如し。また衆生心識、大小長短等の相なきが如し。真法もまた爾り。故に離相と名づくるなり。離性というは別に性を守ることなし。万法の外に常体は得匹〈[ハ01]か? かた〉し。故に離性と名づく。故に非自相というなり。非他相とは生死の相なきが故に。問いて曰く。これ互に無きや。答う。是に非ざるなり。互に無ければ、馬の中に牛なきに就くが故に馬空と名づくるなり。無他相とは真法の中に就きて生死の法相を尋推するに、不可得なるが故に、故に名づけて空と為す。非非自相というは、別に自相なしと雖も、万が中の不生滅の義を取りて、以て常と為すが故に、即ちこれ常相なり。余皆同じく爾り。非非他相とは、常を楽に対す。これ常相に非ざるが故に非非他と名づくるなり。非自他倶相とは双べて遣るなり。)Keonsyo01-26R,26L

 言非大相者就仮実門。俗中仮大実小総別異故。真法不爾。無有優劣差別之相。等同一味。又可。俗中以実成仮。不得以仮成実法也。真法不爾。於一常中倶有総別。攬楽成常。名之為総。還即是常成楽之義。名之為別。何以爾者。以無常者不得成楽故。非総定大相別定小相也。非非大者恒総故也。非非小相者恒別故也。非非大小倶相者是双遣也。万法皆有総別之義。総別無障礙。是真法中真諦空也。Keonsyo01-26L,27R
  (非大相というは仮実門に就く。俗の中には仮は大、実は小にして総別異なるが故に。真法は爾らず。優劣差別の相あることなし。等同一味なり。また可〈い〉うべし。俗の中には実を以て仮を成ずるも、仮を以て実法を成ずることを得ざるなり。真法は爾らず。一常の中に於いて倶に総別あり。楽を攬〈と〉りて常を成ず。これを名づけて総と為す。還りて即ちこれ常は楽の義を成ずるなり。これを名づけて別と為す。何を以て爾とならば、無常なる者は楽を成ずることを得ざるを以ての故に。総は定めて大相、別は定めて小相なるに非ざるなり。非非大とは恒に総なるが故なり。非非小相とは恒に別なるが故なり。非非大小倶相とは、これ双べて遣るなり。万法皆、総別の義あり。総別に障礙なきは、これ真法の中の真諦の空なり。)Keonsyo01-26L,27R

 問曰。妄法如一柱中。望四微為仮。望舍為実。故一柱中総別無障礙。何故但真総別無礙耶。答曰。不例。真法之中以楽成常。還即是常。以成楽義望法之中。不得還以柱令成微。故有障礙。Keonsyo01-27R
  (問いて曰く。妄法は一柱の中の如きんば、四微に望めば仮と為り、舍に望めば実と為る。故に一柱の中に総別は障礙なし。何が故に但、真のみ総別に礙なきや。答えて曰く。例せず。真法の中に楽を以て常を成ず。還りて即ちこれ常なり。楽を成ずる義を以て法の中に望めば、還りて柱を以て微と成らしむることを得ず。故に障礙あり。)Keonsyo01-27R

 問曰。以楽成常時。以楽中別義成以総義耶。答。以別義成。Keonsyo01-27R
  (問いて曰く。楽を以て常を成ずる時に、楽中の別の義を以て、以て総の義を成ずるや。答う。別の義を以て成ず。)Keonsyo01-27R

 問。若爾別恒成。総非総成別。答。雖義爾而以楽成常。爾時常総令常。亦是別還成楽義。総非別異。別非総異。故得言無障礙也。Keonsyo01-27R,27L
  (問う。もし爾らば、別は恒に総と成り、総は別と成るに非ず。答う。義は爾なりと雖も、楽を以て常を成ず。爾の時、常は総じて常ならしむ。またこれ別は還りて楽の義を成ず。総は別異に非ず。別は総異に非ず。故に無障礙ということを得るなり。)Keonsyo01-27R,27L

 言彼此相者就心境門。非是俗中。以境異心故非此。故非相。以心異境故名非彼相也。雖是一体心義能知。法為所知。故言非非此相非非彼相。第五句双遣。同前也。以俗中一切法不得当故。第六句中総説妄心非所応也。言乃至者経本六句。略無中三。超至第六故言乃至也。総説一切衆生妄心分別皆不相応。必無像故。Keonsyo01-27L
  (彼此相というは心境門に就く。これ俗中に非ず。境は心に異なるを以ての故に此に非ず。故に相に非ず。心は境に異なるを以ての故に非彼相と名づくるなり。これ一体なりと雖ども心の義は能知、法を所知と為す。故に非此相に非ず、非彼相に非ずという。第五句は双べて遣る。前に同じきなり。俗の中に一切法は当を得ざるを以ての故に、第六句の中に総じて妄心は応ずる所に非ずと説くなり。「乃至」というは経本の六句は略して中の三はなく、超えて第六に至るが故に「乃至」というなり。総じて説くに一切衆生の妄心分別は皆、相応せず。必ず像なきが故に。)Keonsyo01-27L

 自下第三結前也。故説為空者正結前説。次下釈結。何故空者。若離妄心実無可空。真法湛然故。而将妄心所造之物不得湛故。故説為空也。Keonsyo01-27L,28R
  (自下は第三に前を結するなり。「故説為空〈故に説きて空と為す〉」とは正しく前の説を結す。次下は釈結。何が故ぞ空とならば、もし妄心を離るれば、実に空ずべきことなし。真法湛然たるが故に、而も妄心所造の物は湛うることを得ざるを将〈もっ〉ての故に、故に説きて空と為すなり。)Keonsyo01-27L,28R

【論】所言不空者。已顕法体空無妄故。即是真心常恒不変浄法満足。則名不空。亦無有相可取。以離念境界唯証相応故。
【論】 (言う所の不空とは、已に法体空にして妄なきことを顕すが故に。即ちこれ真心常なり恒なり不変なり浄法満足す。則ち不空と名づく。また相の取るべきものあることなし。離念の境界は、ただ証と相応するを以ての故に。)

 自下第二釈不空章門。所言不空者是顕首也。此中有三。一者釈不空義。二者亦無有相以下。遣着。三者唯証以下取人以証。Keonsyo01-28R
  (自下は第二に不空章門を釈す。「所言不空」とは、これ首を顕すなり。この中に三あり。一には不空の義を釈す。二には「亦無有相」より以下は著を遣る。三には「唯証」より以下は人を取りて以て証す。)Keonsyo01-28R

 已者其也。其法体空無妄故。即真心常住也。非但一心。恒沙浄法満足無欠。故名不空也。Keonsyo01-28R
  (「已」は其なり。其〈そ〉の法体は空にして妄なきが故に、即ち真心常住なり。但一心のみに非ず。恒沙浄法満足して欠ることなきが故に不空と名づくるなり。)Keonsyo01-28R

 然既法満足似有所相。故次遣著。亦無有相可取也。雖体有而非有相也。何故無相者故言離念境界也。Keonsyo01-28R
  (然るに既に法満足して、所相あるに似たり。故に次に著を遣る。また相の取るべきことあることなきなり。体有なりと雖も、相あるに非ざるなり。何が故に無相とは、故に「離念境界」というなり。)Keonsyo01-28R

 自下第三以証唯証相応故也。非証人者言説所不及証人唯知耳。総而為言。此真識体唯是法界。恒沙仏法同体縁集。互以相成不離不脱不断不異。良以諸法同体縁集。互相成故無有一法別守自性。雖無守性而無不性無有守性。即是如如一実之門。而無不性即是真実常楽浄等法界門也。体性常然古今不変。名湛然常也。Keonsyo01-28R,28L
  (自下は第三に、証は唯〈ただ〉証とのみ相応するを以ての故なり。証人に非ずんば言説の及ばざる所、証人は唯〈ただ〉知るのみ。総じて言を為せば、この真識の体は唯これ法界恒沙の仏法、同体縁集して、互に以て相い成じて離せず、脱せず、断ぜず、異せず。良に以れば諸法同体縁集して、互に相い成ずるが故に一法として別に自性を守ることあることなし。性を守ることなしと雖も、而も性ならざることなく、性を守ることあることなし。即ちこれ如如一実の門なり。而も性ならざることなし。即ちこれ真実常楽浄等の法界の門なり。体性常然として古今変らざるを、湛然常と名づくるなり。)Keonsyo01-28R,28L

【論】心生滅者。依如来蔵故有生滅心。
【論】 (心生滅とは、如来蔵に依るが故に生滅の心あり。)

 自下第二釈心生滅門。此中有二。一者略表其体。二此識有二。以下広説其義。Keonsyo02-01R
  (自下は第二に心生滅門を釈す。この中に二あり。一には略してその体を表す。二には「此識有二〈この識に二種の義あり〉」より以下は広くその義を説く。

 心生滅者顕名也。依如来蔵者是第八識也。有生滅心者是第七識也。此言依者同時相依。如影依形。此之二句妄有所以。此妄之中随妄転流名第八識。下正表体有三句。Keonsyo02-01R
  (「心生滅」とは名を顕すなり。「依如来蔵」とはこれ第八識なり。「有生滅心」とはこれ第七識なり。ここに「依」というは同時相依りて、影の形に依るが如し。この二句は妄有の所以なり。この妄の中に妄に随いて転流するを第八識と名づく。下に正しく体を表すに三句あり。)Keonsyo02-01R

【論】所謂不生不滅与生滅和合。非一非異。名為阿梨耶識。
【論】 (謂う所の不生不滅と生滅と和合して一にあらず、異にあらず。名づけて阿梨耶識となす。)

 所謂不生不滅者其体常住。随縁成妄。而体非無常。如上説也。此之一句正表体常。与生滅和合者随縁令妄。和合如一。此之一句明随妄義。非一者性常住故。非異者令和合故。此之二句弁随縁相。以此三句弁第八識也。名阿梨耶識者是梵語也。此翻名為無失没識。雖在生死性不失没。故名無没。名随義翻名為宗識。妄所依故亦名蔵識。備有一切諸浄法故。此等名者経論非一。而非正翻也。Keonsyo02-01R,01L
  (「所謂不生不滅」とは、その体常住、縁に随いて妄を成ず。而して体は無常に非ず。上に説くが如きなり。この一句は正しく体常を表す。「与生滅和合〈生滅と和合して〉」とは縁に随いて妄をして和合して一の如くあらしむ。この一句は妄に随う義を明かす。「非一」とは性常住なるが故に。「非異」とは和合せしむるが故に。この二句は随縁の相を弁ず。この三句を以て第八識を弁ずるなり。「名阿梨耶識」とはこれ梵語なり。ここには翻じて名づけて無失没識となす。生死に在りと雖ども性は失没せざるが故に無没と名づく。名は義に随いて翻せば、名づけて宗識となす。妄の所依なるが故に。また蔵識と名づく。備さに一切諸の浄法あるが故に。これ等の名は経論に一に非ず。而も正翻に非ざるなり。)Keonsyo02-01R,01L

【論】此識有二種義。能摂一切法。生一切法。
【論】 (この識に二種の義あり。よく一切の法を摂し、一切の法を生ず。)

 自下第二広釈其義。此中有三。一者弁其解惑根源。二者復次生滅因縁相者以下。真妄依持之義。三者復次有四種法以下。弁其染浄熏習之能。就初中有三。一者挙数略釈。二者云何以下。立列章門。三者所言覚義以下。広釈章門。Keonsyo02-01L
  (自下は第二に広くその義を釈す。この中に三あり。一にはその解惑根源を弁ず。二には「復次生滅因縁相者」より以下は真妄依持の義。三には「復次有四種法」より以下はその染浄熏習の能を弁ず。初の中に就きて三あり。一には数を挙げて略して釈す。二には「云何」より以下は章門を立列す。三には「所言覚義」より以下は広く章門を釈す。)Keonsyo02-01L

 言此識有二種義者。是挙数也。言能摂能生一切法者。是略釈也。生死涅槃之根源故。是故名為摂生義也。Keonsyo02-01L
  (「此識有二種義〈この識に二種の義あり〉」というは、これ数を挙ぐるなり。「能摂能生一切法〈一切の法を摂し、一切の法を生ず〉」というは、これ略して釈すなり。生死涅槃の根源なるが故に、この故に名づけて摂生の義となすなり。)Keonsyo02-01L

【論】云何為二。一者覚義。二者不覚義。
【論】 (云何が二となす。一には覚の義。二には不覚の義。)

 自下列章門。覚者解也。非是修習生用為解故名解也。斯乃異於木石等。故心神為解。又復対於無明闇。故名之為解。言不覚者此是惑也。無明七識以為不覚。Keonsyo02-01L,02R
  (自下は章門を列す。覚とは解なり。これ修習して生じて用いて解と為るには非ざるが故に解と名づく。これ乃ち木石等に異するが故に心神を解と為す。また無明の闇に対するが故に、これを名づけて解と為す。「不覚」というは、これはこれ惑なり。無明七識を以て不覚と為す。)Keonsyo02-01L,02R

 自下第三広釈章門。此中有三。一者釈覚章門。二者所言不覚義以下。釈不覚章門。三者復次覚与不覚以下。料簡同異。所以料簡者。於一体中有覚不覚二義相返。是故第三料簡同異。Keonsyo02-02R
  (自下は第三に広く章門を釈す。この中に三あり。一には覚章門を釈す。二には「所言不覚義」より以下は不覚章門を釈す。三には「復次覚与不覚」より以下は同異を料簡す。料簡する所以は一体の中に於いて覚不覚の二義相返することあり。この故に第三に同異を料簡す。)Keonsyo02-02R

 又復亦可上三句文此中広釈。言覚義者釈上略中不生不滅。不覚義者釈上略中与生滅和合句中生滅義也。言同異者釈上略中非一非異也。Keonsyo02-02R
  (また上の三句の文をこの中に広く釈するなるべし。「覚義」というは上の略の中の「不生不滅」を釈す。「不覚義」とは上の略の中の「与生滅和合」の句の中の生滅の義を釈するなり。同異というは上の略の中の「非一非異」を釈するなり。)Keonsyo02-02R

 就第一中有三。一者表其八識生死之根源。二者復次本覚随染以下。表其八識仏果根源。三者復次覚体相以下。総表理体。Keonsyo02-02R,02L
  (第一の中に就きて三あり。一にはその八識は生死の根源なることを表す。二には「復次本覚随染」より以下は、その八識は仏果の根源なることを表す。三には「復次覚体相」より以下は、総じて理体を表す。)Keonsyo02-02R,02L

 就第一中有三。一者顕其覚体。二者又以覚心源以下。明究竟非竟。究竟是其真照行也。非竟是其縁照行也。三者是故一切衆生以下。総結真妄。Keonsyo02-02L
  (第一の中に就きて三あり。一にはその覚体を顕す。二には「又以覚心源」より以下は、究竟と非竟とを明かす。究竟はこれその真照行なり。非竟はこれその縁照行なり。三には「是故一切衆生」より以下は、真妄を総結す。)Keonsyo02-02L

 就第一中有二。一者明其本覚是真照体。二者始覚者以下。明其始覚是真照用。此用是中非宗而対来耳。Keonsyo02-02L
  (第一の中に就きて二あり。一にはその本覚はこれ真照の体なることを明かす。二には「始覚者」より以下は、その始覚はこれ真照の用なることを明かす。この用はこの中に宗に非ざれども而も対して来るのみ。)Keonsyo02-02L

 就初中有二。一者出体。二者依此法身以下。釈名。就初中有二。一者正出其体。二者離念相者以下。釈其義。Keonsyo02-02L
  (初の中に就きて二あり。一には体を出だす。二には「依此法身」より以下は、名を釈す。初の中に就きて二あり。一には正しくその体を出だす。二には「離念相者」より以下は、その義を釈す。)Keonsyo02-02L

【論】所言覚義者。謂心体離念。離念相者。等虚空界無所不遍。法界一相即是如来平等法身。依此法身説名本覚。何以故。本覚義者対始覚義説。以始覚者即同本覚。
【論】 (言う所の覚の義とは、謂く、心体は念を離る。離念の相は虚空界に等しく遍ぜざる所なく、法界一相、即ちこれ如来の平等法身。この法身に依りて説きて本覚と名づく。何を以ての故に。本覚の義は始覚の義に対して説く。始覚は即ち本覚に同ずるを以てなり。)

 所言覚義者題名也。謂心体者是第八識。非色無作。諸心中実故名為体。言離念者絶名相境界。超出妄想故名離念。Keonsyo02-02L
  (「所言覚義」とは名を題するなり。「謂心体」とはこれ第八識なり。色無作に非ず、諸心の中実なるが故に名づけて体と為す。「離念」というは名相の境界を絶し、妄想を超出するが故に「離念」と名づく。)Keonsyo02-02L

 自下第二釈義。離念相者顕名也。言等虚空界者非是太虚。此是真実法性虚空也。太虚空者此是事無。雖今無有生滅之相終帰尽滅。故名無常。豈真識理終滅空等乎。理法之中有真空真有。然心非空外。空非心外。心非空外故等虚空界。遍一切処。空非心外故浄法湛然。故曰真空。Keonsyo02-03R
  (自下は第二に義を釈す。「離念相」とは名を顕すなり。「等虚空界」というは、これ太虚に非ず。これはこれ真実法性の虚空なり。太虚空は、これはこれ事無なり。今は生滅の相あることなしと雖ども、終には尽滅に帰す。故に無常と名づく。あに真識の理は終に滅して空と等しからんや。理法の中に真空真有あり。然るに心は空の外に非ず。空は心の外に非ず。心は空の外に非ざるが故に虚空界に等しく、一切処に遍ず。空は心の外に非ざるが故に浄法湛然たり。故に真空という。)Keonsyo02-03R

 問曰。有法還滅可爾。太虚無法。云何更滅。答。以有対故是無無滅耳。若理尋言以因感故。因力滅時終帰滅尽。感因物者有無斉等。豈無無滅。Keonsyo02-03R
  (問いて曰く。有法、還りて滅するは爾るべし。太虚は無法なり。云何が更に滅せん。答う。有対なるを以ての故に、これ無滅なきのみ。もし理をもって尋ね言わば、因を以て感ずるが故に、因力滅する時、終に滅尽に帰す。因を感ずる物は有無斉等なり。あに無滅なからん。)Keonsyo02-03R

 問。若無常者何故涅槃経中。諸常法中虚空為最。答。彼経中最者今我言法性虚空是也。何故為最者。諸仏行体皆本有。故不滅常也。法性之理不生不滅故。湛然常故言為最。何得言乎仏得常中太虚為最。太虚流無。仏常具得。汝所言者於諸明中蛍虫為最。Keonsyo02-03R,03L
  (問う。もし無常ならば、何が故に『涅槃経』の中に「諸の常法の中に虚空を最と為す」というや。答う。彼の経の中に、最とは今我が法性虚空という、これなり。何が故ぞ最と為すとは、諸仏の行体は皆本有なるが故に滅せずして常なり。法性の理は不生不滅の故に、湛然常なるが故に、言いて最と為す。何ぞ仏は常中に太虚を最と為すということを得んや。太虚は無に流る。仏は常に具得なり。汝が言う所は諸明の中に於いて蛍虫を最と為すにひとし。)Keonsyo02-03R,03L

 問曰。云何得知太虚滅耶。文殊師利問菩提論中問此事能。仏告。太虚滅者仏眼所見。文殊白仏。若無虚空諸菩薩等。依何住而得修行。仏告文殊。依法性虚空住。此為最勝。以此文証定知。太虚是滅法也。既言滅者明知無常也。Keonsyo02-03L
  (問いて曰く。云何ぞ太虚滅を知ることを得るや。『文殊師利問菩提論』の中にこの事能を問う「仏告げたまわく。太虚の滅すとは仏眼の見る所なり。文殊、仏に白さく。もし虚空なくば諸菩薩等は何に依りてか住して修行することを得ん。仏、文殊に告げたまわく。法性虚空に依りて住す。これを最勝と為す」。この文を以て証するに、定んで知りぬ、太虚はこれ滅法なり。既に滅といわば、明らかに知りぬ無常なり。)Keonsyo02-03L

 言法界者。諸種種法差別不同。名之為界。言一相者心是一相也。言即是如来平等法身者。非但衆生身中之理。諸仏以此為体原故。故言即是也。Keonsyo02-03L,04R
  (「法界」というは、諸の種種法差別して同じからず。これを名づけて界と為す。「一相」というは、心はこれ一相なり。「即是如来平等法身」というは、ただ衆生身中の理に非ず。諸仏はこれを以て体原と為すが故に、故に「即是」というなり。)Keonsyo02-03L,04R

 自下第二釈名。此中有二。一者立名。二者何以故下。釈名所以。言依此法身説名本覚者。以名寄法。自下第二釈名。何以故者。立本所以也。対始覚義説者。修習以後起始有用名始覚也。此覚本無今有。以此対故名之為本。Keonsyo02-04R
  (自下は第二に名を釈す。この中に二あり。一には名を立つ。二には「何以故」より下は、名の所以を釈す。「依此法身説名本覚〈この法身に依りて説きて本覚と名づく〉」というは、名を以て法に寄す。自下は第二に名を釈す。「何以故」とは、立本の所以なり。「対始覚義説〈始覚の義に対して説く〉」とは、修習以後に始有の用を起こすを始覚と名づくるなり。この覚は本無くして今有り。これを以て対するが故に、これを名づけて本と為す。)Keonsyo02-04R

【論】始覚義者。依本覚故而有不覚。依不覚故説有始覚。
【論】 (始覚の義とは、本覚に依るが故に不覚あり。不覚に依るが故に始覚ありと説く。)

 自下第二釈始覚中有二。一者覆体即同。本覚隠顕為異。蔵識在染名之隠。蔵識在果名之顕。非是先染後随対治為浄法也。故勝鬘言。隠為如来蔵。顕為法身。此之体義非用義也。二者釈義。何故同一本覚復名始覚者。依本覚故而有不覚。無明之心覆隠真実。而依不覚起縁照解。対治衆惑然後方顕。故名始覚。Keonsyo02-04R,04L
  (自下は第二に始覚を釈する中に二あり。一には覆体即同。本覚は隠顕して異と為る。蔵識の、染に在る、これを隠と名づく。蔵識の、果に在る、これを顕と名づく。これ先染、後随対治して浄法と為るに非ざるなり。故に『勝鬘』に言く「隠れたるを如来蔵と為し、顕れたるを法身と為す」。これはこれ体の義にして、用の義に非ざるなり。二には義を釈す。何が故に同一本覚をまた始覚と名づくるとは、「依本覚故而有不覚〈本覚に依るが故に不覚あり〉」。無明の心は真実を覆隠す。而して不覚に依りて縁照の解を起こし、衆惑を対治して、然る後に方に顕る。故に始覚と名づく。)Keonsyo02-04R,04L

【論】又以覚心源故名究竟覚。不覚心源故非究竟覚。
【論】 (また心源を覚するを以ての故に究竟覚と名づく。心源を覚さざるが故に究竟覚にあらず。)

 自下第二明其究竟非究竟義。此中有三。一者総釈二義。二者此義云何以下釈其相。三者是故修多羅以下引経証成。Keonsyo02-04L
  (自下は第二にその究竟と非究竟との義を明かす。この中に三あり。一には総じて二義を釈す。二には「此義云何」より以下はその相を釈す。三には「是故修多羅」より以下は経を引きて証成す。)Keonsyo02-04L

 言覚心原故名究竟者真照解也。修成仏故名究竟覚。言非覚原故非究竟者。是縁智解終心之中。以滅已故非究竟覚也。Keonsyo02-04L
  (「覚心原故名究竟〈心源を覚するを以ての故に究竟覚と名づく〉」とは真照解なり。修して成仏するが故に究竟覚と名づく。「非覚原故非究竟〈心源を覚さざるが故に究竟覚に非ず〉」というは、これ縁智解、終心の中に滅を以て已るが故に究竟覚に非ざるなり。)Keonsyo02-04L

【論】此義云何。如凡夫人覚知前念起悪故。能止後念令其不起。雖復名覚即是不覚故。
【論】 (この義云何。凡夫の人の如き、前念の起悪を覚知するが故に、能く後念を止めて、それをして起こさざらしむ。また覚と名づくといえども即ちこれ不覚なるが故に。)

 自下広釈其相。此中有二。一者釈不覚竟。二者得見心下釈究竟覚。Keonsyo02-04L
  (自下は広くその相を釈す。この中に二あり。一には不覚竟を釈し、二には「得見心」より下は究竟覚を釈す。)Keonsyo02-04L

 就初中拠四位弁。雖復覚不名為覚。言凡夫之人前念起悪復念不起不名覚者。是第一位。前念四相已謝。至後念中方乃覚悟。以無解故猶不名覚。Keonsyo02-04L,05R
  (初の中に就きて四位に拠りて弁ず。また覚すと雖ども名づけて覚と為さず。凡夫の人は前念に悪を起こすも、また念じて起こさざるを覚と名づけずというは、これ第一位なり。前念の四相は已に謝して、後念の中に至りて方に乃ち覚悟す。解なきを以ての故に、なお覚と名づけず。)Keonsyo02-04L,05R

【論】如二乗観智初発意菩薩等。覚於念異念無異相。以捨麁分別執著相故。名相似覚。
【論】 (二乗の観智、初発意の菩薩等の如きは、念異を覚して、念に異相なし。麁分別の執著の相を捨するを以ての故に相似覚と名づく。)

 如二乗初発心菩薩。是第二位。覚於念異念無異相者。於四相中異相中悟以解少故猶不名覚。初発意者種性也。又亦可異相無異相者。心外異心。或中無異相。故名念異相也。Keonsyo02-05R
  (二乗初発心の菩薩の如きはこれ第二位なり。「覚於念異念無異相〈念異を覚して、念に異相なし〉」とは、四相の中に於いて、異相の中の悟は解少なるを以ての故に、なお覚と名づけず。「初発意」とは種性なり。また異相無異相とは、心外の異心なるべし。或いは中に異相なきが故に念異相と名づくるなり。)Keonsyo02-05R

 云何観行。有三種解。一者生空観。観察但陰無我人故。二者法空観。観法虚仮無自性故。三者如観。観察諸法非有非無。云何観法非有非無。見一切法猶如幻化。有法幻故無法為有。有即非有。無法幻故有法為無。無即非無。然則説此幻有無為非有無。亦無非有非無可得。還即説此非有非無為有無故。故有無之相亦不可得。進退推求無法可取。境界既然。心想亦爾。Keonsyo02-05R,05L
  (云何が観行す。三種の解あり。一には生空観。ただ陰に我人なしと観察するが故に。二には法空観。法は虚仮にして自性なしと観ずるが故に。三には如観。諸法は有に非ず無に非ずと観察す。云何が法は有に非ず無に非ずと観ずるや。一切の法を見るに、猶し幻化の如し。有法幻なるが故に無法を有と為す。有は即ち有に非ず。無法幻なるが故に有法を無と為す。無は即ち無に非ず。然れば則ちこの幻は有無を説きて有無に非ずと為す。また非有非無は得べきことなし。還りて即ちこの非有非無を説きて有無と為すが故に、故に有無の相もまた得べからず。進退推求するに法の取るべきなし。境界既に然り。心想もまた爾り。)Keonsyo02-05R,05L

 此三観中前二観者是二乗所観。後一観者菩薩所観。若通論之三乗皆観三種観也。以此観故捨麁分別執着相也。此十使本末取性無明及計名字相也。故下文言執相応染二乗与信地菩薩永尽也。種性菩薩為信地矣。Keonsyo02-05L
  (この三観の中に前の二観はこれ二乗の所観、後の一観は菩薩の所観なり。もし通じてこれを論ぜば三乗は皆、三種の観を観ずるなり。この観を以ての故に麁分別執着の相を捨つるなり。この十使は本末取性無明及び計名字の相なり。故に下の文に執相応染というは二乗と信地の菩薩と永く尽くすなり。種性の菩薩を信地と為す。)Keonsyo02-05L

【論】如法身菩薩等。覚於念住念無住相。以離分別麁念相故名随分覚。
【論】 (法身の菩薩等の如きは、念住を覚して、念に住相なし。分別麁念の相を離るるを以ての故に随分覚と名づく。)

 言如法身菩薩於念住念無住相者。是第三初地以上位。於四相中住相時。悟一切諸法住無住相也。Keonsyo02-05L
  (「如法身菩薩於念住念無住相〈法身の菩薩等の如きは、念住を覚して、念に住相なし〉」というは、これ第三に初地以上の位なり。四相の中の住相の時に於いて、一切の諸法は住に住相なしと悟るなり。)Keonsyo02-05L

 云何観行。有三種観。一者妄相観。観察三界虚偽之相唯従心起。如夢所見有無有想。心外畢竟無法可得。二者妄想観。観妄想心虚構無自体依真而立。如波依水。如迷依方。三者真実観。観一切法唯是真実縁起集成。真外畢竟無有一法可起妄想。既無一法可起妄想。妄想之心理亦無之。以此観故。離分別麁念相者。謂分別事識解也。以初地中六識解惑皆悉尽也。Keonsyo02-05L,06R
  (云何が観行す。三種の観あり。一には妄相観。三界虚偽の相は、唯、心より起こると観察す。夢の所見のあれども、想あることなきが如く、心外に畢竟じて法の得べきものなし。二には妄想観。妄想心を観ずるに虚構にして自体なく、真に依りて立つ。波の、水に依るが如く、迷の、方に依るが如し。三には真実観。一切法は唯これ真実縁起の集成にして、真の外に畢竟じて、一法の、妄想を起こすべきものあることなく、既に一法の、妄想を起こすべきものあることなく、妄想の心理はまたこれなしと観ず。この観を以ての故に、「離分別麁念相〈分別麁念の相を離る〉」とは、謂く分別事識解なり。初地の中に六識解惑、皆悉く尽くるを以てなり。)Keonsyo02-05L,06R

 云何得知者。楞伽経言。初地菩薩得二十五三昧。離二十五有。二十五有是分段三界身。遠離彼故名捨六識。涅槃経中亦同此説。故為出世間也。又大智論宣説。入初地菩薩位。生菩薩家。捨離肉身得法性身。此亦是其離六識也。若論残習十地乃尽。Keonsyo02-06R
  (云何が知ることを得るとならば、『楞伽経』に言く「初地の菩薩は二十五三昧を得、二十五有を離る。二十五有はこれ分段三界の身なり。彼を遠離するが故に六識を捨つと名づく」。『涅槃経』の中にまたこの説に同じ。故に出世間と為るなり。また『大智論』に入初地菩薩の位を宣説すらく「菩薩の家に生まれて、肉身を捨離し、法性身を得」と。これまたこれその六識を離るなり。もし残習を論ぜば十地に乃ち尽くす。)Keonsyo02-06R

 問曰。六識尽在初地。初地以上使無六識。云何得知見聞覚耶。答曰。雖無事相六識猶有七識縁照無漏所得法身。及与真識縁起法身眼耳等識。是故用此見聞覚也。Keonsyo02-06R,06L
  (問いて曰く。六識の尽くることは初地に在らば、初地以上には六識なからしむ。云何が知見聞覚することを得るや。答えて曰く。事相の六識なしと雖ども、猶し七識縁照無漏所得の法身と、及び真識縁起法身の眼耳等識とあり。この故にこれを用いて見聞覚するなり。)Keonsyo02-06R,06L

 問曰。若以縁照法身見聞覚知。与前六識有何差別。釈曰。前六是其事識。分別事相心外取法。縁照法身所見聞等知外無法。一切悉是自心所起。如夢所見。於自心相分別照知有異也。Keonsyo02-06L
  (問いて曰く。もし縁照法身を以て見聞覚知せば、前の六識と何の差別あるや。釈して曰く。前の六はこれその事識にして事相を分別して心外に法を取る。縁照法身の所見聞等は外に法なく、一切悉くこれ自心の所起にして、夢の見る所の如く、自心相に於いて分別照知して異ありと知るなり。)Keonsyo02-06L

 問。真識見聞与縁照知有何差別。釈曰。七識縁照身者。但於妄想縁起法中分別縁知。又於真法分別縁法。不能離縁。真法身者遠妄想心。照明清浄法界顕自心源。名為見聞。非分別知。Keonsyo02-06L
  (問う。真識の見聞と縁照の知と何の差別あるや。釈して曰く。七識縁照身とは、ただ妄想縁起の法の中に於いて分別して縁じて知る。また真法に於いて縁法を分別して、縁を離るること能わず。真法身は妄想の心を遠ざけ、清浄法界を照明し、自の心源を顕すを名づけて見聞と為す。分別知に非ず。)Keonsyo02-06L

【論】如菩薩地尽。満足方便一念相応。覚心初起心無初相。以遠離微細念故。
【論】 (菩薩地尽の如きは、方便を満足して一念相応し、心の初起を覚して、心に初相なし。微細の念を遠離するを以ての故に。)

 言如菩薩地尽満足方便者。是第四位。第十地之満心也。言初起心無初相者。於四相中初生相時。悟一切法従本以来本無有生。Keonsyo02-06L,07R
  (「如菩薩地尽満足方便〈菩薩地尽の如きは、方便を満足し〉」というは、これ第四位。第十地の満心なり。「初起心無初相」というは、四相の中に於いて、初の生相の時、一切の法は本よりこのかた本〈もと〉生あることなしと悟る。)Keonsyo02-06L,07R

 云何観行。有二種観。一者息相観。生死涅槃本是真識妄随所起。証実返源本来無妄。妄想既無。焉有随妄生死涅槃法相可得。名息相観。二者実性観。観彼真識如来蔵体。唯是法界恒沙仏法同体縁集。互以相成不離不脱不断不異。良以諸法同体縁集。互以相成故無有一法別守自性。雖無一性而無不性無有守性。即是如如一実之門。而無不性即是真実常楽浄等法界門也。体性常然古今不変。名実性観也。Keonsyo02-07R
  (云何が観行す。二種の観あり。一には息相観。生死涅槃は本これ真識妄随の所起なり。実を証し源に返るに本よりこのかた妄なし。妄想既になし。焉ぞ随妄生死涅槃法相の得べきかあらん。息相観と名づく。二には実性観。彼の真識は如来蔵の体、唯これ法界恒沙の仏法、同体縁集し、互に以て相い成じて、離せず、脱せず、断ぜず、異せずと観ず。良以〈まことにおもんみ〉れば諸法は同体縁集して、互に以て相い成ずるが故に、一法として別に自性を守ることあることなし。一性なしと雖ども性ならざることなく、性を守ることあることなきは、即ちこれ如如一実の門なり。而して性ならざることなきは、即ちこれ真実常楽浄等の法界門なり。体性常然として古今に変らざるを実性観と名づくるなり。)Keonsyo02-07R

 言遠離微細念者。是七識縁智也。無明滅故。縁智即滅。Keonsyo02-07R,07L
  (「遠離微細念〈微細の念を遠離す〉」というは、これ七識縁智なり。無明滅するが故に、縁智も即ち滅す。)Keonsyo02-07R,07L

 問曰。修習而得解者何故空滅乎。答曰。是妄解故不得成仏。解故断惑体。是妄解故終帰滅亡。云何得知明解随滅。涅槃経四相品中言。譬如男女大小器中。悉満中油燃灯。油尽明亦随滅。灯爐猶在下。合中言。油尽者喩煩悩滅。明喩智慧。慧雖滅已猶法身存。此文顕矣。終心之中皆悉滅。故名非究竟覚也。Keonsyo02-07L
  (問いて曰く。修習して解を得るは何が故ぞ空滅するや。答えて曰く。これ妄解の故に成仏することを得ず。解の故に惑の体を断ず。これ妄解の故に終に滅亡に帰す。云何ぞ明解随いて滅すと知ることを得るや。『涅槃経』の「四相品」の中に言わく「譬えば男女大小器の中に悉く中に油を満たして灯を燃す。油尽きなば明もまた随いて滅するも、灯爐はなお下に在るが如し」。合の中に言く「油尽くとは煩悩の滅に喩う。明は智慧に喩う。慧は滅し已ると雖ども、なお法身は存す」。この文は顕なり。終心の中に皆悉く滅す。故に非究竟覚と名づくるなり。)Keonsyo02-07L

【論】得見心性心即常住。名究竟覚。
【論】 (心性を見ることを得て、心は即ち常住なるを究竟覚と名づく。)

 自下第二釈究竟覚。言得見心性者。謂真識也。心即常住者。始覚是也。名究竟覚者。覚心源故修帰円覚也。Keonsyo02-07L
  (自下は第二に究竟覚を釈す。「得見心性〈心性を見ることを得て〉」というは、謂く真識なり。「心即常住〈心は即ち常住〉」とは、始覚これなり。「名究竟覚〈究竟覚と名づく〉」とは、心源を覚するが故に円覚に修帰するなり。)Keonsyo02-07L

【論】是故修多羅説。若有衆生能観無念者。則為向仏智故。
【論】 (この故に修多羅に、もし衆生ありて能く無念を観ずる者は、則ち仏に向かう智となすと説くが故に。)

 自下第三引説証成。此中有二。一者正証非究竟。二者又心起下証究竟覚。Keonsyo02-07L
  (自下は第三に説を引きて証成す。この中に二あり。一には正しく非究竟を証す。二には「又心起」より下は究竟覚を証す。)Keonsyo02-07L

 是故修多羅説者是楞伽経也。能観無念者。七識縁智名為念也。無七識念為向仏智也。此是上中証非竟覚也。Keonsyo02-07L,08R
  (「是故修多羅説」とは、これ『楞伽経』なり。「能観無念〈能く無念を観ず〉」とは、七識縁智を名づけて念と為すなり。七識の念なきを仏智に向かうと為すなり。これはこれ上の中、非竟覚を証するなり。)Keonsyo02-07L,08R

【論】又心起者。無有初相可知。而言知初相者即謂無念。
【論】 (また心起とは、初相の知るべきことあることなし。而して初相を知るというは、即ち謂く無念なり。)

 又心起者是真始覚心也。無初相即謂無念者。以始覚起時一切妄法無有可知。而言知者無念為知。此之証究竟覚也。Keonsyo02-08R
  (「又心起」とはこれ真の始覚心なり。「無初相即謂無念」とは、以て始覚起こる時、一切の妄法は知るべきことあることなし。而して知というは、無念を知と為す。これはこれ究竟覚を証するなり。)Keonsyo02-08R

【論】是故一切衆生不名為覚。以従本来念念相続未曽離念故。説無始無明。
【論】 (この故に一切衆生は名づけて覚となさず。本よりこのかた念念相続して、未だ曽て念を離れざるを以ての故に、無始の無明と説く。)

 自下第三総結。此中有二。一結不覚。二者以無念等故以下結前覚義。就第一中有二。一者結前凡夫不覚。二者若得無念以下結前三位非究竟覚。Keonsyo02-08R
  (自下は第三に総結。この中に二あり。一には不覚を結す。二には「以無念等故」より以下は前の覚の義を結す。第一の中に就きて二あり。一には前の凡夫不覚を結す。二には「若得無念」より以下は前の三位は究竟覚に非ざることを結す。)Keonsyo02-08R

 初中有三。一者総結。是故一切衆生不名為覚也。二者釈所以。本来念念未曾離故也。念者分別執著念也。三者重結。故説無始無明是也。本来不離故名無始也。Keonsyo02-08R,08L
  (初の中に三あり。一には総結。この故に一切衆生を名づけて覚と為ざるなり。二には所以を釈す。本よりこのかた念念、未だ曾て離れざるが故なり。「念」とは分別執著の念なり。三には重ねて結す。故に「説無始無明〈無始の無明と説く〉」これなり。本よりこのかた離れざるが故に「無始」と名づくるなり。)Keonsyo02-08R,08L

【論】若得無念者。則知心相生住異滅。
【論】 (もし無念を得れば、則ち心相の生住異滅を知る。)

 自下第二結前三位。若得無念知心生住異滅是也。Keonsyo02-08L
  (自下は第二に前の三位を結す。もし無念を得れば、心の生住異滅を知る、これなり。)Keonsyo02-08L

【論】以無念等故。而実無有始覚之異。以四相倶時而有。皆無自立。本来平等同一覚故。
【論】 (無念等しきを以ての故に、而して実に始覚の異あることなし。四相倶時にして有り、みな自立なく、本来平等にして同一覚なるを以ての故に。)

 自下第二結前覚義。此中有二。一者結前始覚。二者以四相倶時以下結上本覚。以無念故。実無始覚之異者。以不覚念覆故。顕時名始覚。如上始覚即同本覚。以本覚異無有始覚。自下結本覚。以四相倶時而有者。如毘曇家義。四相倶一時用在前後。若成実義四相前後非一時也。此中似数家義也。皆無自立者。如夢所見無実体。本来平等同一覚故者是本覚也。上来弁生死根源竟也。Keonsyo02-08L
  (自下は第二に前の覚の義を結す。この中に二あり。一には前の始覚を結す。二には「以四相倶時」より以下は上の本覚を結す。「以無念故。実無始覚之異〈無念等しきを以ての故に、而して実に始覚の異あることなし〉」とは、不覚の念覆うを以ての故に顕るる時を始覚と名づく。上の始覚、即ち本覚に同ずるが如し。本覚異るを以て始覚あることなし。自下は本覚を結す。「以四相倶時而有」とは、毘曇家の義の如きは、四相は倶に一時にして用は前後在り。もし成実の義は、四相前後にして一時に非ざるなり。この中は数家の義に似るなり。「皆無自立〈みな自立なく〉」とは、夢の所見の、実体なきが如し。「本来平等同一覚故」とは、これ本覚なり。上来は生死の根源を弁じ竟るなり。)Keonsyo02-08L

【論】復次本覚随染分別。生二種相。与彼本覚不相捨離。
【論】 (また次に本覚随染を分別するに二種の相を生ず。彼の本覚と相い捨離せず。)

 自下第二明仏果根源。此中有二。一者総釈。二者云何以下別釈。Keonsyo02-08L
  (自下は第二に仏果の根源を明かす。この中に二あり。一には総釈。二には「云何」より以下は別釈。Keonsyo02-08L

 復次本覚随染分別生二種相者。法報両種是也。同一覚而随染隠顕。名之為法。此真識中本無今生義。名之為報也。与彼本覚不相離者。一体中二義故名相離也。Keonsyo02-08L,09R
  (「復次本覚随染分別生二種相〈また次に本覚随染を分別するに二種の相を生ず〉」とは、法・報の両種これなり。同一の覚にして染に随いて隠顕す。これを名づけて法と為す。この真識の中の本無今生の義、これを名づけて報と為すなり。「与彼本覚不相離〈彼の本覚と相い捨離せず〉」とは、一体の中の二義なるが故に相離と名づくるなり。)Keonsyo02-08L,09R

【論】云何為二。一者智浄相。二者不思議業相。
【論】 (云何が二となす。一には智浄相。二には不思議業相。)

 云何以下別釈。此中有二。一者立二章門。二者釈章門。言智浄相者是法仏性也。不増不減古今湛然非先染後浄名智浄。言不思議業相者。是報仏性也。本無法体。以不思議修習力故有始生義。造作令成。無而令有。名不思議。造作名業。此一体中。体顕用生有二種也。Keonsyo02-09R
  (「云何」より以下は別釈。この中に二あり。一には二章門を立つ。二には章門を釈す。「智浄相」というは、これ法仏の性なり。増せず減ぜず、古今湛然として、先染・後浄に非ざるを「智浄」と名づく。「不思議業相」というは、これ報仏の性なり。本〈もと〉法体なし。不思議修習の力を以ての故に始生の義あり。造作して成ぜしむ。無にして有ならしむるを「不思議」と名づけ、造作するを「業」と名づく。この一体の中に、体顕・用生の二種あるなり。)Keonsyo02-09R

【論】智浄相者。謂依法力熏習。如実修行。満足方便故。破和合識相。滅相続心相。顕現法身。智淳浄故。
【論】 (智浄相とは、謂く法力熏習に依りて、如実修行し、方便を満足するが故に。和合の識の相を破し、相続の心の相を滅して、法身を顕現し、智淳浄なるが故に。)

 自下釈章門。先釈智浄。後釈業相。就初中有二。一者表其智体。二者此義云何下釈其体義。就初中有三。一者表能治解。二者破和合下顕所治障。三者顕以下正弁所顕。Keonsyo02-09R,09L
  (自下は章門を釈す。先は智浄を釈し、後に業相を釈す。初の中に就きて二あり。一にはその智体を表わす。二には「此義云何」より下はその体義を釈す。初の中に就きて三あり。一には能治の解を表わす。二には「破和合」より下は所治の障を顕す。三には「顕」より以下は正しく所顕を弁ず。)Keonsyo02-09R,09L

 智浄相者顕名也。謂依法力者真種資力也。依者縁智也。如実修行満足方便者是縁智也。方便者是善巧方便也。Keonsyo02-09L
  (「智浄相」とは名を顕すなり。「謂依法力」とは真種資力なり。「依」とは縁智なり。「如実修行満足方便」とはこれ縁智なり。「方便」とはこれ善巧方便なり。)Keonsyo02-09L

 自下顕障。破和合識相者六識障也。滅相続心相者七識障也。以縁照解。対治六識七惑也。自下第三弁其所顕。顕理法身智浄故也。Keonsyo02-09L
  (自下は障を顕す。「破和合識相」とは六識の障なり。「滅相続心相」とは七識の障なり。縁照の解を以て六識七惑を対治するなり。自下は第三にその所顕を弁ず。理法身智浄を顕すが故なり。)Keonsyo02-09L

【論】此義云何。以一切心識之相皆是無明。無明之相不離覚性。非可壊非不可壊。
【論】 (この義いかん。一切の心識の相は皆これ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以て、壊すべきにあらず、壊すべからざるにあらず。)

 自下第二釈義。此中有三。一者法説。二者如大海水以下開譬。三者如是衆生以下合譬。Keonsyo02-09L
  (自下は第二に義を釈す。この中に三あり。一には法説。二には「如大海水」より以下は開譬。三には「如是衆生」より以下は合譬。)Keonsyo02-09L

 言一切心識皆是無明者。六七識心皆無明為体也。猶前和合識相続心相也。無明之相不離覚者。真妄縁集也。言非可壊者。理法常爾故。非不可壊者。以解治妄故。Keonsyo02-09L,10R
  (「一切心識皆是無明」というは、六七識心は皆、無明を体と為すなり。猶し前の和合識相続心相のごときなり。「無明之相不離覚」とは真妄縁集なり。「非可壊」というは理法常爾の故に。「非不可壊」とは解は妄を治するを以ての故に。)Keonsyo02-09L,10R

【論】如大海水因風波動。水相風相不相捨離。而水非動性。若風止滅動相則滅。湿性不壊故。
【論】 (大海の水は風に因りて波動し、水相と風相と相い捨離せず。而して水は動性にあらず。もし風止滅すれば、動相は則ち滅し、湿性は壊せざるが如きなるが故に。)

 自下開譬。如大海水喩第八識。風喩無明。波喩七識。水相風相不捨離者。真識与無明縁集合成。水非動性者。真無妄性。随妄故成。若風相滅動相滅者。無明滅已七識則已。湿性不壊者喩彼真識性体常住。Keonsyo02-10R
  (自下は開譬。「如大海水」は第八識に喩う。風は無明に喩う。波は七識に喩う。「水相風相不捨離〈水相と風相と相い捨離せず〉」とは、真識と無明と縁集合成す。「水非動性〈水は動性にあらず〉」とは、真には妄性なし。妄に随うが故に成ず。「若風相滅動相滅」とは、無明滅し已れば七識も則ち已る。「湿性不壊」とは、彼の真識の性体は常住なることに喩う。)Keonsyo02-10R

【論】如是衆生自性清浄心。因無明風動。心与無明倶無形相不相捨離。而心非動性。若無明滅相続則滅。智性不壊故。
【論】 (かくの如く衆生の自性清浄の心は無明の風に因りて動ず。心と無明と倶に形相なくして相い捨離せず。而して心は動性にあらざれば、もし無明滅すれば相続則ち滅し、智性は壊せざるが故に。)

 如是衆生以下合喩。自性清浄心合上海水也。自無明風動者。合上目風也。心与無明倶無形相者。合上水相風相不相離也。而心非動性者合上水非動性也。若無明滅相続則滅者。合上若風止滅動相滅也。智性不壊者合上湿性不壊。七識起喩略無合也。Keonsyo02-10R
  (「如是衆生」より以下は合喩。「自性清浄心」は上の海水に合するなり。「自無明風動〈無明の風によりて動ず〉」とは上の目風〈因風か?〉に合するなり。「心与無明倶無形相〈心と無明と倶に形相なく〉」とは、上の「水相風相不相離〈水相と風相と相い捨離せず〉」に合するなり。「而心非動性〈而して心は動性にあらざれば〉」とは、上の「水非動性〈水は動性にあらず〉」に合するなり。「若無明滅相続則滅〈もし無明滅すれば相続則ち滅し〉」とは、上の「若風止滅動相滅〈もし風止滅すれば、動相は則ち滅し〉」に合するなり。「智性不壊〈智性は壊せざる〉」とは、上の「湿性不壊〈湿性は壊せざる〉」に合す。七識起の喩は略して合なきなり。)Keonsyo02-10R

 彼楞伽言。譬如巨海浪。斯由猛風起。洪波鼓穴壑。無有断絶時。蔵識海常住。境界風所動。種種諸識浪。騰躍而転生。此明大海雖為風飄水性不改。性不改故名為常住。性雖常住。而波水相随風波転。喩彼真識。雖為妄想境界風動。真性不変。性雖不変而彼真相随於無始妄想。動発虚偽境界起於七識。如海波浪。Keonsyo02-10R,10L
  (彼の『楞伽』に言く「譬えば巨海浪の如し。これ猛風に由りて洪波起こり、穴壑〈けつかく〉を鼓〈う〉ちて、断絶の時あることなし。蔵識海は常住にして、境界の風に動かされ、種種の諸識の浪の、騰躍して転生す」。これは大海の、風の為に飄〈ひるがえ〉ると雖ども水性は改まらず、性は改まざるが故に名づけて常住と為し、性は常住なりと雖ども、而も波水相は風に随いて波転ずることを明かす。喩は彼の真識は妄想境界の風の為に動ずると雖ども、真性は変らず。性は不変なりと雖ども、而も彼の真相は無始妄想に随いて、虚偽の境界を動発して七識を起こす。海の波浪の如し。)Keonsyo02-10R,10L

 経本之中境界為風。何故論主無明為風。釈曰。経中拠末。境界為風。論主尋本。無明為風。此等皆有飄動義故。又後義推真識為海。無明為風。起七識波。七識為海。境界為風。起六識波。Keonsyo02-10L
  (経本中には境界を風と為す。何が故に論主は無明を風と為すや。釈して曰く。経中には末に拠り、境界を風と為す。論主は本を尋ねて、無明を風と為す。これ等は皆、飄動の義あるが故に。また後義は真識を推して海と為し、無明を風と為し、七識の波を起こす。七識を海と為し、境界を風と為し、六識の波を起こす。)Keonsyo02-10L

【論】不思議業相者。以依智浄相。能作一切勝妙境界。
【論】 (不思議業相とは、智浄相に依るを以て、能く一切の勝妙境界を作す。)

 自下第二釈業章門。此中有二。先明総釈。二所謂下別釈。以依智浄能作境界者依体。起相用故也。Keonsyo02-10L,11R
  (自下は第二に業章門を釈す。この中に二あり。先に総釈を明かす。二に「所謂」より下は別釈。「以依智浄能作境界〈智浄相に依るを以て、能く一切の勝妙境界を作す〉」とは体に依る。相用を起こすが故なり。)Keonsyo02-10L,11R

【論】所謂無量功徳之相常無断絶。随衆生根自然相応。種種而現得利益故。
【論】 (所謂、無量功徳の相は常に断絶し。衆生の根に随いて自然に相応し、種種に現じて利益を得しむるが故に。)

 以下別釈無量功徳之相。常無断者報仏性也。随衆生根下。明応仏性也。此二性者修心可有。非今具有也。Keonsyo02-11R
  (以下は別して無量功徳の相を釈す。「常無断」とは報仏の性なり。「随衆生根」より下は応仏の性を明かすなり。この二性は修心してあるべし。今具にあるに非ざるなり。)Keonsyo02-11R

【論】復次覚体相者。有四種大義。与虚空等。猶如浄鏡。
【論】 (また次に覚の体相とは、四種の大義あり。虚空と等しく猶し浄鏡の如し。)

 自下第三総標理体。此中有二。一者略標。二者云何為四以下別釈。Keonsyo02-11R
  (自下は第三に総じて理体を標す。この中に二あり。一には略標。二には「云何為四」より以下は別釈。)Keonsyo02-11R

 復次覚体相者。猶前本覚相者。即体相也。非相中相也。有四大義者。同一体中随義分四。非別釈体四也。与虚空等者。是法性虚空也。此之表四倶無勝劣之異。如浄鏡者。喩浄無染也。亦喩相入無障礙。Keonsyo02-11R
  (「復次覚体相」とは、猶し前の本覚相者のごとし。即ち体相なり。非相の中の相なり。「有四大義」とは、同一体の中に義に随いて四を分かつ。別して体の四を釈するに非らざるなり。「与虚空等〈虚空と等し〉」とは、これ法性虚空なり。これはこれ四倶に勝劣の異なきことを表わす。「如浄鏡」とは、浄にして染なきことを喩うるなり。また相入して障礙なきことを喩う。)Keonsyo02-11R

【論】云何為四。一者如実空鏡。遠離一切心境界相。無法可現。非覚照義故。
【論】 (云何が四となす。一は如実空鏡。一切の心と境界との相を遠離して、法の現ずべきなし。覚照の義にあらざるが故に。)

 次下別釈。此四種中。一一之中立名即釈。如実空鏡者。猶前真如。遠離心鏡無法現者。就真而望。唯真猶立。本来無妄故。経説言。仏不渡衆生。衆生無故。非覚照義故者。雖是一体心法不同。[チャク02]心而言。法不生知。是真諦理故。非覚照上法性空。即是謂也。何故与等。以此等余。非此与等也。Keonsyo02-11R,11L
  (次下に別釈。この四種の中、一一の中に名を立てて即ち釈す。「如実空鏡」とは、猶し前の真如のごとし。「遠離心鏡無法現」とは、真に就きて望むれば、唯真のみ猶お立つ。本よりこのかた妄なきが故に。経〈『金剛般若波羅蜜経論』か?〉に説きて言く「仏は衆生を渡せず。衆生なきが故に」。「非覚照義故」とは、これ一体なりと雖ども心法は同じからず。心を[チャク02]〈とり〉て言わば、法は知を生ぜず。これ真諦の理なるが故に。覚照の上の法性空なるに非ず。即ちこの謂なり。何故与等とは、これを以て余と等しくす。これと与等しきに非ざるなり。)Keonsyo02-11R,11L

【論】二者因熏習鏡。謂如実不空。一切世間境界。悉於中現。不出不入不失不壊。常住一心。以一切法即真実性故。又一切染法所不能染。智体不動具足無漏。熏衆生故。
【論】 (二には因熏習鏡。謂く、如実不空。一切世間の境界は、悉く中に於いて現じて、不出、不入、不失、不壊にして、常住一心なり。一切の法は即ち真実の性なるを以ての故に。また一切の染法の、染ずること能わざる所、智体は動ぜずして無漏を具足して、衆生を熏ずるが故に。)

 言因熏習鏡者謂真心也。依因此心縁照熏習故因熏習也。一切世間悉中現者。一切諸法心之為本。故本中現。然即現故体中生耶。故言不出。亦可。現無辺故現外不出。体中現故。雑乱一相故言不入。以不入故妄法敗亡。故言不失不壊。一云就真法説。絶言離相。超外衆物而不離有無。故言不出。不離有無而非有無。故言不入。故経説言。雖在陰界入而不同陰界入也。以万像外而不失壊故言不失壊。是為何物。常住一心。何以故。一切真実性故。無法不真也。又一切染法不能者。心体常住故不能染。非謂用義也。智体不動者釈不染由。具足無漏熏衆生者具浄法故。冥資衆生令修善行也。Keonsyo02-11L,12R
  (「因熏習鏡」というは、謂く真心なり。この心に依因して縁照熏習するが故に「因熏習」なり。「一切世間悉中現」とは、一切の諸法は心これを本と為すが故に本の中に現ず。然れば即ち現ずるが故に体の中に生ずるや。故に「不出」という。またいいつべし、現無辺なるが故に現の外に出でず。体の中に現ずるが故に、雑乱一相の故に「不入」という。不入を以ての故に妄法は敗亡するが故に「不失不壊」という。一に云く。真法に就きて説く。言を絶し相を離れ、外の衆物を超えて、而も有無を離れざるがに故「不出」という。有無を離れず而も有無に非ざるが故に「不入」という。故に経に説きて言く。陰界入に在りと雖ども、而も陰界入に同ぜざるなり。万像外に失壊せざるを以ての故に「不失壊」という。これ何物とか為る。常住の一心なり。何を以ての故に。一切真実の性なるが故に、法として真ならざることなきなり。「又一切染法不能」とは、心体常住の故に「不能染〈染ずること能わざる〉」なり。用の義をいうに非ざるなり。「智体不動」とは不染の由を釈す。「具足無漏熏衆生」とは、浄法を具するが故に、冥に衆生を資けて善行を修めしむるなり。)Keonsyo02-11L,12R

【論】三者法出離鏡。謂不空法。出煩悩礙智礙。離和合相。淳浄明故。
【論】 (三には法出離鏡。謂く、不空の法。煩悩礙・智礙を出でて、和合の相を離れて、淳浄明なるが故に。)

 法出離鏡者。猶智浄相也。真法出於煩悩惑障故言出離也。謂不空者恒沙浄法湛然満故。煩悩礙者猶煩悩障。言智礙者猶智障也。諸惑雖衆無出二障。然此義者下二障中具広分別也。離和合相淳浄明者。離六七識心相也。Keonsyo02-12R
  (「法出離鏡」とは、猶し智浄相のごときなり。真法は煩悩惑障を出づるが故に「出離」というなり。「謂不空」とは、恒沙の浄法は湛然として満つるが故に。「煩悩礙」とは、猶し煩悩障のごとし。「智礙」というは、猶し智障のごときなり。諸惑は衆しと雖ども二障を出づることなし。然るにこの義は下の二障の中に具に広く分別するなり。「離和合相淳浄明〈和合の相を離れて、淳浄明なる〉」とは六七識の心相を離るなり。)Keonsyo02-12R

【論】四者縁熏習鏡。謂依法出離故。遍照衆生之心。令修善根随念示現故。
【論】 (四には縁熏習鏡。謂く、法出離に依るが故に遍く衆生の心を照らして、善根を修めしめ、念に随いて示現するが故に。)

 縁熏習鏡者。猶上不思議業相也。以縁智修習故得名縁熏習也。依法出離者。依体起相用。遍照衆生心令修善者。是報仏也。随念示現者。是応仏也。此四之中前二是理。後二是行。理行倶明故無余無上。Keonsyo02-12R,12L
  (「縁熏習鏡」とは、猶し上の不思議業相のごときなり。縁智を以て修習するが故に縁熏習と名づくることを得るなり。「依法出離」とは、体に依りて相用を起こす。「遍照衆生心令修善〈遍く衆生の心を照らして、善根を修めしめ〉」とは、これ報仏なり。「随念示現」とは、これ応仏なり。この四の中に前の二はこれ理。後の二はこれ行。理行倶明なるが故に余なく上なし。)Keonsyo02-12R,12L

【論】所言不覚義者。謂不如実知真如法一故。不覚心起而有其念。念無自相不離本覚。
【論】 (言う所の不覚の義とは、謂く、実の如く真如の法は一なりと知らざるが故に、不覚の心起こりて、その念あり。念に自相なく、本覚を離れず。)

 自下第二釈不覚章門。此中有二。一者明不覚体。二者復次依不覚以下明諸惑転生。就初中有二。一者明不覚義。二者以有不覚以下対明真覚。初中有三。一者法説。二者開譬。三合喩。Keonsyo02-12L
  (自下は第二に不覚章門を釈す。この中に二あり。一には不覚の体を明かし、二には「復次依不覚」より以下は諸惑転生を明かす。初の中に就きて二あり。一には不覚の義を明かす。二には「以有不覚」より以下は真覚を対明す。初の中に三あり。一には法説、二には開譬、三には合喩なり。)Keonsyo02-12L

 言不覚義者。是顕名也。不覚名者。無明別名。謂不如実知真如法一者。就境明体。真如無二故名法一也。不覚心起者是第七識。而有其念者是染心也。通而言之皆是妄識。別而言之不覚是其根本無明。染心是其業識。以後乃至相続識也。念無自相不離真覚者明其妄法不孤立。故詑真而立。若無此真妄不得生也。Keonsyo02-12L,13R
  (「不覚義」というは、これ名を顕すなり。不覚の名は無明の別名なり。「謂不如実知真如法一〈謂く、実の如く真如の法は一なりと知らざる〉」とは、境に就きて体を明かす。真如無二の故に「法一」と名づくるなり。「不覚心起〈不覚の心起こりて〉」とは、これ第七識なり。「而有其念〈その念あり〉」とは、これ染心なり。通じてこれを言わば、皆これ妄識なり。別してこれを言わば、不覚はこれその根本無明なり。染心はこれその業識なり。以後乃至、相続識なり。「念無自相不離真覚〈念に自相なく、本覚を離れず〉」とは、その妄法は孤立ならざが故に真に詑〈よ〉って立ち、もしこの真妄なくんば生ずることを得ざることを明かすなり。)Keonsyo02-12L,13R

【論】猶如迷人依方故迷。若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覚故迷。若離覚性則無不覚。
【論】 (猶し迷人は方に依るが故に迷う。もし方を離るれば則ち迷あることなきが如し。衆生もまた爾り。覚に依るが故に迷い、もし覚性を離るれば則ち不覚なし。)

 次下開喩。如迷人者諸群盲類諸衆生等。迷二諦理不知超出生死之津。似是迷人。依方故迷者喩依真有妄。若離於方則無有迷者。若無真識不得有妄。故勝鬘言。依如来蔵故有生有死。若無蔵識不得厭苦楽求涅槃也。Keonsyo02-13R
  (次下は開喩。「如迷人」とは諸の群盲の類なり。諸の衆生等は二諦の理に迷い、生死の津を超出することを知らず。これ迷人に似るなり。「依方故迷〈方に依るが故に迷う〉」とは真に依りて妄あるに喩う。「若離於方則無有迷〈もし方を離るれば則ち迷あることなき〉」とは、もし真識なくんば妄あることを得ず。故に『勝鬘』に言く「如来蔵に依るが故に生あり死あり。もし蔵識なくんば、苦を厭い涅槃を楽求することを得ざるなり」。)Keonsyo02-13R

 自下合喩。衆生亦爾者。合上迷人。依覚故迷者合上依方故迷。若離覚性則無不覚者。合上若離方則無迷也。Keonsyo02-13R
  (自下は合喩。「衆生亦爾」とは、上の「迷人」に合す。「依覚故迷〈覚に依るが故に迷い〉」とは上の「依方故迷」に合す。「若離覚性則無不覚〈もし覚性を離るれば則ち不覚なし〉」とは、上の「若離方則無迷〈もし方を離るれば則ち迷あることなき〉」に合するなり。)Keonsyo02-13R

【論】以有不覚妄想心故。能知名義為説真覚。若離不覚之心。則無真覚自相可説。
【論】 (不覚の妄想心あるを以ての故に、能く名義を知りて、ために真覚と説き、もし不覚の心を離るれば、則ち真覚の自相の説くべきなし。)

 自下第二明対真覚。此中有三句。一者釈覚義。謂有不覚心故。能知名義。為説真覚也。二者絶待明体。謂若離不覚之心則無有真識也。三者遣著。雖皆是真。亦無真相。謂離不覚心則無真覚自相可説。Keonsyo02-13R,13L
  (自下は第二に真覚に対することを明かす。この中に三句あり。一には覚の義を釈す。謂く不覚の心あるが故に「能知名義。為説真覚〈能く名義を知りて、ために真覚と説く〉」なり。二には絶待して体を明かす。謂く「若離不覚之心〈もし不覚の心を離るれば〉」則ち真識あることなきなり。三には著を遣る。皆これ真なりと雖ども、また真相なし。謂く「離不覚心。則無真覚自相可説〈もし不覚の心を離るれば、則ち真覚の自相の説くべきなし〉」。Keonsyo02-13R,13L

【論】復次依不覚故。生三種相。与彼不覚相応不相離。
【論】 (また次に不覚に依るが故に、三種の相を生じ、彼の不覚と相応して相い離れず。)

 自下第二明転生義。此中有三。一者総明。二者云何以下別釈。三者当知無明以下結釈。Keonsyo02-13L
  (自下は第二に転生の義を明かす。この中に三あり。一には総じて明かす。二には「云何」より以下は別して釈す。三には「当知無明」より以下は結釈。)Keonsyo02-13L

 復次依不覚故生三種相者。依根本無明心心相漸麁。故生三種相也。与彼不覚相応不離者。共為第七識体也。Keonsyo02-13L
  (「復次依不覚故生三種相〈また次に不覚に依るが故に、三種の相を生じ〉」とは、根本無明心の心相漸く麁なるに依るが故に「生三種相〈三種の相を生〉」ずるなり。「与彼不覚相応不離〈彼の不覚と相応して相い離れず〉」とは、共に第七識の体と為るなり。)Keonsyo02-13L

【論】云何為三。
【論】 (云何が三となす。)

 云何以下別釈。此中随義弁者。七識中有六。六識之中有四也。然前六中上四不相応。下二相応。与六識似故。文中分有二。一者明不相応。二者以有境界以下明相応也。Keonsyo02-13L,14R
  (「云何」より以下は別釈。この中に義に随いて弁ぜば、七識の中に六あり。六識の中に四あるなり。然るに前の六の中に、上の四は不相応、下の二は相応。六識と似たるが故に。文の中に分ちて二あり。一には不相応を明かす。二には「以有境界」より以下は相応を明かすなり。)Keonsyo02-13L,14R

【論】一者無明業相。以依不覚故。心動説名為業。覚則不動。動則有苦。果不離因故。
【論】 (一は無明業相。不覚に依るを以ての故に、心動ずるを説きて名づけて業となす。覚すれば則ち動ぜず。動ずれば則ち苦あり。果は因を離れざるが故に。)

 言無明業相者。無明是其所依不覚。業者動義。Keonsyo02-14R
  (「無明業相」というは、無明はこれその所依の不覚なり。業は動の義。)Keonsyo02-14R

【論】二者能見相。以依動故能見。不動則無見。
【論】 (二には能見相。動に依るを以ての故に能見あり。動ぜざれば則ち見なし。)

 言能見相者亦名転識。心相転麁転起外相。名為転也。此之三心也。Keonsyo02-14R
  (「能見相」というは、また転識と名づく。心相転〈うた〉た麁転じて外相を起こすを名づけて転と為すなり。これはこれ三心なり。)Keonsyo02-14R

【論】三者境界相。以依能見故境界妄現。離見則無境界。
【論】 (三には境界の相。能見に依るを以ての故に、境界は妄に現ず。見を離るれば則ち境界なし。)

 言境界相者亦名現識。以妄心中妄作境界顕現如鏡。Keonsyo02-14R
  (「境界相」というは、また現識と名づく。妄心の中に妄作の境界の顕現すること鏡の如きを以てなり。)Keonsyo02-14R

【論】以有境界縁故。復生六種相。云何為六。
【論】 (境界の縁あるを以ての故に、また六種の相を生ず。云何が六となす。)

 以有境界故以下。明其第二相応之義。以境縁故生六種相者。是相応故合為一類。Keonsyo02-14R
  (「以有境界故〈境界の縁あるを以ての故に〉」より以下は、その第二に相応の義を明かす。境の縁を以ての故に六種の相を生ずとは、これ相応の故に合して一類と為す。Keonsyo02-14R

【論】一者智相。依於境界心起。分別愛与不愛故。
【論】 (一には智相。境界に依りて心起こりて、愛と不愛とを分別するが故に。)

 言智相者。前所説境分別。染浄違順差別。非明解智也。Keonsyo02-14R
  (「智相」というは、前の所説の境を分別して、染浄違順差別して、明解の智に非ざるなり。)Keonsyo02-14R

【論】二者相続相。依於智故生其苦楽覚。心起念相応不断故。
【論】 (二には相続相。智に依るが故にその苦楽の覚を生ず。心、念を起こし相応して断えざるが故に。)

 言相続相者。依前智識心相転麁。境界牽心。心随境界分別不断。如海波浪。又復三世因果令不断絶。故名相続。Keonsyo02-14R
  (「相続相」というは、前の智識に依りて、心相転〈うた〉た麁にして、境界、心を牽き、心は境界に随いて分別して断えず。海の波浪の如し。また三世の因果をして断絶せざらしむ。故に「相続」と名づく。)Keonsyo02-14R

【論】三者執取相。依於相続縁念境界。住持苦楽心起著故。
【論】 (三には執取相。相続に依りて境界を縁念し、苦楽を住持して、心、著を起こすが故に。)

 言執取相者。十使根本取性無明。Keonsyo02-14R
  (「執取相」というは、十使の根本取性無明なり。)Keonsyo02-14R

【論】四者計名字相。依於妄執。分別仮名言相故。
【論】 (四には計名字相。妄執に依りて分別する仮名言の相の故に。)

 言計名字相者。所謂五見麁起煩悩。若復通論十使。皆是此二合為煩悩分也。Keonsyo02-14R,14L
  (「計名字相」というは、所謂、五見麁起の煩悩なり。もしまた通じて十使を論ぜば、皆これこの二合して煩悩の分と為るなり。)Keonsyo02-14R,14L

【論】五者起業相。依於名字尋名。取著造種種業故。
【論】 (五には起業相。名字に依りて名を尋ね、取著して種種の業を造るが故に。)

 言起業相者。謂依煩悩造種種業也。Keonsyo02-14L
  (「起業相」というは、謂く煩悩に依りて種種の業を造るなり。)Keonsyo02-14L

【論】六者業繋苦相。以依業受報不自在故。
【論】 (六には業繋苦相。業に依りて報を受けて自在ならざるを以ての故に。)

 業繋苦相者。依業受報也。Keonsyo02-14L
  (「業繋苦相」とは、業に依りて報を受くるなり。)Keonsyo02-14L

 此之六中前二七識。後四六識也。Keonsyo02-14L
  (この六の中に、前の二は七識、後の四は六識なり。)Keonsyo02-14L

【論】当知。無明能生一切染法。以一切染法皆是不覚相故。
【論】 (当に知るべし。無明は能く一切の染法を生ず。一切の染法は皆これ不覚の相なるを以ての故に。)

 自下第三結也。当知無明能生一切染者。衆惑根本故也。言染法皆是不覚相故者。皆無明用相也。Keonsyo02-14L
  (自下は第三に結なり。「当知無明能生一切染〈当に知るべし。無明は能く一切の染法を生ず〉」とは、衆惑の根本なるが故なり。「染法皆是不覚相故〈一切の染法は皆これ不覚の相なるを以ての故に〉」というは、皆無明の用相なり。)Keonsyo02-14L

【論】復次覚与不覚有二種相。云何為二。一者同相。二者異相。
【論】 (また次に覚と不覚と二種の相あり。云何が二となす。一には同相。二には異相。)

 自下第三従復次覚与不覚下。料簡因果。亦可釈上非一非異。此中有三。一者総挙数。二者云何以下列名。三者同相者以下釈章門。Keonsyo02-14L
  (自下は第三に「復次覚与不覚」より下は因果を料簡す。また上の非一非異を釈するなるべし。この中に三あり。一には総じて数を挙ぐ。二には「云何」より以下は名を列す。三には「同相者」より以下は章門を釈す。)Keonsyo02-14L

【論】同相者。譬如種種瓦器皆同微塵性相。如是無漏無明種種業幻。皆同真如性相。
【論】 (同相とは、譬えば種種の瓦器は皆同じく微塵の性相なるが如し。かくの如く無漏・無明の種種の業幻は皆同じく真如の性相なり。)

 就第三中有二。一者釈同章門。二者釈異章門。就初中有三。一者開喩。二者如是無漏以下合喩。三者是故以下引経証成。Keonsyo02-14L
  (第三の中に就きて二あり。一には同章門を釈す。二には異章門を釈す。初の中に就きて三あり。一には開喩。二には「如是無漏」より以下は合喩。三には「是故」より以下は経を引きて証成す。)Keonsyo02-14L

 譬如瓦器者。喩第七識種種妄法也。皆同微塵性相者。喩真如為体也。如是以下合喩。無漏無明皆七識也。皆同真如者。合上同微塵性相也。Keonsyo02-14L,15R
  (「譬如瓦器」とは、第七識の種種の妄法に喩うるなり。「皆同微塵性相」とは、真如の、体と為るに喩うるなり。「如是」より以下は合喩。無漏無明は皆七識なり。「皆同真如」とは、上の「同微塵性相」に合するなり。)Keonsyo02-14L,15R

【論】是故修多羅中。依於此義。説一切衆生本来常住。入於涅槃。菩提之法。非可修相。非可作相。畢竟無得。
【論】 (この故に修多羅の中に、この義に依りて説く。一切衆生は本よりこのかた常住、涅槃・菩提の法に入る。修すべき相にあらず、作すべき相にあらず、畢竟無得なり。)

 自下第三引証。是故修多羅中依此義説者。取彼経説釈成此義也。此有二句。初明理涅槃。後明釈難。Keonsyo02-15R
  (自下は第三に引証。「是故修多羅中依此義説〈この故に修多羅の中に、この義に依りて説く〉」とは、彼の経の説を取りてこの義を釈成するなり。これに二句あり。初には理涅槃を明かし、後には釈難を明かす。)Keonsyo02-15R

 言一切衆生本来常住涅槃菩提者。唯是真識。悉無余法故也。言非可修相作相者。非如報応也。畢竟無得者。既已常已常得更無得也。Keonsyo02-15R
  (「一切衆生本来常住涅槃菩提〈一切衆生は本よりこのかた常住、涅槃・菩提の法に入る〉」というは、唯これ真識は悉く余法なきが故なり。「非可修相作相〈修すべき相にあらず、作すべき相にあらず〉」というは、報応の如きには非ざるなり。「畢竟無得」とは、既已に常已に常得にして更に得ることなきなり。)Keonsyo02-15R

【論】亦無色相可見。而有見色相者。唯是随染業幻所作。非是智色不空之性。以智相無可見故。
【論】 (また色相の見るべきなし。而して色相を見ることあるは、唯これ随染業幻の所作なり。これ智色不空の性にあらず。智相の見るべきことなきを以ての故に。)

 亦無色相可見者。以理無色故也。自下釈難。若無色相者。何故得有以相之身利益衆生。釈此難故。而有見色者。唯随染業幻所作也。非是真智理色不空性也。何故非理智無色者。以智相不可見故也。Keonsyo02-15R,15L
  (「亦無色相可見〈また色相の見るべきなし〉」とは、理は色なきを以ての故なり。自下は難を釈す。「若〈亦か?〉無色相」とは、何が故ぞ以相〈色相か?似相か?〉の身ありて衆生を利益することを得るや。この難を釈するが故に「而して色を見ることあるは、唯、随染業幻の所作なり。これ真智理色不空の性に非ざるなり」。何が故ぞ理智無色に非ずとならば、智相は見るべからざるを以ての故なり。)Keonsyo02-15R,15L

【論】言異相者。如種種瓦器各各不同。如是無漏無明随染幻差別。性染幻差別故。
【論】 (異相というは、種種の瓦器の各各同じからざるが如し。かくの如きの無漏無明随染幻の差別、性染幻の差別なるが故に。)

 自下釈異章門。此中有二。一者開喩。二者如是無漏以下合喩。Keonsyo02-15L
  (自下は異章門を釈す。この中に二あり。一には開喩。二には「如是無漏」より以下は合喩。)Keonsyo02-15L

 此同異大意者。真妄二識有同異義。同者真外無妄。妄外無真故。言異者真妄相返故。如水中波。水非波外波非水外名同義也。水波非一名異也。Keonsyo02-15L
  (この同異の大意とは、真妄の二識に同異の義あり。同とは真の外に妄なく、妄の外に真なきが故に。異というは、真妄相返するが故に。水中波の如し。水は波の外に非ず、波は水の外に非ざるを同の義と名づくるなり。水波は一に非ざるを異と名づくるなり。)Keonsyo02-15L

【論】復次生滅因縁者。所謂衆生依心意意識転故。
【論】 (また次に生滅の因縁とは、所謂、衆生は心に依りて意と意識と転ずるが故に。)

 自下第二復次生滅因縁者以下。明真妄依持。此中有五。一者正弁真妄転生依持。二者依無明業所起以下。明其転生之義非浅智所知。三者染心者有六種以下。明返本時六七識惑治断分斉。四者又染心義者以下摂衆惑中拠二障弁。五者復次分別生滅相以下。明捨滅相。雖上広分治断之相。摂広令略弁滅相也。就初中有二。一者総標転生。二者此義云何以下別釈転生之相。Keonsyo02-15L,16R
  (自下は第二に「復次生滅因縁者」より以下は真妄依持を明かす。この中に五あり。一には正しく真妄転生依持を弁ず。二には「依無明業所起」より以下は、その転生の義は浅智の所知に非ざることを明かす。三には「染心者有六種」より以下は、返本の時、六七識の惑の治断の分斉を明かす。四には「又染心義者」より以下は、衆惑を摂する中に二障に拠りて弁ず。五には「復次分別生滅相」より以下は滅相を捨することを明かす。上に広く治断の相を分かつと雖ども、広を摂して略ならしめて、滅相を弁ずるなり。初の中に就きて二あり。一には総じて転生を標す。二には「此義云何」より以下は、別して転生の相を釈ず。)Keonsyo02-15L,16R

 復次生滅因縁相者。是顕名也。所謂衆生依心者是第八識也。意意識転故七六識也。真識是其神知之主集起所依。義説為心。妄識総対一切境界発生六識義説為意。事識依意。了別六塵事相境界故名意識。Keonsyo02-16R
  (「復次生滅因縁相」とは、これ名を顕すなり。「所謂衆生依心」とはこれ第八識なり。「意意識転故〈意と意識と転ずるが故に〉」とは七六識なり。真識はこれその神知の主、集起所依の義をもって説きて心と為す。妄識は総じて一切境界に対して六識を発生する義をもって説きて意と為す。事識は意に依りて六塵事相境界を了別するが故に意識と名づく。)Keonsyo02-16R

 経本之中同説此三。名字小異。一名分別事識。亦名転識。二名業識。亦名現識。三名真相識。Keonsyo02-16R
  (経本の中に同じくこの三を説く。名字は小し異なり。一には分別事識と名づけ、また転識と名づく。二には業識と名づけ、また現識と名づく。三には真相識と名づく。)Keonsyo02-16R

 分別事識者。六識之心以能分別六塵事故名分別事。即此六識随六塵転故名転。不同七識転起外相名為転也。業相現相是第七識。識之中六識之名。以二摂也。真相識者是第八識。名字雖異与前三種其義不殊。Keonsyo02-16R,16L
  (分別事識とは、六識の心は能く六塵の事を分別するを以ての故に分別事と名づく。即ちこの六識は六塵に随いて転ずるが故に転と名づく。七識の、外相を転起するを名づけて転と為るに同じからざるなり。業相・現相はこれ第七識。識の中、六識の名は二摂を以てするなり。真相識とはこれ第八識なり。名字は異なりと雖ども、前の三種とその義は殊ならず。)Keonsyo02-16R,16L

【論】此義云何。以依阿梨耶識。説有無明。不覚而起。能見能現能取境界。起念相続。故説為意。
【論】 (この義、云何。阿梨耶識に依るを以て説く。無明ありて不覚にして起こり、能見、能現、能く境界を取りて、念を起こして相続するが故に説きて意となす。)

 自下第二別釈。此中有三。一者明七識心。二者是故三界以下明其七識生死根源。三者復次意識以下明六識心。初中有二。一者略釈。二者此意有五種以下広釈。Keonsyo02-16L
  (自下は第二に別釈。この中に三あり。一には七識心を明かす。二には「是故三界」より以下は、その七識は生死の根源なることを明かす。三には「復次意識」より以下は、六識心を明かす。初の中に二あり。一には略釈。二には「此意有五種」以下は広釈。)Keonsyo02-16L

 此義云何此設問也。以依阿梨耶識説者猶上依心。此之名義如上説也。有無明者生死根源故。理与無明倶一時有。而義説故。依理起迷是根本無明也。無明即心。非有心外異有無明也。不覚而起者是業相也。言能見者是転相也。言能現者猶現相也。能取境界者是智相也。起念相続者是続識也。Keonsyo02-16L,17R
  (「此義云何」とはこれ問を設くるなり。「以依阿梨耶識説〈阿梨耶識に依るを以て説く〉」とは猶し上の依心のごとし。この名義は上に説くが如きなり。「有無明〈無明あり〉」とは生死の根源なるが故に、理と無明と倶に一時に有り。而して義をもって説くが故に、理に依りて迷を起こす、これ根本無明なり。無明即ち心なり。心外に異に無明あることあるに非ざるなり。「不覚而起〈不覚にして起こり〉」とはこれ業相なり。「能見」というはこれ転相なり。「能現」というは猶し現相のごときなり。「能取境界〈能く境界を取り〉」とはこれ智相なり。「起念相続〈念を起こして相続す〉」とはこれ続識なり。)Keonsyo02-16L,17R

 問。上来已弁。何故重明。上中明其七識惑義。此中明其七識心義。是故異也。Keonsyo02-17R
  (問う。上来已に弁ず。何が故に重ねて明かすや。上の中にはその七識の惑の義を明かし、この中にはその七識心の義を明かす。この故に異なり。)Keonsyo02-17R

【論】此意復有五種名。云何為五。一者名為業識。謂無明力不覚心動故。
【論】 (この意にまた五種の名あり。云何が五となす。一には名づけて業識となす。謂く、無明の力、不覚にして心動ずるが故に。)

 自下第二広釈。此中有二。一者略表数。二者云何以下別名。即釈此意。Keonsyo02-17R
  (自下は第二に広く釈す。この中に二あり。一には略して数を表す。二には「云何」より以下は別名。即ちこの意を釈す。)Keonsyo02-17R

 復有五種者。標数也。言業識者。依前無明便有妄念不覚心起。説之為業。何故不説無明識者。是根本体故。就恒沙中説五種也。Keonsyo02-17R
  (「復有五種」とは、数を標するなり。「業識」というは、前の無明に依りて便ち妄念ありて不覚心起こる。これを説きて業と為す。何が故に無明識を説かざることは、これ根本の体なるが故に。恒沙の中に就きて五種を説くなり。)Keonsyo02-17R

【論】二者名為転識。依於動心能見相故。
【論】 (二には名づけて転識となす。動心に依りて能見の相あるが故に。)

 言転識者。依前業識。心慮漸麁而取外相。故名為転識。Keonsyo02-17R
  (「転識」というは、前の業識に依りて、心慮、漸く麁にして外相を取るが故に名づけて転識と為す。)Keonsyo02-17R

【論】三者名為現識。所謂能現一切境界。猶如明鏡現於色像。現識亦爾。随其五塵対至。即現無有前後。以一切時任運而起。常在前故。
【論】 (三には名づけて現識となす。所謂る能く一切の境界を現ず。猶し明鏡の、色像を現ずるが如し。現識また爾り。その五塵に随いて対至すれば、即ち現じて前後あることなし。一切の時に任運にして起こりて、常に前〈さき〉に在るを以ての故に。)

 言現識者。依前転識所起境界還顕自心。名為現識。言五塵対至即現無有前後者。明諸境界一時而現。以此識前未有境界但心識相。何故不説法塵境乎。答。若通言之理実倶有。而麁別言為五塵耳。又須法塵更無別塵。逐縁五塵。推求境体更無異故。故不言也。Keonsyo02-17R
  (「現識」というは、前の転識の起こす所の境界に依りて、還りて自心を顕すを名づけて現識と為す。「五塵対至即現無有前後〈その五塵に随いて対至すれば、即ち現じて前後あることなし〉」というは、諸の境界は一時にして現ずることを明かす。この識の前には未だ境界あらず、但、心識の相なるを以てなり。何が故に法塵の境を説かざるや。答う。もし通じてこれを言わば、理実には倶に有り。而して麁別なれば言いて五塵と為すのみ。また須く法塵は更に別塵なかるべし。五塵を逐縁す。境体を推求するに更に異なきが故に、故に言わざるなり。)Keonsyo02-17R

【論】四者名為智識。謂分別染浄法故。
【論】 (四には名づけて智識となす。謂く、染浄の法を分別するが故に。)

 言智識者。於前現識所顕法中分別染浄違順差別。故名智識。Keonsyo02-17L
  (「智識」というは、前の現識の顕す所の法の中に於いて、染浄違順の差別を分別す。故に智識と名づく。)Keonsyo02-17L

【論】五者名為相続識。以念相応不断故。住持過去無量世等善悪之業令不失故。復能成熟現在未来苦楽等報無差違故。能令現在已経之事忽然而念未来之事不覚妄慮。
【論】 (五には名づけて相続識となす。念相応して断ぜざるを以ての故に、過去無量世等の善悪の業を住持して失せざらしむるが故に、また能く現在未来の苦楽等の報を成熟して差違することなきが故に、能く現在已経の事を忽然として念じ、未来の事を不覚に妄慮せしむ。)

 言続識者。依前智識心相転麁境界事心。心随境界分別不断。故名続識。又復此心能持三世善悪因果。令不失壊故名続也。Keonsyo02-17L
  (「続識」というは、前の智識に依りて心相転た麁なる境界の事心なり。心は境界に随いて分別して断えざるが故に続識と名すく。またこの心は能く三世善悪の因果を持して失壊せざらしむるが故に続と名づくるなり。)Keonsyo02-17L

【論】是故三界虚偽唯心所作。離心則無六塵境界。
【論】 (この故に三界は虚偽、唯心の所作。心を離れて則ち六塵の境界なし。)

 自下第二従是故三界以下。明其七識根源義。此中有四。一者明生死無体妄心而有。二者此義云何以下釈其所以。三者当知世間以下勧人令知。四者是故一切法以下結無体依心。初中有二。一者順釈。二者返釈。Keonsyo02-17L
  (自下は第二に「是故三界」より以下は、その七識の根源の義を明かす。この中に四あり。一には生死に体なく妄心をもって而も有ることを明かす。二には「此義云何」より以下はその所以を釈す。三には「当知世間」より以下は人を勧めて知らしむ。四には「是故一切法」より以下は無体依心を結す。初の中に二あり。一には順釈。二には返釈。)Keonsyo02-17L

 言是故者。上明五心相生縁。故以有生死。但心主耳。三界虚偽唯心所作也。如夢所見。如鏡中像。無有自体。若言近者心謂七識。若談遠者心是八識。離心即無六塵境者。此返釈也。Keonsyo02-17L
  (「是故」というは、上に五心相の生縁を明かす。故に以て生死あるは但、心主なるのみ。「三界虚偽唯心所作〈三界は虚偽、唯心の所作〉」なり。夢の所見の如く、鏡中の像の如く、自体あることなし。もし近きをいわば、心は謂く七識なり。もし遠きを談ずれば、心はこれ八識なり。「離心即無六塵境〈心を離れて則ち六塵の境界なし〉」とは、これ返釈なり。)Keonsyo02-17L

【論】此義云何。以一切法皆従心起妄念而生。一切分別即分別自心。心不見心無相可得。
【論】 (この義、云何。一切の法は皆、心より起こり、妄念より生ずるを以て、一切の分別は即ち自心を分別す。心の、心を見ざれば、相の得べきことなし。)

 此義云何。設問発起。言一切法者生死諸法也。従心起者是真識也。妄不孤立由依真起。名従心起。妄念而生者。妄念是其第七識也。若言近者生死諸法従妄念生。前明起由。後明正体。成合生諸法。Keonsyo02-18R
  (「此義云何は、問を設けて発起す。「一切法」というは生死の諸法なり。「従心起〈心より起こり〉」とはこれ真識なり。妄は孤り立たず、真に依りて起こるに由りて、「従心起妄念而生〈心より起こり、妄念より生ず〉」と名づくとは、妄念はこれその第七識なり。もし近きをいわば、生死の諸法は妄念より生ず。前に起由を明かし、後に正体を明かして、諸法を生ずることを成合す。)Keonsyo02-18R

 言一切分別即分別自心者。自心是其真相識也。是真識者衆生中実就妄縁故。有異妄故。一切心識分別真理者。即分別自心。更無別理故也。Keonsyo02-18R
  (「一切分別即分別自心〈一切の分別は即ち自心を分別す〉」というは、自心は、これはその真相識なり。この真識は衆生の中実、妄縁に就くが故に、妄に異なることあるが故に。一切の心識は真理を分別すとは、即ち自心を分別して、更に別に理なきが故なり。)Keonsyo02-18R

 言心不見心者。就真論真。無有分別。無能所故。無相可得故。名不見心也。此之徳標顕生死無体真諦無相道理如是。経説二諦。宗要在斯。Keonsyo02-18R
  (「心不見心〈心の、心を見ざれば〉というは、真に就きて真を論じて、分別あることなし。能所なきが故に、相の得べきことなきが故に「不見心」と名づくるなり。これはこれ徳標、生死は無体、真諦は無相なることを顕す。道理はかくの如し。経に二諦を説く。宗要ここに在り。)Keonsyo02-18R

【論】当知。世間一切境界。皆依衆生無明妄心。而得住持。
【論】 (当に知るべし。世間一切の境界は、みな衆生の無明妄心に依りて住持することを得。)

 自下第三観知生死無体。当世間一切境者。猶上一切法也。皆依衆生無明妄心得住持者。是正体也。無明是其無明識也。妄心是其業識。以上乃至続識総名妄心。此之六識生死之体。故名住持也。Kkaito02-18L
  (自下は第三に生死無体を観知す。「当世間一切境〈当に知るべし。世間一切の境界〉」とは、猶し上の一切法のごときなり。「皆依衆生無明妄心得住持〈みな衆生の無明妄心に依りて住持することを得〉」とは、これ正体なり。無明はこれその無明識なり。妄心はこれその業識より以上、乃至、続識を総じて妄心と名づく。これはこの六識は生死の体なるが故に「住持」と名づくるなり。)Kkaito02-18L

【論】是故一切法。如鏡中像無体可得。唯心虚妄。以心生則種種法生。心滅則種種法滅故。
【論】 (この故に一切法は鏡中の像の、体の得べきことなきが如し。唯心の虚妄なり。心生ずれば則ち種種の法生じ、心滅すれば則ち種種の法滅するを以ての故に。)

 自下第四結無体。是故一切法如鏡中像。無体可得。言唯心者唯随於心以従心故。心生法生。心滅法滅。故言唯心也。言虚妄者是能随法也。Kkaito02-18L
  (自下は第四に無体を結す。この故に一切の法は鏡中の像の如く体の得べきことなし。「唯心」というは、唯、心に随いて心に従るを以ての故に、心生ずれば法生じ、心滅すれば法滅す。故に「唯心」というなり。「虚妄」というは、これ能く法に随うなり。)Kkaito02-18L

【論】復次言意識者。即此相続識。依諸凡夫取著転深。計我我所。種種妄執。随事攀縁。分別六塵。名為意識。亦名分離識。又復説名分別事識。此識依見愛煩悩増長義故。
【論】 (また次に意識というは、即ちこれ相続識。諸の凡夫は取著転た深きに依りて、我我所を計し、種種に妄に執し、事に随いて攀縁し、六塵を分別するを名づけて意識となす。また分離識と名づけ、またまた説きて分別事識と名づく。この識は見愛煩悩に依りて増長する義の故に。)

 自下第三明六識心。復次意識者是六識也。即此相続識。依凡夫取著転深計我我所者。謂根本取性無明。種種妄執随事攀縁者計名字相也。此之明根本也。又復説以下明末。中依見愛煩悩増長者。見是五見。愛是五鈍。Kkaito02-18L
  (自下は第三に六識心を明かす。「復次意識〈また次に意識というは〉」とは、これ六識なり。即ちこれ相続識なり。「依凡夫取著転深計我我所〈諸の凡夫は取著転た深きに依りて、我我所を計し〉」とは、謂く根本取性無明なり。「種種妄執随事攀縁〈種種に妄に執し、事に随いて攀縁し〉」とは計名字相なり。これはこれ根本を明かすなり。「又復説」より以下は末を明かす中に、「依見愛煩悩増長〈見愛煩悩に依りて増長す〉」とは、見はこれ五見、愛はこれ五鈍なり。)Kkaito02-18L

【論】依無明熏習所起識者。非凡夫能知。亦非二乗智慧所覚。謂依菩薩。従初正信発心観察。若証法身得少分知。乃至。菩薩究竟地不能尽知。唯仏窮了。
【論】 (無明の熏習に依りて起こす所の識とは、凡夫の能く知るにあらず、また二乗の智慧の覚する所にあらず。謂く。菩薩に依るに、初の正信より発心観察し、もし法身を証すれば少分知ることを得。乃至、菩薩究竟地に尽く知ること能わず。ただ仏のみ窮了す。)

 自下第二明非浅智所知。此中有三。一者顕其難知。二者何以故下釈難知由。三者是故以下総結難知。Kkaito02-19R
  (自下は第二に浅智の所知に非ざることを明かす。この中に三あり。一にはその知り難きを顕す。二には「何以故」の下は知り難き由を釈す。三には「是故」より以下は総じて知ること難きことを結す。)Kkaito02-19R

 依無明熏習所起識者是顕名也。業識以下若細窮論無明亦是。自下明知就人以弁。人別不同汎有四位。一者凡夫二乗。此人一向非境界也。二者十信以上。此人発心始覚観察此理。三者初地以上乃至十地。名小分知。四者諸仏仏乃窮了真妄縁起相生之義也。文顕可知。Kkaito02-19R
  (「依無明熏習所起識〈無明の熏習に依りて起こす所の識とは〉」とは、これ名を顕すなり。業識以下は、もし細窮して論ぜば無明またこれなり。自下は知を人に就きて以て弁ずることを明かす。人別不同にして汎〈ひろ〉く四位あり。一には凡夫二乗。この人は一向に境界に非ざるなり。二には十信以上。この人は発心始覚してこの理を観察す。三には初地以上、乃至、十地を小分知と名づく。四には諸仏。仏は乃ち真妄縁起相生の義を窮了するなり。文は顕なり。知るべし。)Kkaito02-19R

【論】何以故。是心従本已来自性清浄。而有無明。為無明所染有其染心。雖有染心而常恒不変。是故此義唯仏能知。所謂心性常無念故。名為不変。
【論】 (何を以ての故に。この心は本よりこのかた自性清浄なり。而して無明あり。無明の為に染せられて、その染心あり。染心ありといえども、而も常恒不変なり。この故にこの義は唯仏のみ能く知る。所謂、心性は常に念なきが故に、名づけて不変となす。)

 自下釈所以。何以故是心本来清浄而有無明者。真識随縁成妄義也。無明是其無明識也。為無明所染有染心者。業識以下名為染心。雖有染心常恒不変。雖相成染真性不改。故勝鬘中。自性清浄心為煩悩所染。難可了知。真而成妄。似妄恒真。此理諸仏所窮。非識智所能。是故以下結顕難知。Kkaito02-19L
  (自下は所以を釈す。「何以故是心本来清浄而有無明〈何を以ての故に。この心は本よりこのかた自性清浄なり。而して無明あり〉」とは、真識は縁に随いて妄を成ずる義なり。無明はこれはその無明識なり。「為無明所染有染心〈無明の為に染せられて、その染心あり〉」とは、業識以下を名づけて染心と為す。「雖有染心常恒不変〈染心ありといえども、而も常恒にして変らず〉」とは、相は染を成ずと雖ども真性は改らず。故に『勝鬘』の中に「自性清浄心は煩悩の為に染せらる。了知すべきこと難し」。真にして妄を成じ、妄に似て恒に真なり。この理は諸仏の窮むる所にして、識智の能くする所に非ず。「是故」より以下は知り難きことを結顕す。)Kkaito02-19L

 是故此義唯仏能知者。指仏為証。所謂心性者出其体性。常無念故名為不変。Kkaito02-19L
  (「是故此義唯仏能知〈この故にこの義は唯仏のみ能く知る〉」とは、仏を指して証と為す。「所謂心性」とは、その体性を出だす。「常無念故。名為不変〈常に無念なるが故に名づけて不変と為す〉」。)Kkaito02-19L

【論】以不達一法界故。心不相応。忽然念起。名為無明。
【論】 (一法界に達せざるを以ての故に心に相応せず、忽然として念起こるを名づけて無明となす。)

 以不達一法界心不相応忽然念起名為無明者。結上為無明所染也。上明結者上中自性清浄。Kkaito02-19L
  (「以不達一法界心不相応忽然念起名為無明〈一法界に達せざるを以ての故に心に相応せず、忽然として念起こるを名づけて無明となす〉」とは、上の「為無明所染〈無明の為に染せられて〉」を結するなり。上に明す結とは、上の中の自性清浄なり。)Kkaito02-19L

【論】染心者。有六種。云何為六。一者執相応染。依二乗解脱及信相応地遠離故。
【論】 (染心とは、六種あり。云何が六となす。一には執相応染。二乗の解脱と及び信相応地とに依りて遠離するが故に。)

 自下第三明返本時断惑分斉。此中有二。一者正明断分斉。二者言相応者以下。釈相応不相応名。就初中有二。一者明六識惑滅。二者明七識惑尽。六識中惑者有二。一者執取相。二者計名字相。Kkaito02-19L
  (自下は第三に返本の時の断惑の分斉を明かす。この中に二あり。一には正しく断の分斉を明かす。二には「相応者」というより以下は、相応・不相応の名を釈す。初の中に就きて二あり。一には六識惑滅を明かし、二には七識惑尽を明かす。六識の中の惑とは二あり。一には執取相、二には計名字相なり。)Kkaito02-19L

 対治解者是意識中相応之慧治前二惑。成実論中説為空心。計名字者。小乗法中見道時断。大乗之中十信時断。執取相者小乗法中得無学。時断畢竟也。大乗之中種性時断。今此論中略無計名字惑断也。Kkaito02-20R
  (対治の解とは、これ意識の中の相応の慧は前の二惑を治す。『成実論』の中に説きて「空心」と為す。計名字とは、小乗法の中には見道の時に断ず。大乗の中には十信の時に断ず。執取相とは、小乗の法の中には無学を得る時に断じ畢竟〈おわる〉なり。大乗の中には種性の時に断ず。今この論の中には略して計名字惑断なきなり。)Kkaito02-20R

 言六染心者除無明識。其余皆是為染心也。有六種者通挙六七識也。Kkaito02-20R
  (六染心というは、無明識を除きて、その余は皆これ染心と為すなり。「有六種〈六種あり〉」とは、通じて六七識を挙ぐるなり。)Kkaito02-20R

 一者言執相応染者。是執取相也。信相応地者。是種性也。対治慧者。小乗之中入無余時尽。大乗法中初地時尽。Kkaito02-20R
  (一には「執相応染」というは、これ執取相なり。「信相応地」とは、これ種性なり。対治の慧は、小乗の中には無余に入る時に尽くし、大乗の法の中には初地の時に尽くす。)Kkaito02-20R

【論】二者不断相応染。依信相応地修学方便。漸漸能捨。得浄心地究竟離故。
【論】 (二には不断相応染。信相応地に修学する方便に依りて、漸漸に能く捨して、浄心地を得て究竟して離するが故に。)

 二者言不断染者是猶続識。種性以上乃至初地尽也。Kkaito02-20L
  (二には「不断染」というは、これ猶し続識のごとし。種性より以上、乃至、初地に尽くすなり。)Kkaito02-20L

【論】三者分別智相応染。依具戒地漸離。乃至。無相方便地究竟離故。
【論】 (三には分別智相応染。具戒地に依りて漸く離する、乃至、無相方便地に究竟して離するが故に。)

 智相応染者依具戒地者是第二地。無相方便地者是七地也。自八地無相方便。故名無相方便。Kkaito02-20L
  (「智相応染者依具戒地〈智相応染。具戒地に依りて〉」とは、これ第二地なり。「無相方便地」とは、これ七地なり。八地より無相方便の故に「無相方便」と名づくるなり。)Kkaito02-20L

【論】四者現色不相応染。依色自在地能離故。
【論】 (四には現色不相応染。色自在地に依りて能く離るが故に。)

 現色不相応染言色自在地者是第八地。能浄仏土名色自在。Kkaito02-20L
  (「現色不相応染」に「色自在地」というは、これ第八地に能く仏土を浄むるを「色自在」と名づくるなり。)Kkaito02-20L

【論】五者能見心不相応染。依心自在地能離故。
【論】 (五には能見心不相応染。心自在地に依りて能く離るが故に。)

 言能見者是転識也。心自在地者是第九地。善知初心名心自在。Kkaito02-20L
  (「能見」というは、これ転識なり。「心自在地」とは、これ第九地なり。善く初心を知るを心自在と名づくるなり。)Kkaito02-20L

【論】六者根本業不相応染。依菩薩尽地得入如来地能離故。不了一法界義者。従信相応地。観察学断入浄心地。随分得離。乃至。如来地能究竟離故。
【論】 (六には根本業不相応染。菩薩尽くる地、如来地に入ることを得るに依りて能く離るるが故に。一法界を了せざる義とは、信相応地より、観察学断して浄心地に入り、分に随いて離るることを得、乃至、如来地に能く究竟して離るるが故に。)

 第六業識染。菩薩尽地者是第十地。不了一法義者是根本無明地也。地前学断。初地以上離断。仏地窮尽。故勝鬘云。無明地仏智所断也。対治解者。猶是七識縁照之解。治前六種。此解亦尽。初地断捨至仏乃尽。Kkaito02-20L
  (第六に業識染なり。「菩薩尽地」とは、これ第十地なり。「不了一法義〈一法界を了せざる義〉」とは、これ根本無明地なり。地前は学断、初地以上は離断、仏地は窮尽なり。故に『勝鬘』に云く「無明地は仏智の所断なり」と。対治の解は猶しこれ七識縁照の解なり。前の六種を治し、この解もまた尽くす。初地に断捨し、仏に至りて乃ち尽くす。)Kkaito02-20L

 問曰。如来地中断無明業者。真照断惑。合曰断有二種。一者正断。二者証断。縁照正断。真照証断。今此論中就証断門。故入如来地断也。Kkaito02-21R
  (問いて曰く。如来地の中に無明業を断ずとは、真照断惑ならば、合〈まさ〉に断に二種ありというべし。一には正断、二には証断なり。縁照は正断、真照は証断なり。今この論の中には証断門に就くが故に如来地に入りて断ずるなり。)Kkaito02-21R

【論】言相応義者。謂心念法異。依染浄差別。而知相縁相同故。不相応義者。謂即心不覚常無別異。不同知相縁相故。
【論】 (相応の義というは、謂く、心と念法と異なり。染浄の差別に依りて、而も知相と縁相と同じきが故に。不相応の義とは、謂く、心に即する不覚は常に別異なし。知相・縁相を同じくせざるが故に。)

 自下第二釈相応不相応之名義。釈意不同。如毘曇義。心数同時。心王起時諸数並起。相助成故名為相応。如成実論義。心数前後。識心滅後想心同取一青境中。名為相応。大乗法中心相転麁。染用与心共相応。故名相応也。謂心念法異者。念是染用心知。知相縁相同故者。心体是知。染用亦知。詑境迷故言同知縁也。Kkaito02-21R
  (自下は第二に相応・不相応の名義を釈す。釈の意は同じからず。毘曇の義の如きは心数同時なり。心王の起こる時には諸数並び起こりて、相い助成するが故に名づけて相応と為す。『成実論』の義の如きは心数前後し、識心滅の後に、想心、同じく一の青境の中を取るを、名づけて相応と為す。大乗の法の中には心相転た麁にして、染用と心と共に相応するが故に相応と名ずくるなり。「謂心念法異〈謂く、心と念法と異なり〉」とは、念はこれ染用心知。「知相縁相同故〈知相と縁相と同じきが故に〉」とは、心体はこれ知、染用もまた知。境に詑〈あざむ〉かれ〈託か? より〉て迷うが故に「同知縁〈知相と縁相と同じ〉」というなり。)Kkaito02-21R

 不相応者。即心不覚常無別異。即指心体。以為無明。非是心外別有迷用。全体是心。全体是迷。故無別異。不同知相縁相者。体用無異故也。亦可心与境界共相体故名心相応。Kkaito02-21R
  (不相応とは、即ち心不覚なれば常に別異なし。即ち心体を指して以て無明と為す。この心の外に別に迷用あるに非ず。全体これ心、全体これ迷なるが故に別異なし。「不同知相縁相〈知相・縁相を同じくせざる〉」とは、体用に異なきが故なり。また心と境界と共相体なるが故に心相応と名づくるべし。)Kkaito02-21R

 前六種中現識以後是相応者。是麁判。知識之中染浄分別故名相応。若細尋者。但無明地是不相応。業識以後是相応義。皆是恒沙末故。Kkaito02-21L
  (前の六種の中に現識以後はこれ相応なりとは、これ麁判なり。知識の中に染浄分別するが故に相応と名づく。もし細かに尋ぬれば、但無明地のみこれ不相応なり。業識以後はこれ相応の義。皆これ恒沙の末なるが故に。)Kkaito02-21L

 此義更窮応当広論。於中二門分別。一対心識明其相応不相応義。二就惑体明相応不相応義。Kkaito02-21L
  (この義は更に窮め、応当に広く論ずべし。中に於いて二門分別あり。一には心識に対してその相応・不相応の義を明かす。二には惑体に就きて相応・不相応の義を明かす。)Kkaito02-21L

 言対心者心有三種。一者事識心。所謂六識。二者妄識心。謂第七識。三者真識心。謂第八識。Kkaito02-21L
  (対心というは、心に三種あり。一には事識心。所謂る六識なり。二には妄識心。謂く第七識なり。三には真識心。謂く第八識なり。)Kkaito02-21L

 彼事識中所有煩悩有二義。一相応義。謂現起之惑煩悩之心。与心別体共心同縁。故曰相応。如想受等。二不相応義。謂性成之結。即説心体為煩悩性。不別有数与彼心王共相応。故曰不相応也。Kkaito02-21L
  (彼の事識の中の所有の煩悩に二義あり。一には相応の義。謂く現起の惑煩悩の心と心と別体にして心を共にして同縁す。故に相応という。想受等の如し。二には不相応の義。謂く性成の結。即ち心体を説きて煩悩の性と為す。別に数ありて彼の心王と共に相応するにあらざるが故に不相応というなり。)Kkaito02-21L

 妄識之中亦有二義。心有六重。此如上説。此六種中根本四重是不相応。末後両重名相応義。相応之義釈不異前。不相応者即指七識。妄想心体以為煩悩。非是心外別有煩悩共心相応。名不相応也。Kkaito02-22R
  (妄識の中にまた二義あり。心に六重あり。これは上に説くが如し。この六種の中に根本四重はこれ不相応なり。末後の両重を相応の義と名づく。相応の義釈は前に異ならず。不相応とは即ち七識を指す。妄想の心体を以て煩悩と為す。これ心の外に別に煩悩ありて心と共に相応するに非ざるを不相応と名づくるなり。)Kkaito02-22R

 問曰。何故麁者相応細不相応。釈曰。麁者有時作意別相而起。故与心別共相応。細者性成非別起。故名不相応。Kkaito02-21R
  (問いて曰く。何が故ぞ麁なる者は相応し、細なるは相応せざる。釈して曰く。麁なる者は有時に作意して別相にして起こるが故に心と別して共に相応す。細なる者は性成にして別起に非ざるが故に不相応と名づくるなり。)Kkaito02-21R

 真識之中亦有両義。真妄和合名相応義。真妄性別名不相応。Kkaito02-21R
  (真識の中にもまた両義あり。真と妄と和合するを相応の義と名づく。真と妄と性別なるを不相応と名づくるなり。)Kkaito02-21R

 次就惑体相其相応不相応義。惑体有四。一無明地。二無明起。三四位地。四四住地起。Kkaito02-22R
  (次に惑の体相に就きて、その相応・不相応の義をいわば、惑の体に四あり。一には無明地。二には無明起。三には四位地。四には四住地起なり。)Kkaito02-22R

 四種中無明住地定不相応。故勝鬘云。心不相応無始無明住地也。妄識之心体是無明故不相応。無明前起経説相応。故勝鬘云。於此起煩悩刹那相応。而随義細論。於中亦有不相応義。是云何知。如此論中。業転現識是不相応染。智識相続識是相応染。然而此五皆此無明所起故有無相応義。Kkaito02-22L
  (四種の中に無明住地は定めて不相応なり。故に『勝鬘』に云く「心は相応せず。無始無明住地なり」。妄識の心体はこれ無明なるが故に相応せず。無明前起は経に相応と説く。故に『勝鬘』に云く「ここに於いて煩悩を起こして刹那に相応す」。而るに義に随いて細論するに、中に於いて、また不相応の義あり。これ云何が知るや。この論の中の如し。業・転・現識はこれ不相応染、智識・相続識はこれ相応染なり。然るにこの五は皆これ無明所起なるが故に有りて、相応の義なし。)Kkaito02-22L

 問曰。若爾勝鬘何故一向説為相応。答曰。為別無明故偏言耳。Kkaito02-22L
  (問いて曰く。もし爾らば『勝鬘』は何が故ぞ一向に説きて相応と為すや。答えて曰く。無明と別にせんが為の故に偏に言うのみ。)Kkaito02-22L

 四住地者。総相麁論。唯心相応。随義細分倶有二義。現起之惑共心相応。性成之惑与心同体。名不相応。以有此義故雑心中。一家説使定心相応。一家説使定不相応。義既両偏不可偏執。四住所起一向相応。以彼麁起与心別故。故勝鬘云。四住起者刹那相応也。此論中就妄識明相応不相応義。Kkaito02-22L
  (四住地とは、総相麁論なり。唯心のみ相応す。義に随いて細分するに倶に二義あり。現起の惑は共に心相応し、性成の惑は心と同体なるを不相応と名づく。この義あるを以ての故に『雑心』の中に、一家は使定心相応と説き、一家は使定不相応と説く。義は既に両偏すれば、偏執すべからず。四住所起は一向相応なり。彼の麁起と心と別なるを以ての故に。故に『勝鬘』に云く「四住起は刹那相応なり」。この論の中には妄識に就きて相応・不相応の義を明かす。)Kkaito02-22L

【論】又染心義者。名為煩悩礙。能障真如根本智故。無明義者。名為智礙。能障世間自然業智故。
【論】 (また染心の義とは、名づけて煩悩礙となす。能く真如根本智を障うるが故に。無明の義とは、名づけて智礙となす。能く世間の自然業智を障うるが故に。)

 自下第四就二障弁。前明六重摂為二障。根本無明以為智障。業識以下為煩悩障。然此二障且応広論。夫二障者諸衆生等没生死中重網羅也。衆惑之根源。遮涅槃路之剛関也。能障聖道名之為障。障乃無量。取要言之凡有二。一者煩悩障。二者智障。Kkaito02-23R
  (自下は第四に二障に就きて弁ず。前に六重を明かして摂して二障と為す。根本無明を以て智障と為し、業識以下を煩悩障と為す。然るにこの二障を且く応に広く論ずべし。それ二障は諸の衆生等、生死中に没するの重網羅なり。衆惑の根源、涅槃の路を遮するの剛関なり。能く聖道を障う、これを名づけて障と為す。障は乃し無量なり。要を取りてこれを言ば、凡そ二あり。一には煩悩障、二には智障なり。)Kkaito02-23R

 此二障義有三番釈。一者四住煩悩為煩悩障。無明住地以為智障。二者五住性緒為煩性障。事中無知以為智障。無明有二。一迷理無明。二事無知。迷理無明是性結也。三者五住性結及事無知同為煩悩障。分別縁智以為智障。Kkaito02-23R
  (この二障の義に三番の釈あり。一には四住煩悩を煩悩障と為し、無明住地を以て智障と為す。二には五住性緒〈五住性結か?〉を煩性障〈煩悩障か?〉と為し、事の中の無知を以て智障と為す。無明に二あり。一には迷理無明、二には事無知なり。迷理無明はこれ性結なり。三には五住性結及び事無知を同じく煩悩障と為し、分別縁智を以て智障と為す。)Kkaito02-23R

 就初番中四門分別。一定障相。二釈障名。三明断処。四対障弁脱。Kkaito02-23L
  (初番の中に就きて四門分別す。一に障相を定む。二に障名を釈す。三に断処を明かす。四に障に対して脱を弁ず。)Kkaito02-23L

 言定相者云何得知。四住煩悩為煩悩障。無明住地以為智障。以勝鬘経対地持論験之知矣。勝鬘経中就二乗人但断四住。不断無明住地。地持論中説。二乗人煩悩障浄非智障浄。煩悩浄者猶勝鬘中所断四住。非智障浄者猶彼不断無明住地。故知。四住為煩悩障。無明住地為智障也。Kkaito02-23L
  (定相というは、云何が知ることを得るや。四住の煩悩を煩悩障と為す。無明住地を以て智障と為す。『勝鬘経』を以て『地持論』に対し、これを験じて知る。『勝鬘経』の中に二乗の人に就きて、但、四住を断じて無明住地を断ぜず。『地持論』の中に説く「二乗の人、煩悩障浄にして智障浄に非ず」。煩悩浄は『勝鬘』の中の所断の四住の猶し。非智障浄は彼の不断無明住地の猶し。故に知りぬ。四住を煩悩障と為す。無明住地を智障と為す。)Kkaito02-23L

 次釈其名。五住之結通能労乱。斉能障智。何故四住遍名煩悩障。無明独為智障。答。理実斉通。但今為分二障差別隠顕為名。等就隠顕各随功強以別両名。四住煩悩現起之結。発業生労乱義。強偏名煩悩。異心之惑与解別体。疏遠翳障智微劣。故不名智障。無明闇惑正遠明解。親近翳障智義強。故名智障。任性無知非是現起。不能発業招集苦報。労乱微劣故不名煩悩障也。Kkaito02-23L
  (次にその名を釈す。五住の結は通じて能く労乱して、斉しく能く智を障う。何が故ぞ四住を遍に煩悩障と名づけ、無明を独り智障と為すや。答う。理実には斉しく通ず。但し今、為に二障の差別を分かたば、隠顕を名と為す。等しく隠顕に就きて、おのおの功の強きに随いて以て両名を別す。四住煩悩、現起の結なり。業を発して労乱を生ずるの義の強きを偏に煩悩と名づく。異心の惑と解と別体疏遠にして智を翳障するに微劣なるが故に智障と名づけず。無明の闇惑は正しく明解を遠ざけ、親近して智を翳障する義強きが故に智障と名づく。任性無知はこれ現起に非らず。業を発して苦報を招集すること能わず。労乱すること微劣なるが故に煩悩障と名づけざるなり。)Kkaito02-23L

 次明断処。略有二階。第一大小相対分別。二者直就大乗世出世間相対分別。Kkaito02-24R
  (次に断処を明かす。略して二階あり。第一には大小相対して分別し、二には直ちに大乗世出世間に就きて相対して分別す。)Kkaito02-24R

 大小対中義別三門。一者隠顕互論。二乗之人但除煩悩。菩薩之人唯滅智障。二乗非不分除智障。所断微劣隠細従麁。是故不論。菩薩非不除断煩悩。所断相微隠麁従細。是故不説。Kkaito02-24R
  (大小対の中に義は別して三門あり。一には隠顕互に論ず。二乗の人は但、煩悩を除き、菩薩の人は唯、智障を滅す。二乗は分に智障を除かざるに非ず。所断は微劣にして隠細、麁に従う。この故に論ぜず。菩薩は煩悩を除断せざるに非ず。所断の相は微隠にして麁は細に従う。この故に説かず。)Kkaito02-24R

 二者優劣相形。二乗解劣但断煩悩。菩薩治広二障双除。故地持云。声聞縁覚煩悩障浄非智障浄。菩薩種姓具足二浄。Kkaito02-24L
  (二には優劣の相形。二乗の解は劣にして但、煩悩を断ず。菩薩の治は広くして二障双べ除く。故に『地持』に云く「声聞縁覚は煩悩障浄にして智障浄に非ず。菩薩の種姓は二浄を具足す」と。)Kkaito02-24L

 三者拠実通論。二乗菩薩二障双除。言就大乗世間出世間相対弁者。解行已前名為世間。初地以上名為出世。於中分別乃有四門。一廃麁論細。地前菩薩於彼二障一向未断。初地以上二障並除。故涅槃中宣説。地前具煩悩性。Kkaito02-24L
  (三には実に拠りて通論す。二乗菩薩は二障を双べ除く。大乗世間出世間に就きて相対して弁ずというは、解行已前を名づけて世間と為し、初地以上を名づけて出世と為す。中に於いて分別すれば乃ち四門あり。一には麁を廃して細を論ず。地前の菩薩は彼の二障に於いて一向に未だ断ぜず。初地以上は二障並べ除く。故に『涅槃』の中に宣説すらく、地前は煩悩性を具すと。)Kkaito02-24L

 二者隠顕互論。地前世間但断煩悩。初地以上唯除智障。Kkaito02-24L
  (二には隠顕、互に論ず。地前世間は但、煩悩を断つ。初地以上は唯、智障を除く。)Kkaito02-24L

 三者優劣相形。地前解劣唯除煩悩。地上解勝二障双断。Kkaito02-24L
  (三には優劣の相形。地前は解劣にして唯、煩悩を除く。地上は解勝れて二障を双び断ず。)Kkaito02-24L

 四者拠実。通世及出世二障双除。相状如何。煩悩障中有其二種。一者子結。二者果結。子結煩悩地前所断。果縛煩悩地上所除。Kkaito02-25R
  (四には実に拠る。世及び出世に通じて二障を双び除く。相状は如何。煩悩障の中に、その二種あり。一には子結。二には果結。子結煩悩は地前の断ずる所。果縛の煩悩は地上に除く所なり。)Kkaito02-25R

 子結之中復有二種。一者正使作意而生。二者余習任性而起。正使煩悩声聞縁覚乃至性種断之周尽。習起之結習種性以上乃至相地断之畢竟。故地持云。初阿僧祇過解行住入歓喜地。断増上中悪趣煩悩不善正使。名為増上習名為中。入歓喜時悉皆断也。Kkaito02-25R
  (子結の中に、また二種あり。一には正使、作意して生ず。二には余習、性に任せて起こる。正使の煩悩は声聞縁覚、乃至、性種、これを断ずること周く尽くす。習起の結は習種性より以上、乃至、相地にこれを断じ畢竟す。故に『地持』に云く。初阿僧祇に解行住を過ぎ、歓喜地に入り、増上中悪趣煩悩不善正使を断ずるを名づけて増上習と為し、名づけて中と為す。歓喜に入る時に悉く皆断ずるなり。)Kkaito02-25R

 果縛之中亦有二種。一者正使作意而生。二者習気任運而起。正使煩悩所謂愛仏愛菩提等。始従初地次第断除。至不動地断之周尽。故地持云。第二阿僧祇過第七住入第八地。微細煩悩皆悉断滅。八地以上除彼余習。故地持云。第三阿僧祇断除習気入最上住。Kkaito02-25R
  (果縛の中にまた二種あり。一には正使。作意して生ず。二には習気。任運にして起こる。正使煩悩は所謂、仏を愛し菩提を愛する等なり。始に初地より次第に断除して、不動地に至りてこれを断ずること周尽す。故に『地持』に云く。第二阿僧祇に第七住を過ぎて第八地に入り、微細煩悩皆悉く断滅す。八地以上に彼の余習を除く。故に『地持』に云く。第三阿僧祇に習気を断除し最上住に入る。)Kkaito02-25R

 智障之中亦有二種。一者迷相。二者迷実。情所趣法名之為相。不能悟解云其本無。説以為迷。如来蔵性説以為実。不能窮達説以為迷。迷相無明地前所除。迷実無明地上所遣。Kkaito02-25L
  (智障の中にまた二種あり。一には迷相。二には迷実。情の所趣法、これを名づけて相と為す。その本無ということ悟解すること能わずして、説きて以て迷と為す。如来蔵性を説きて以て実と為す。窮達すること能わざるを説きて以て迷と為す。迷相の無明は地前に除く所にして、迷実の無明は地上に遣る所なり。)Kkaito02-25L

 迷相無明復有二種。一者迷相立性。二者迷性立相。言迷相者妄法虚集以之為相。不知虚集建立定相名之迷也。言迷性者情而起法無性為性。迷此性故立因縁相也。迷相無明声聞縁覚乃至性種断之窮尽。迷性無明習種性以上乃至初地皆悉断除。Kkaito02-25L
  (迷相の無明に、また二種あり。一には迷相立性。二には迷性立相。迷相というは、妄法虚集、これを以て相と為す。虚集を知らず、定相を建立する、これを迷と名づく。迷性というは、情にして法を起こして無性なるを性と為す。この性に迷うが故に因縁相を立つるなり。迷相の無明は声聞縁覚、乃至、性種にこれを断ずること窮尽するなり。迷性の無明は習種性より以上、乃至、初地に皆悉く断除す。)Kkaito02-25L

 迷実無明亦有二種。一者迷実相。二者迷実性。空寂無為是其実相。不能知是寂泊無為故名迷相。如来蔵中恒沙仏法真実元有是其実性。不能窮証説為迷性。此二無明説断不定。若依地経。初地以上乃至六地除其迷相。是故得為明別順忍。七地以上断迷実性。是故証得無生忍体。若依涅槃。九地以還断其迷相。是故説為聞見仏性。十地以上断迷実性。是故説為眼見仏性。以験求二障皆是始終通断。治断麁爾。Kkaito02-26R
  (迷実の無明にもまた二種あり。一には実相に迷う。二には実性に迷う。空寂無為、これその実相にして、これ寂泊無為なることを知ること能わざるが故に迷相と名づく。如来蔵中の恒沙の仏法、真実元有なる、これその実性なり。窮証すること能わざるを説きて迷性と為す。この二の無明は断を説くこと不定なり。もし『地経』に依らば、初地以上、乃至、六地にその迷相を除く。この故に明別順忍と為すことを得。七地以上に迷実性を断ず。この故に無生忍の体を証得す。もし『涅槃』に依らば、九地以還にその迷相を断ず。この故に説きて聞見仏性と為す。十地以上に迷実性を断ず。この故に説きて眼見仏性と為す。以て二障を験求するに皆これ始終通じて断ず。治断は麁爾り。)Kkaito02-26R

 次弁第四対障弁脱。断煩悩障得心解脱。断除智障得慧解脱。是義云何。分別有二。一者隠顕互論。断煩悩障。諸仏菩薩世諦心脱。断除智障。真諦慧解脱。何故如是。煩悩染事故断煩悩。世諦心脱。断煩悩。理実雖随有一切徳脱就主為名。遍言心脱。無明障理。故断無明。真諦慧脱断無明。時即理所成一切徳脱就主作名。遍名慧脱。Kkaito02-26R
  (次に第四の対障弁脱を弁ず。煩悩障を断じて心解脱を得、智障を断除して慧解脱を得。この義は云何。分別に二あり。一には隠顕、互いに論ず。煩悩障を断じて、諸仏菩薩に世諦心脱す。智障を断除して真諦慧解脱す。何が故ぞかくの如きなる。煩悩は事を染ずるが故に煩悩を断じて、世諦心脱す。煩悩を断ず、理実には随いて一切徳脱ありと雖ども、主に就きて名と為して、遍に心脱という。無明は理を障うるが故に無明を断ずれば真諦慧脱す。無明を断ずる時に、即ち理所成の一切の徳脱す。主に就きて名を作し、遍えに慧脱と名づく。)Kkaito02-26R

 二者対障寛狭分別。断煩悩障。唯除事中染愛心故。世諦心脱断。智障時除無明地。及断事中麁無明。故二諦慧脱。此初番竟。Kkaito02-26L
  (二には障の寛狭に対して分別す。煩悩障を断ずるは、唯、事の中の染愛心を除くが故に世諦心脱す。智障を断ずる時、無明地を除き、及び事中の麁無明を断ずるが故に、二諦慧脱す。これ初番竟りぬ。)Kkaito02-26L

大乗起信論義疏上

发表评论

滚动至顶部