浄影寺沙門慧遠撰
第二番中亦有四門。一定障相。二釈障名。三明断処。四対障弁脱。
(第二番の中にまた四門あり。一に障相を定め、二に障の名を釈し、三に断処を明かし、四に障に対して脱を弁ず。)Keonsyo03-01R
言定相者。云何得知。五住性結為煩悩障。事中無知以為智障。Keonsyo03-01R
(定相というは、云何が知ることを得るや。五住性結を煩悩障と為す。事の中の無知を以て智障と為す。)Keonsyo03-01R
如涅槃説。断除一切貪瞋痴等得心解脱。一切所知無障礙。故得慧解脱。貪瞋痴者即是五住性結煩悩。一切所知得無礙者。当知即是除事無知。又如地経以仏無礙為慧解脱。当知即是除事無知。遠離痴染為心解脱。当知即是五住性結為煩悩障。又雑心云。如来断除二種無知。一者断染汚。二者断不染汚。染汚無知即是五住性結煩悩。不染汚無知即是事中無明之心。准験斯等当知。以彼五住性結為煩悩障。事中無知以為智障。Keonsyo03-01R
(『涅槃』に説くが如し。一切貪瞋痴等を断除して心解脱を得。一切の所知に障礙なきが故に慧解脱を得。貪瞋痴とは即ちこれ五住性結の煩悩なり。一切の所知に無礙を得とは、当に知るべし、即これ事無知を除くなり。また『地経』の如きは仏無礙を以て慧解脱と為す。当に知るべし、即ちこれ事無知を除き、痴染を遠離するを心解脱と為す。当に知るべし、即これ五住性結を煩悩障と為す。また『雑心』に云く。如来は二種の無知を断除す。一には染汚を断じ、二には不染汚を断ず。染汚無知は即ちこれ五住性結の煩悩なり。不染汚無知は即ちこれ事中の無明の心なり。これ等を准験して当に知るべし。彼の五住性結を以て煩悩障と為し、事中の無知を以て智障と為す。)Keonsyo03-01RL
次釈其名。五住性結能起分段変易生死。労乱行人故名煩悩障。事中闇惑能障如来種知明解。是故説此為智障也。Keonsyo03-01L
(次にその名を釈す。五住性結は能く分段・変易の生死を起こす。行人を労乱するが故に煩悩障と名づく。事中の闇惑は能く如来種知明解を障う。この故にこれを説きて智障と為すなり。)Keonsyo03-01L
次弁断処。処別有三。一者世出世間相対分別。二者功用無功用相対分別。三者因果相対分別。Keonsyo03-01L
(次に断処を弁ず。処の別に三あり。一には世・出世間相対分別、二には功用・無功用相対分別、三には因果相対分別なり。)Keonsyo03-01L
就初対中義別有二。一者隠顕互論。地前断除五住性結。以彼捨相趣順如故。初地以上断除智障。以彼地上契合法界了達諸法無障礙故。故地経云。於初地中一切世間文訟咒術不可窮尽。二者優劣相形。地前菩薩唯除煩悩。初地以上智行寛広二障双除。Keonsyo03-01L
(初対の中に就きて義の別に二あり。一には隠顕互論。地前に五住性結を断除す。彼は相を捨て如に趣順するを以ての故に。初地以上に智障を断除す。彼は地上に法界に契合し諸法を了達して障礙なきを以ての故に。故に『地経〈十地経論〉』に云く「初地の中に於いて一切世間の文訟咒術、窮尽すべからず」と。二には優劣相形。地前の菩薩は唯、煩悩を除き、初地以上は智行寛広にして、二障双べ除く。)Keonsyo03-01L
第二対中義別有二。一者隠顕互論。七地以前唯除煩悩。八地以上滅除智障。如八地中浄仏国土。断除一切色中無知。九地之中了初心行。滅除一切心行無知。第十地中於諸法中得勝自在。断一切法中無知。此等皆是除事無知。二者優劣相形。七地以還唯除煩悩。八地以上二障双除。Keonsyo03-02R
(第二対の中に義の別に二あり。一には隠顕互論。七地以前には、唯、煩悩を除く。八地以上には智障を滅除す。八地の中の如きは仏国土を浄め、一切の色中の無知を断除す。九地の中に初心の行を了し、一切の心行の無知を滅除す。第十地の中には諸法の中に於いて勝自在を得、一切法の中の無知を断ず。これ等は皆これ事無知を除く。二には優劣相形。七地以還には、唯、煩悩を除き、八地以上には二障を双べ除く。)Keonsyo03-02R
第三対中義別有二。一者隠顕互論。金剛以還断煩悩障。如来地中種智現起。了達一切差別諸法。断除智障。以事無知難除断故至仏乃尽。二者優劣相形。金剛以還唯断煩悩。如来果徳二障双断。Keonsyo03-02R
(第三対の中に義の別に二あり。一には隠顕互論。金剛以還に煩悩障を断ち、如来地の中に種智現起し、一切の差別の諸法を了達し、智障を断除す。事無知は除断すること難きを以ての故に、仏に至りて乃し尽くす。二には優劣相形。金剛以還は、唯、煩悩を断じ、如来の果徳には二障を双べ断ず。)Keonsyo03-02R
次弁対障明脱。除煩悩障得心解脱。滅除智障得慧解脱。言心脱者其有二種。一仏菩薩行世間心。二仏菩薩第一義心。断四住故世諦心脱。除無明故真諦心脱。言慧脱者諸照世間一切種知得解脱也。Keonsyo03-02L
(次に障に対して脱を明かすことを弁ぜば、煩悩障を除きて、心解脱を得、智障を滅除して、慧解脱を得。心脱というは、それ二種あり。一には仏菩薩行世間の心。二には仏菩薩第一義の心なり。四住を断ずるが故に世諦の心脱す。無明を除くが故に真諦の心脱す。慧脱というは、諸、世間を照す一切種知にして、解脱を得るなり。)Keonsyo03-02L
第三番中亦有四門。一定其障相。二釈障名。三明断処。四対障弁脱。Keonsyo03-02L
(第三番の中にまた四門あり。一にはその障相を定む。二には障名を釈す。三には断処を明かす。四には障に対して脱を弁ず。)Keonsyo03-02L
言定相者云何得知。五住性結及事無知為煩悩障。分別之智以為智障。Keonsyo03-02L
(定相というは、云何が知ることを得るや。五住性結及び事無知を煩悩障と為し、分別の智を以て智障と為す。)Keonsyo03-02L
如勝鬘云。五住及起同名煩悩。明知五住及事無智是煩悩障。Keonsyo03-02L
(『勝鬘』に云うが如し。五住及び起こるを同じく煩悩と名づく。明らかに知りぬ、五住及び事無智、これ煩悩障なり。)Keonsyo03-02L
言分別智為智障者如宝性論説。有四種障不得如来浄我楽常。一者縁相謂無明地。以是障故不得如来究竟真浄。二者因相謂無漏業。以是障故不得真我。三者生相謂意生身。以是障故不得真楽。四者壊相謂変易生死。以是障故不得真常。彼既宣説無漏業障不得真我。是故定知。分別縁智是其智障。Keonsyo03-02L
(分別智を智障と為すというは、『宝性論』に説くが如し「四種の障ありて如来の浄我楽常を得ず。一には縁相。謂く無明地なり。この障を以ての故に如来の究竟真浄を得ず。二には因相。謂く無漏業なり。この障を以ての故に真我を得ず。三には生相。謂く意生身なり。この障を以ての故に真楽を得ず。四には壊相。謂く変易生死なり。この障を以ての故に真常を得ず」。彼は既に無漏業障は真我を得ずと宣説す。この故に定んで知りぬ、分別縁智はこれその智障なることを。)Keonsyo03-02L
又如地経六地中説智障浄因事。謂不分別空三昧。以不分別為智障浄。明知即用分別之智以為智障。Keonsyo03-03R
(また『地経』の六地の中に智障浄の因事を説くが如し。謂く空三昧を分別せず、不分別を以て智障浄と為す。明らかに知りぬ、即ち分別の智を用いて、以て智障と為す。)Keonsyo03-03R
又楞伽経云。妄想爾炎慧彼滅得我涅槃。滅爾炎慧方名涅槃。明知。所滅妄慧是障。Keonsyo03-03R
(また『楞伽経』に云く「妄想爾炎慧、彼滅して我が涅槃を得」と。爾炎の慧を滅するを方に涅槃と名づく。明らかに知りぬ、所滅の妄慧はこれ障なり。)Keonsyo03-03R
又龍樹説。如彼覚観。望下為善。望第二禅即是罪過。乃至非想望下為善。望出世道即是罪過。縁智如是。望世為善。望其実性亦是罪過。既言罪過何為非障。Keonsyo03-03R
(また龍樹の説かく。彼の覚観の如きは下に望むれば善と為り、第二禅に望むれば即ちこれ罪過なり。乃至、非想を下に望むれば善と為り、出世道に望むれば即りこれ罪過なり。縁智もかくの如し。世に望むれば善と為り、それ実性に望むれば、またこれ罪過なり。既に罪過という、何んぞ障に非ずと為ん。)Keonsyo03-03R
次釈其名。五住性結及事無知体。是闇惑労乱之法故名煩悩。縁智礙真故名智障。Keonsyo03-03L
(次にその名を釈す。五住性結及び事無知体はこれ闇惑労乱の法なるが故に煩悩と名づく。縁智は真を礙ぐるが故に智障と名づく。)Keonsyo03-03L
問曰。此智能顕真。故経中説為了因也。何故今説為智障乎。多義如真故復名障。如薬治病若薬不去薬復成患。此亦如是。云何妨真。Keonsyo03-03L
(問いて曰く。この智は能く真を顕す。故に経の中に説いて了因と為すなり。何が故ぞ今説きて智障と為すや。多義、真の如くなるが故にまた障と名づく。薬は病を治すれども、もし薬去らざれば、薬また患と成るが如し。これもまたかくの如し。云何が真を妨ぐる。)Keonsyo03-03L
如維摩説。寂滅是菩提。滅諸相故此智是相。所以是障。不観是菩提。離諸縁故此智是縁。所以為障。不行是菩提。無憶念故此智憶念。所以為障。断是菩提。断諸是故此智是見。所以是障。離是菩提。離妄想故此知妄想。所以是障。障是菩提。障諸願故此智是願。所以是障。菩提真明此智性闇。所以是障。如世楽受。性是行苦。如是等過不可具陳。皆違真徳故説為障。Keonsyo03-03L
(『維摩』に説くが如し。「寂滅はこれ菩提なり。諸相を滅するが故に」。この智はこれ相なり。所以にこれ障なり。「不観はこれ菩提にして、諸縁を離るるが故に」。この智はこれ縁なり。所以に障と為り、「不行はこれ菩提なり。憶念なきが故に」。これ智は憶念す。所以に障と為す。「断はこれ菩提なり。諸是〈見か?〉を断ずるが故に」。この智はこれ見なり。所以にこれ障なり。「離はこれ菩提なり。妄想を離るるが故に」。この知は妄想なり。所以にこれ障なり。障はこれ菩提なり。諸願を障うるが故に、この智はこれ願なり。所以にこれ障なり。菩提は真明なり。この智は性闇なり。所以にこれ障なり。世楽受の如き、性はこれ行苦なり。かくの如き等の過は具陳すべからず。皆、真徳に違するが故に説きて障と為す。)Keonsyo03-03L
次弁断処。断処有二。一者地前地上相対分別。二者直就地上世出世間相対分別。Keonsyo03-04R
(次に断処を弁ず。断処に二あり。一には地前と地上と相対して分別す。二には直ちに地上に就きて世と出世間と相対して分別す。)Keonsyo03-04R
就初対中義別有二。一隠顕互論。解行已前増相修故断煩悩障。初地以上捨相修故断除智障。云何増相能除煩悩。煩悩正以闇惑為患。従初已来修習明解縁智転増闇惑漸捨。至解行時明解増上惑障窮尽。説之為断。云何捨相。能断智障。智障正以分別為過。初地以上窮証自実縁修漸捨。分別過滅名断智障。Keonsyo03-04R
(初対の中に就きて義別に二あり。一には隠顕、互いに論ず。解行已前には増相修の故に煩悩障を断つ。初地以上には捨相修の故に智障を断除す。云何が増相は能く煩悩を除くや。煩悩は正しく闇惑を以て患と為す。初よりこのかた明解を修習し縁智転た増して闇惑を漸く捨つ。解行に至る時、明解は増上し、惑障は窮尽す。これを説きて断と為す。云何が捨相、能く智障を断ずる。智障は正しく分別を以て過と為す。初地以上は自実を窮証し、縁修して漸く捨つ。分別の過滅するを智障を断ずると名づく。)Keonsyo03-04R
二優劣相形。地前菩薩唯断煩悩。初地以上対治深広二障双除。若論事識解滅者地前亦得。但不論耳。次就地上世出世間相対分別。初二三地名為世間。四地以上名為出世。Keonsyo03-04R
(二には優劣相形。地前の菩薩は唯、煩悩を断じ、初地以上は対治深広にして二障双べ除く。もし事識の解滅を論ずれば、地前もまた得るも、但、論ぜざるのみ。次に地上に就きて世・出世間を相対して分別せば、初二三地を名づけて世間と為し、四地以上を名づけて出世と為す。)Keonsyo03-04R
於中亦有二門分別。一者隠顕互論。三地以還世間之行断煩悩障。四地以上出世真慧断除智障。云何世間除煩悩障。如地論説初地断除凡夫我相障。凡夫我障即是見一処住地。第二地中断除能犯惑煩悩。犯惑煩悩即是欲愛色愛有愛三種住地。第三地中断除闇相聞思修等諸法妄障。闇相即是無明住地。是故明地世間但断煩悩障也。Keonsyo03-04L
(中に於いてまた二門の分別あり。一には隠顕互いに論ず。三地以還には世間の行をもって煩悩障を断ず。四地以上には出世の真慧をもって智障を断除す。云何が世間に煩悩障を除くや。『地論』に説くが如し。「初地に凡夫の我相の障を断除す」。凡夫の我障は即ちこれ見一処住地なり。「第二地の中に能く犯惑〈戒か?〉煩悩を断除す」。犯惑〈戒か?〉煩悩は即ちこれ欲愛・色愛・有愛三種住地なり。「第三地の中に闇相聞思修等の諸法妄障を断除す」。闇相は即ちこれ無明住地なり。この故に地世間に但、煩悩障を断ずることを明かすなり。)Keonsyo03-04L
云何出世能断智障。智障有三。一是智障。所謂空有之心。二是体障。所謂建立神智之体。相状如何。謂彼縁智正観諸法非有非無。捨前分別有無之礙。雖捨分別有無之礙而猶見已以為能観。如為所観。見已能観心与如異。如為所観。如与心別。由見已心与如別故未能泯捨神知之礙。説為体障。Keonsyo03-04L
(云何が出世は能く智障を断ずるや。智障に三あり。一にはこれ智障。所謂る空有の心。二にはこれ体障。所謂る建立神智の体。相状は如何。謂く彼の縁智は正しく諸法非有非無と観じて、前の分別有無の礙を捨つ。分別有無の礙を捨つと雖も、而も猶〈なお〉見已を以て能観と為し、如を所観と為す。見已能観心と如とは異なりて、如を所観と為す。如と心とは別なり。見已心と如とは別なるに由るが故に、未だ神知の礙を泯捨すること能わざるを説きて体障と為す。)Keonsyo03-04L
三是治想。通而論之向前二種倶是治想。但此一門治中究竟偏与治名。然此治相亦是縁智。対治破前神智之礙。実心合如。雖復合如。論其体猶是七識生滅之法。障於真証無生滅慧故名為障。障別如此。Keonsyo03-05R
(三にはこれ治想なり。通じてこれを論ずれば、向前の二種は倶にこれ治想なり。但この一門は治の中の究竟なれば、偏に治の名を与う。然るにこの治相は、またこれ縁智なり。対治して前の神智の礙を破す。実心は如に合す。また如に合すと雖も、その体を論ずれば猶〈なお〉これ七識生滅の法なり。真証無生滅の慧を障うるが故に名づけて障と為す。障別はかくの如し。)Keonsyo03-05R
治断云何。始従四地乃至七地断除智障。入第八地断除体障。八地以上至如来地断除治想。Keonsyo03-05R
(治断は云何ん。始め四地より乃至、七地まで智障を断除す。第八地に入りて体障を断除す。八地以上より如来地に至るまでは治想を断除す。)Keonsyo03-05R
云何断智障。四五六地観空破有。捨離分別取有之智。故地経中広明。四地観察諸法。不生不滅。捨離分別解法慢障。第五地中観察三世。仏法平等。捨離分別身浄慢心。第六地中観法平等。捨離分別染浄慢心。此等皆是観空破取有之心。第七地中観諸法如。捨前分別取空之心。離如此等名断智障。Keonsyo03-05L
(云何が智障を断ずるや。四五六地は空を観じて有を破し、分別取有の智を捨離す。故に『地経』の中に広く明かさく。四地には諸法の不生不滅を観察し、分別解法慢の障を捨離す。第五地の中には三世を観察し、仏法平等に分別身浄慢の心を捨離す。第六地の中には法平等を観じ、分別染浄慢の心を捨離す。これ等は皆これ空を観じて取有の心を破す。第七地の中には諸法の如を観じ、前の分別取空の心を捨す。かくの如き等を離るるを智障を断ずと名づく。)Keonsyo03-05L
云何八地断除体障。前七地中雖観法如猶見己心。以為能観。如為所観。以是見故心与如異。不能広大任運不動入第八地。破此等礙。観察如外由来無心。心外無如。如外無心無心異如。心外無如無如異心。無心異如不見能知。無如異心不見所知。能所既亡泯同一相。便捨分別功用之意。捨功用故行与如等。広大不動名入八地。此徳成時名断体障。Keonsyo03-05L
(云何が八地に体障を断除するや。前の七地の中には法如を観ずると雖も猶し己心を見て、以て能観と為し、如を所観と為す。この見を以ての故に心と如と異にして、広大任運不動にして第八地に入ること能わず。これ等の礙を破して、如の外に由〈もとより〉このかた心なく、心の外に如なしと観察す。如の外に心なければ、心は如に異なることなし。心の外に如なければ、如は心に異なることなし。心は如に異なることなければ、能知を見ず。如は心に異なることなければ、所知を見ず。能所は既に亡泯して同一相なり。便ち分別功用の意を捨つ。功用を捨つるが故に行と如とは等し。広大にして動ぜざるを八地に入ると名づけ、この徳の成ずる時を体障を断ずと名づく。)Keonsyo03-05L
云何八地至如来地断除治想。向前八地雖除体障治想猶存。故八地云。此第八地雖無障相非無治想。然此治想八地以上漸次除至仏乃尽。彼云何断者。分別息故真相現前。覚法唯真本末無妄。以此見真。無妄力故能令妄治。前不生後。後不起前。於是滅尽也。Keonsyo03-06R
(云何が八地より如来地に至りて治想を断除するや。向前の八地は体障を除くと雖も治想は猶〈なお〉存す。故に八地に云く。この第八地は障相なしと雖も、治想なきに非ず。然るにこの治想は八地以上に漸次に除き、仏に至りて乃し尽く。彼は云何が断ずるとならば、分別息むが故に真相現前す。法は唯真にして本末〈来か?〉、妄なしと覚すれば、これを以て真を見て、妄力なきが故に能く妄をして治せしむ。前は後を生ぜず。後は前を起こさず。ここに於いて滅尽するなり。Keonsyo03-06R
二者優劣相形。初二三地対治微劣唯断煩悩。四地以上対治深広二障双除。若通言之始従初地乃至仏地。当知念念二障並断。縁智漸明断煩悩障。真法漸顕滅智障。治断如是。Keonsyo03-06R
(二には優劣の相形。初二三地は対治微劣にして、唯、煩悩を断ず。四地以上は対治深広にして二障双びに除く。もし通じてこれをいわば、始め初地より乃至、仏地にいたるまで、当に知るべし、念念に二障を並び断じ、縁智漸く明らかにして煩悩障を断じ、真法漸く顕れて智障を滅す。治断かくの如し。)Keonsyo03-06R
次対障弁脱。就此門中除断煩悩二脱倶生。息除智障二脱倶顕。相状如何。前修対治断煩悩時能治之道必依真起。所依之真恒随妄転。故以妄修動発真心。令彼真中二脱徳生。真徳雖生与第七識縁智和合。為彼隠覆真徳不顕。息除彼智真徳方顕。其猶臈印印与泥合。令彼泥上文像随生。泥文雖生臈印[フク03]之不得顕現。動去臈印其文方顕。彼亦如是。二障之義難以測窮。且随大綱略樹旨況。今此論中弁二障者是第二番也。Keonsyo03-06L
(次に障に対して脱を弁ぜば、この門の中に就きて、煩悩を除断して二脱倶に生じ、智障を息除して二脱倶に顕る。相状如何ん。前に対治を修して煩悩を断ずる時、能治の道は必ず真に依りて起こる。所依の真は恒に妄に随りて転ず。故に妄を以て修して真心を動発し、彼の真の中の二脱の徳をして生ぜしむ。真徳は生ずと雖も第七識の縁智と和合す。彼が為に隠覆せられて真徳は顕れず。彼の智を息除して真徳は方に顕る。それ猶し臈印印と泥と合して、彼の泥上に文像は随いて生じ、泥文は生ずと雖も臈印の、これを[フク03]〈おお〉えば、顕現することを得ず、臈印を動去してその文は方に顕るるがごとし。彼もまたかくの如し。二障の義は以て測窮すること難し。且つ大綱に随いて略して旨況を樹つ。今この論の中に二障を弁ずるは、これ第二番なり。)Keonsyo03-06L
五住相望四住及起同為煩悩障。無明及起斉為智障。故地持無明以妄同為智障。就無明中随義更論。所起恒沙復為煩悩。無明住地独為智障。故此論中。但無明地以為智障。染心恒沙以為煩悩障也。Keonsyo03-07R
(五住相望四住及び起を同じく煩悩障と為す。無明及び起を斉しく智障と為す。故に『地持』には無明と妄とを以て同じく智障と為し、無明の中に就きて義に随いて更に論じて、所起の恒沙をまた煩悩と為す。無明住地のみ独り智障と為す。故にこの論の中に、但、無明地を以て智障と為し、染心恒沙を以て煩悩障と為すなり。)Keonsyo03-07R
問曰。於彼事識之中取性無明是何地收。妄識之中所有愛見是何地收。断言。不定。略有二義。一隠顕互論。彼事識中取性無明。以本従末摂為四住。彼妄識中所有愛見。以末従本收為無明。二随義通論。妄識之中所有見皆四住收。事識中所有無明亦無明摂。Keonsyo03-07R
(問いて曰く。彼の事識の中に於いて取性無明これ何れの地にか收むる。妄識の中の所有の愛見はこれ何の地の收ぞ。断じて言く。定まらず。略して二義あり。一には隠顕互いに論ず。彼の事識の中の取性無明は本を以て末に従いて摂して四住と為す。彼の妄識の中の所有の愛見は末を以て本に従いて收めて無明と為す。二には義に随いて通じて論ずるに、妄識の中の所有の見は皆、四住に收む。事識の中の所有の無明はまた無明の摂なり。)Keonsyo03-07R
【※編者註 この起信論の文は再掲です。】
【論】又染心義者。名為煩悩礙。能障真如根本智故。無明義者。名為智礙。能障世間自然業智故。
【論】 (また染心の義とは、名づけて煩悩礙となす。能く真如根本智を障うるが故に。無明の義とは、名づけて智礙となす。能く世間の自然業智を障うるが故に。)
次随文釈。此中有二。一者別障。二者此義云何以下釈其義相。Keonsyo03-07R
(次に文に随いて釈す。この中に二あり。一には別障。二には「此義云何」より以下はその義相を釈す。)Keonsyo03-07R
言染心義者。業識以下乃至読識以為染心。能障真如根本智者。是恒沙惑乱労義強。能障真如寂滅智也。無明義者是根本無明地也。障世間自然業智者。無明是其迷闇義。故障仏種智真明解也。自然業者。是不思議作業也。所障法者。謂証教二道。法報両果也。Keonsyo03-07L
(「染心義」というは、業識より以下、乃至、読識を以て染心と為す。「能障真如根本智〈能く真如根本智を障う〉とは、これ恒沙の惑乱労の義強くして、能く真如寂滅の智を障うるなり。「無明義〈無明の義〉」とはこれ根本無明地なり。「障世間自然業智〈世間自然業智を障う〉」とは、無明はこれその迷闇の義なるが故に仏の種智真明解を障うるなり。「自然業」とは、これ不思議の作業なり。所障の法は、謂く証教の二道、法報の両果なり。)Keonsyo03-07L
【論】此義云何。以依染心能見能現。妄取境界。違平等性故。以一切法常静無有起相。無明不覚妄与法違故。不能得随順世間一切境界。種種知故。
【論】「この義、云何。染心に依りて能見能現あり、妄に境界を取りて、平等性に違するを以ての故に。一切の法は常に静にして起相あることなく、無明の不覚は妄に法と違するを以ての故に、世間一切の境界に随順することを得て種種に知ること能わざるが故に。)
自下第二釈其相。釈二障故即分為二。初為煩悩。後為智障。Keonsyo03-07L
(自下は第二にその相を釈す。二障を釈するが故に即ち分かちて二と為す。初には煩悩を為し、後には智障を為す。)Keonsyo03-07L
此義云何者。設問発起。以依染心者。是業識也。末中第一故名之為依。言能見能現妄取境界者。転現智識。略無続識。亦可。此是六識体故。所以不論。違平等性者。以染心者。是分別心。真心寂静故正相返。所以違者。下顕違由。Keonsyo03-07L
(「此義云何」とは、問を設け発起す。「以依染心」とは、これ業識なり。末の中の第一なるが故に、これを名づけて依と為す。「能見能現妄取境界〈能見能現あり、妄に境界を取り〉」というは、転・現・智識、略して続識なし。また可〈いいつ〉べし。これはこれ六識の体なるが故に、所以に論ぜず。「違平等性〈平等性に違す〉」とは、染心はこれ分別心なるを以て、真心は寂静なるが故に正しく相返す。違う所以は、下に違の由を顕す。)Keonsyo03-07L
以一切法常静無起相。此挙理略無惑相。然此自解。無明不覚妄者。是釈者障。法違故者。無明闇惑。種智真明。故相返也。下釈其由。不能得知一切世間種種境界故者。是挙所障。諸界根原故。故説二障也。Keonsyo03-08R
(一切の法は常に静にして起相なきを以てなり。これは理を挙げて略して惑相なし。然るにこれ自ら解すべし。「無明不覚妄〈無明の不覚は妄に〉」とは、是釈者障、法と違するが故〈「無明不覚妄者法違故〈無明の不覚は妄に法と違するを以ての故に〉」〉とは、無明は闇惑、種智は真明なるが故に相返するなり。下はその由を釈す。「不能得知一切世間種種境界故〈世間一切の境界に随順することを得て種種に知ること能わざるが故に〉」とは、これは所障を挙ぐ。諸界の根原なるが故に、故に二障を説くなり。)Keonsyo03-08R
【論】復次分別生滅相者。有二種。云何為二。一者麁与心相応故。二者細与心不相応故。
【論】 (また次に生滅の相を分別するに、二種あり。云何が二となすや。一には麁と心と相応するが故に。二には細と心と相応せざるが故に。)
自下第五明捨滅義。此中有二。一者直明捨滅。二者問以下難解重顕。就初中有三。一者挙惑体。二者又麁中之麁以下拠人以弁。三者此二種以下明捨滅之相。Keonsyo03-08R
(自下は第五に捨滅の義を明かす。この中に二あり。一には直ちに捨滅を明かす。二には「問」より以下は難解重顕。初の中に就きて三あり。一には惑体を挙ぐ。二には「又麁中之麁」より以下は人に拠りて以て弁ず。三には「此二種」より以下は捨滅の相を明かす。)Keonsyo03-08R
復次生滅相有二種者。総標其数。与心相応者。末後二識及与六識也。与心不相応者。根本四住也。Keonsyo03-08R
(「復次生滅相有二種〈また次に生滅の相を分別するに二種あり〉」とは、総じてその数を標す。「与心相応〈心と相応す〉」とは、末後の二識及び六識となり。「与心不相応〈心と相応せざる〉」とは、根本四住なり。)Keonsyo03-08R
【論】又麁中之麁。凡夫境界。麁中之細。及細中之麁。菩薩境界。細中之細。是仏境界。
【論】(また麁の中の麁は凡夫の境界なり。麁の中の細と、及び細の中の麁とは、菩薩の境界なり。細の中の細は、これ仏の境界なり。)
自下就人以弁。麁中之麁凡夫境者。是六識也。麁中細者。智続両識也。細中麁者。是染心也。恒沙末故名之為麁。菩薩境界者。種性以上乃至金剛心也。細中之細仏境界者。是根本無明識。Keonsyo03-08L
(自下は人に就きて以て弁ず。「麁中之麁凡夫境〈麁の中の麁は凡夫の境界なり〉」とは、これ六識なり。「麁中細」とは、智・続、両識なり。「細中麁」とは、これ染心なり。恒沙は末なる故に、これを名づけて麁と為す。「菩薩境界」とは、種性より以上、乃至、金剛心なり。「細中之細仏境界〈細の中の細は、これ仏の境界なり〉」とは、これ根本無明識なり。)Keonsyo03-08L
【論】此二種生滅。依於無明熏習而有。所謂依因依縁。依因者不覚義故。依縁者妄作境界義故。若因滅則縁滅。因滅故。不相応心滅。縁滅故。相応心滅。
【論】 (この二種の生滅は無明熏習に依りて有り。所謂、因に依り、縁に依る。因に依るとは不覚の義の故に。縁に依るとは妄に境界を作す義の故に。もし因滅すれば則ち縁滅す。因滅するが故に不相応の心滅す。縁滅するが故に相応の心滅す。)
自下第三明捨滅相。此中有二。一者明起由。二者若因滅以下明滅由也。Keonsyo03-08L
(自下は第三に捨滅の相を明かす。この中に二あり。一には起の由を明かす。二には「若因滅」より以下は滅の由を明かすなり。)Keonsyo03-08L
此二種生滅依無明熏習而有者。以衆惑本故以末論本也。依因者不覚義者即是無明也。縁者六塵境界也。具此因縁得立生滅。Keonsyo03-08L
(「此二種生滅依無明熏習而有〈この二種の生滅は無明熏習に依りてあり〉」とは、衆惑の本なるを以ての故に、末を以て本を論ずるなり。「依因者不覚義〈因に依るとは不覚の義〉」とは、即ちこれ無明なり。「縁」とは六塵境界なり。この因縁を具して生滅を立つることを得。)Keonsyo03-08L
次弁滅相。若因滅則縁滅者。境界無自由心而成。故上中言三界虚偽但一心作。能成心滅所成亦滅也。因滅故不相応心滅者。明亡本故末竭。是業転現識也。縁滅故相応心滅者。境界亡故随境心亡。此之明其不相応心妄故境界亦妄。境界妄故相応心亦妄也。Keonsyo03-08L
(次に滅相を弁ず。「若因滅則縁滅〈もし因滅すれば則ち縁滅す〉」とは、境界は自らすることなく、心に由りて成ず。故に上の中に「三界虚偽但一心作〈三界は虚偽、唯心の所作〉」という。能成の心滅すれば所成もまた滅するなり。「因滅故不相応心滅〈因滅するが故に不相応の心滅す〉」とは、本亡ずる故に末竭〈つ〉くることを明かす。これ業・転・現識なり。「縁滅故相応心滅〈縁滅するが故に相応の心滅す〉」とは、境界亡ずるが故に随境の心亡ず。これはこれその不相応心妄なるが故に境界もまた妄にして、境界妄なるが故に相応心もまた妄なることを明かすなり。)Keonsyo03-08L
【論】問曰。若心滅者。云何相続。若相続者。云何説究竟滅。
【論】 (問いて曰く。もし心滅せば、云何ぞ相続せん。もし相続せば、云何ぞ究竟滅と説かん。)
次弁重顕。此中初問後答。問意者。若心滅者云何相続者。相応不相応皆是滅者衆生則無心。云何続有。若相続者云何説滅者。妄心恒続者云何衆生滅妄成真乎。就妄心進退徴難。Keonsyo03-09R
(次に重顕を弁ず。この中に初は問、後は答。問の意は、「若心滅者云何相続〈もし心滅せば、云何が相続せん〉」とは、相応・不相応、皆これ滅せば衆生則ち心なし。云何が続あらん。「若相続者云何説滅〈もし相続せば、云何ぞ究竟滅と説かん〉」とは、妄心恒に続かば、云何ぞ衆生は妄を滅して真を成ぜんや。妄心の進退に就きて徴難す。)Keonsyo03-09R
【論】答曰。所言滅者。唯心相滅。非心体滅。
【論】 (答えて曰く。言の所の滅とは、ただ心相の滅なり。心体の滅にあらず。)
答中有三。初明法説。中明開喩。後弁合喩。Keonsyo03-09R
(答の中に三あり。初に法説を明かし、中に開喩を明かし、後に合喩を弁ず。)Keonsyo03-09R
言滅者唯心相滅者。是妄識也。非心体滅者是真識也。妄識全亡不妨真有。真識常有故衆生非断。妄識終滅故衆生成真。Keonsyo03-09R
(「言滅者唯心相滅〈言うの所の滅とは、ただ心相の滅なり〉」とは、これ妄識なり。「非心体滅〈心体の滅にあらず〉」とは、これ真識なり。妄識全く亡じて真の有を妨げず。真識は常に有なるが故に衆生は断ずるに非ず。妄識は終に滅するが故に衆生は真を成ず。)Keonsyo03-09R
【論】如風依水而有動相。若水滅者則風相断絶。無所依止。以水不滅風相相続。唯風滅故動相随滅。非是水滅。
【論】 (風の水に依りて動相あるが如し。もし水滅せば、則ち風相断絶して、依止する所なからん。水滅せざるを以て風相相続す。ただ風滅するが故に動相随いて滅す。これ水滅するにあらず。)
言風者喩無明也。水喩真識也。動喩妄識也。若水滅者則風断絶無依止者。是作設喩。非無水也。而顕依義故為此説。何以得知。設喩非正。下則解釈以水不滅風相相続。唯風滅故動相随滅。非是水滅。是故明知。是設喩也。Keonsyo03-09R
(「風」というは無明に喩うなり。「水」は真識に喩うなり。「動」は妄識に喩うなり。「若水滅者則風断絶無依止〈もし水滅せば、則ち風相断絶して、依止する所なからん〉とは、これ設喩を作す。水なきに非ざるなり。而も義に依るが故にこれが為に説くことを顕す。何を以てか知ることを得るとならば、設喩は正に非ず。下に則ち解釈す。「以水不滅風相相続。唯風滅故動相随滅。非是水滅〈水滅せざるを以て風相相続す。ただ風滅するが故に動相随いて滅す。これ水滅するにあらず〉」と。この故に明らかに知りぬ。これ設喩なることを。)Keonsyo03-09R
【論】無明亦爾。依心体而動。若心体滅者。則衆生断絶無所依止。以体不滅心得相続。唯痴滅故。心相随滅。非心智滅。
【論】 (無明また爾り。心体に依りて動ず。もし心体滅せば、則ち衆生断絶して依止する所なし。体は滅せざるを以て心は相続することを得。ただ痴滅するが故に、心相随いて滅す。心智の滅するにあらず。)
無明亦爾以下合喩。無明合上如風。依心体者。合上依水。言而動者。合上有動相也。若心体滅者。合上仮設喩也。以体不滅心得相続去合上水不滅故風相相続也。唯痴滅故心相随滅者。合上唯風滅故動風随滅也。非心智滅者。合上非是水滅也。Keonsyo03-09L
(「無明亦爾)より以下は合喩なり。無明は上の如風に合す。「依心体〈心体に依り〉」とは上の依水に合す。「而動」というは上の有動相に合するなり。「若心体滅〈もし心体滅せば〉」とは、上の仮設喩に合するなり。「以体不滅心得相続〈体は滅せざるを以て心は相続することを得〉」去〈者か?〉とは、上の「水不滅故風相相続〈水滅せざるを以て風相相続す〉」に合するなり。「唯痴滅故心相随滅〈ただ痴滅するが故に、心相随いて滅す〉」とは、上の「唯風滅故動風随滅〈ただ風滅するが故に動相随いて滅す〉」に合するなり。「非心智滅〈心智の滅するにあらず〉」とは、上の「非是水滅〈これ水滅するにあらず〉」に合するなり。)Keonsyo03-09L
【論】復次有四種法熏習義故。染法浄法起不断絶。云何為四。一者浄法名為真如。二者一切染因名為無明。三者妄心名為業識。四者妄境界所謂六塵。
【論】 (また次に四種の法熏習の義あるが故に、染法・浄法起こりて断絶せず。云何が四となす。一には浄法を名づけて真如となす。二には一切の染因を名づけて無明となす。三には妄心を名づけて業識となす。四には妄境界、所謂六塵なり。)
自下第三明其真妄熏習之義。此中有三。一者標熏法体。二者熏習義者以下略釈熏義。三者云何熏習起染以下広顕熏相。Keonsyo03-09L
(自下は第三にその真妄熏習の義を明かす。この中に三あり。一には熏法体を標す。二には「熏習義者」より以下は略して熏の義を釈す。三には「云何熏習起染」より以下は広く熏の相を顕す。)Keonsyo03-09L
復次有四種熏者是総表数也。染浄法起不断絶者熏習功能。言浄法者即第八識也。言染因者即無明識也。言妄心者第七識中。始従業識乃至相続通名業識。言妄境者謂妄想心所起一切虚偽境界。此四種者熏法体也。Keonsyo03-10R
(「復次有四種熏」とは、これ総じて数を表すなり。「染浄法起不断絶〈染法・浄法起こりて断絶せず〉」とは熏習の功能なり。「浄法」というは即ち第八識なり。「染因」というは即ち無明識なり。「妄心」というは第七識の中に始め業識より乃至、相続を通じて業識と名づく。「妄境」というは、謂く、妄想心所起の一切虚偽の境界なり。この四種は熏法の体なり。)Keonsyo03-10R
此四猶是地持論中如是。如実凡愚不知起八妄而生三事。真如熏習猶彼如是如実。無明熏習者猶彼凡愚不知也。妄心熏習者猶彼八妄想也。妄境熏者猶是彼処生三事中初虚偽事。Keonsyo03-10R
(この四は猶しこれ『地持論』の中に「かくの如く、実の如く、凡愚は知らず。八妄を起こして三事を生ずることを」。真如熏習は猶し彼の「如是如実」のごとし。無明熏習は猶し彼の「凡愚不知」のごときなり。妄心熏習は猶し彼の八妄想のごときなり。妄境熏は猶しこれ彼の処の生ずる三事の中の初の虚偽事のごとし。)Keonsyo03-10R
問曰。何故事識及事根塵不説熏習。答。此条中未明熏習所起末故。故不論也。Keonsyo03-10R
(問いて曰く。何が故ぞ事識及び事根塵には熏習を説かざるや。答う。この条の中に未だ熏習所起の末を明かさざるが故に、故に論ぜざるなり。)Keonsyo03-10R
【論】熏習義者。如世間衣服実無於香。若人以香而熏習故。則有香気。此亦如是真如浄法。実無於染。但以無明而熏習故。則有染相。無明染法実無浄業。但以真如而熏習故。則有浄用。
【論】 (熏習の義とは、世間の衣服は実に香なし。もし人、香を以て熏習するが故に、則ち香気あるが如し。これまたかくの如く真如の浄法は実に染なし。ただ無明を以て熏習するが故に、則ち染相あり。無明染法は実に浄業なし。ただ真如を以て熏習するが故に則ち浄用あり。)
自下第二略釈熏義。此中有三。一者題名。二者開喩。三者此亦如是以下合喩也。Keonsyo03-10L
(自下は第二に略して熏の義を釈す。この中に三あり。一には名を題す。二には開喩。三には「此亦如是」より以下は合喩なり。)Keonsyo03-10L
熏習義者是顕名也。言世間衣服者喩染浄法体也。実無香者喩行用也。若人以香熏故則有香気者。喩行者随縁熏習故染浄之用。次下合喩。此亦如此。真中無染。妄熏令有。妄中無浄。真熏使有。故彼妄中得有方便対治行起。釈意如此。Keonsyo03-10L
(「熏習義」とは、これ名を顕すなり。「世間衣服」とは、染浄の法体に喩うなり。「実無香〈実に香なし〉」とは行用に喩うるなり。「若人以香熏故則有香気〈もし人、香を以て熏習するが故に、則ち香気ある〉」とは、行者は随縁熏習の故に染浄の用あるに喩う。次下は合喩。これまたかくの如し。真の中には染なし。妄熏じて有らしむ。妄の中に浄なし。真熏じて有らしむ。故に彼の妄の中に方便対治行起あることを得。釈意かくの如し。)Keonsyo03-10L
【論】云何熏習起染法不断。所謂以依真如法故。有於無明。以有無明染法因故。即熏習真如。以熏習故則有妄心。以有妄心即熏習無明。不了真如法故。不覚念起現妄境界。以有妄境界染法縁故。即熏習妄心。令其念著造種種業。受於一切身心等苦。
【論】 (云何が熏習して染法を起こして断えざる。所謂、真如の法に依るを以ての故に無明あり。無明染法の因あるを以ての故に即ち真如に熏習す。熏習を以ての故に則ち妄心あり。妄心あるを以て即ち無明に熏習す。真如の法を了せざるが故に、不覚の念起こりて妄境界を現ず。妄境界染法の縁あるを以ての故に、即ち妄心に熏習して、それをして念著し種種の業を造りて、一切の身心等の苦を受けしむ。)
自下第三云何熏習起以下広弁熏相。此中有二。一者弁熏習起染。二者云何熏習起浄法以下明其熏習起浄。就初中有二。一者就前四明其熏習相生次第。二者此妄境熏習以下別明熏習所起不同。Keonsyo03-10L
(自下は第三に「云何熏習起」より以下は広く熏相を弁ず。この中に二あり。一には熏習起染を弁じ、二には「云何熏習起浄法」より以下はその熏習起浄を明かす。初の中に就きて二あり。一には前の四に就きてその熏習相生の次第を明かす。二には「此妄境熏習」より以下は別して熏習所起の不同を明かす)。Keonsyo03-10L
云何起染法不断者是題名也。以依第一真如法故使有第二無明染因。以有無明故即有第三妄心。以有妄心故則有第四妄境界也。以有境界縁故即熏習妄心。令其染着造業受苦也。念者愛也。著者見也。Keonsyo03-11R
(「云何起染法不断〈云何が熏習して染法を起こして断えざる〉」とは、これ名を題すなり。「以依第一真如法故〈真如の法に依るを以ての故に〉」第二の無明染因をあらしむ。「以有無明故〈無明染法の因あるを以ての故に〉」即ち第三の妄心あり。「以有妄心〈妄心あるを以て〉」の故に則ち第四妄境界あるなり。「以有境界縁故〈妄境界染法の縁あるを以ての故に〉即ち妄心を熏習して、それをして染着し業を造り苦を受けしむるなり。念は愛なり。著は見なり。)Keonsyo03-11R
【論】此妄境界熏習義。則有二種。云何為二。一者増長念熏習。二者増長取熏習。
【論】 (この妄境界熏習の義に則ち二種あり。云何が二となす。一には増長念熏習。二には増長取熏習なり。)
次第二従此妄境界以下明其熏習所起不同。従末尋本次第弁之。能熏法体四故所熏応四。而文滅無真如熏習所起之義。此妄境熏習有二種者是題名也。此境熏習起事識也。念者愛也。取者見也。即是十使也。Keonsyo03-11R
(次に第二に「此妄境界」より以下はその熏習所起の不同を明かす。末より本を尋ねて次第にこれを弁ず。能熏の法体は四なるが故に所熏も応に四なるべし。而るに文に滅じて真如熏習所起の義なし。「此妄境熏習有二種〈この妄境界熏習の義に則ち二種あり〉」とは、これ名を題すなり。これ境熏習して起こる事識なり。「念」は愛なり。「取」は見なり。即ちこれ十使なり。)Keonsyo03-11R
【論】妄心熏習義有二種。云何為二。一者業識根本熏習。能受阿羅漢辟支仏一切菩薩生滅苦故。二者増長分別事識熏習。能受凡夫業繋苦故。
【論】 (妄心熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には業識根本熏習。能く阿羅漢・辟支仏・一切の菩薩をして生滅の苦を受けしむるが故に。二には増長分別事識熏習。能く凡夫に業繋の苦を受けしむるが故に。)
言妄心熏習者是第二也。言業識者第七識也。熏習起妄識果。謂受二乗菩薩変易細苦。即正果也。言増長分別事識者。是六識縁由果。凡夫業繋苦者分段麁苦也。Keonsyo03-11R
(「妄心熏習」というは、これ第二なり。「業識」というは第七識なり。熏習して妄識の果を起こす。謂く二乗菩薩は変易の細苦を受く。即ち正果なり。「増長分別事識」というは、これ六識縁由果。「凡夫業繋苦」とは分段の麁苦なり。)Keonsyo03-11R
【論】無明熏習義有二種。云何為二。一者根本熏習。以能成就業識義故。二者所起見愛熏習。以能成就分別事識義故。
【論】 (無明熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には根本熏習。能く業識を成就する義を以ての故に。二には所起見愛熏習。能く分別事識を成就する義を以ての故に。)
無明熏中起妄識者其近果。起事識者是其遠果。真如熏習亦有二種。一者起無明。二者起妄心。以彼真如無分別故能起無明。覚知性故能起妄心。此後一門釈中無也。推章門中具有此義。Keonsyo03-11L
(無明熏の中に妄識を起こすとは、それ近果なり。事識を起こすとは、これその遠果なり。真如熏習にまた二種あり。一には無明を起こす。二には妄心を起こす。彼の真如は分別なきを以ての故に、能く無明を起こし、覚知の性あるが故に、能く妄心を起こす。この後一門は釈中になきなり。章門の中を推するに具さにこの義あり。)Keonsyo03-11L
【論】云何熏習起浄法不断。所謂以有真如法。故能熏習無明。以熏習因縁力故。則令妄心厭生死苦。楽求涅槃。以此妄心有厭求因縁故。即熏習真如。自信己性。知心妄動無前境界。修遠離法。以如実知無前境界故。種種方便起随順行。不取不念。乃至久遠熏習力故。無明則滅。以無明滅故。心無有起。以無起故。境界随滅。以因縁倶滅故。心相皆尽。名得涅槃成自然業。
【論】 (云何が熏習は浄法を起こして断ぜざる。所謂、真如の法あるを以ての故に、能く無明に熏習す。熏習の因縁力を以ての故に、則ち妄心をして生死の苦を厭い、涅槃を楽求せしむ。この妄心に厭求の因縁あるを以ての故に、即ち真如に熏習す。自ら己性を信じ、心は妄に動じて前の境界なしと知りて、遠離の法を修す。実の如く前の境界なしと知るを以ての故に、種種の方便、随順の行を起こして、取らず、念ぜず、乃至、久遠熏習力の故に、無明則ち滅す。無明滅するを以ての故に、心起こることあることなし。起こることなきを以ての故に、境界随いて滅す。因縁倶に滅するを以ての故に、心相皆尽くるを、涅槃を得て自然の業を成ずと名づく。)
自下第二明熏起浄。此中有二。一者明其真妄相熏起浄。二者真如熏習義以下明其唯真熏習起浄。就初中有二。一者真妄総明。二者妄心熏習以下別明妄熏起浄。Keonsyo03-11L
(自下は第二に熏起浄を明かす。この中に二あり。一にはその真妄相熏起浄を明かす。二には「真如熏習義」より以下はそれ唯真熏習起浄を明かす。初の中に就いて二あり。一には真妄総明。二には「妄心熏習」より以下は別して妄熏起浄を明かす。)Keonsyo03-11L
又遠法師解。云何起浄法不断者此文早著。以有真如法故以下。楽求涅槃以還。摂上真如熏習也。然後応著云何起浄法。以此妄心以下第二起浄文也。此中有二。一者明妄熏真。二者明真熏妄。就初中有二。一者能熏。二者妄心熏以下明其所熏。此二種釈文随念無傷。Keonsyo03-11L
(また遠法師解すらく。「云何起浄法不断〈云何が熏習は浄法を起こして断ぜざる〉」とは、この文は早く著〈お〉けり。「以有真如法故」より以下、「楽求涅槃」より以還は、上の真如熏習を摂するなり。然る後に応に「云何起浄法〈云何が浄法を起こす〉」ということを著〈お〉くべし。「以此妄心」より以下は第二に起浄の文なり。この中に二あり。一には妄は真を熏ずることをを明かす。二には真は妄を熏ずることを明かす。初の中に就きて二あり。一には能熏。二には「妄心熏」より以下はその所熏を明かす。この二種は文の随念無傷を釈す。)Keonsyo03-11L
云何熏習起浄者是題名也。所謂以下正弁。以有真如故無明令熏起。厭生死楽涅槃也。此之真熏妄也。Keonsyo03-12R
(「云何熏習起浄〈云何が熏習は浄法を起こし〉」とは、これ名を題するなり。「所謂」より以下は正しく弁ず。真如あるを以ての故に無明をして熏を起こしめて、生死を厭い、涅槃を楽わしむるなり。これはこれ真は妄を熏ずるなり。)Keonsyo03-12R
次弁妄熏真也。以有妄心厭離生死求涅槃。故熏習真心。自信己性。唯是真如智外無法。但妄心顛倒所見以知外境無所有。故種種方便修習離念起真之行。雖有所修不取不念。久修力故無明則滅。無明滅故妄心不生。妄心不生故妄境随□。境界妄故心相倶尽。名得涅槃。得涅槃故自然成就不思議業用[エン21]法界也。因縁倶滅者因是心也。縁是境也。言涅槃者性浄法仏也。不思議業者是方便報仏也。釈意如此。Keonsyo03-12R
(次に妄は真を熏ずることを弁ずるなり。妄心あるを以て生死を厭離し涅槃を求むるが故に、真心に熏習して、自ら己性を信ず。唯これ真如智の外に法なく、但、妄心の顛倒の所見、外境に所有なしと知るを以ての故に、種種に方便し、離念起真の行を修習す。所修ありと雖も、取らず念ぜず、久しく修する力の故に、無明則ち滅す。無明滅するが故に妄心は生ぜず。妄心生ぜざるが故に妄境は随いて□〈滅か?〉す。境界は妄なるが故に心相も倶に尽くるを、涅槃を得と名づく。涅槃を得るが故に、自然に不思議業用を成就して、法界に[エン21]〈み〉つるなり。「因縁倶滅〈因縁倶に滅す〉」とは因はこれ心なり。縁はこれ境なり。涅槃というは、性浄法仏なり。不思議業とは、これ方便報仏なり。釈意かくの如し。)Keonsyo03-12R
【論】妄心熏習義有二種。云何為二。一者分別事識熏習。依諸凡夫二乗人等。厭生死苦。随力所能。以漸趣向無上道故。二者意熏習。謂諸菩薩発心勇猛。速趣涅槃故。
【論】 (妄心熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には分別事識熏習。諸の凡夫二乗の人等に依りて、生死の苦を厭い、力の所能に随いて、漸く無上道に趣向するを以ての故に。二には意熏習。謂く、諸の菩薩は発心勇猛にして速やかに涅槃に趣くが故に。)
自下明其別妄熏起浄。妄心熏者六七識也。言分別事識者。謂凡夫二乗厭生死苦取向涅槃。此六識中方便修行熏発真也。言意熏習者。謂諸菩薩見虚妄法。無所貪取。知真如法寂静安隠。発心勇猛趣大涅槃。此七識中方便修行熏発真也。彼説七識以之為意。非六識中意識也。Keonsyo03-12L
(自下はそれ別して妄熏じて浄を起こすことを明かす。「妄心熏」とは六七識なり。「分別事識」というは、謂く、凡夫二乗は生死の苦を厭い涅槃に取向す。これ六識の中の方便修行熏じて真を発すなり。「意熏習」というは、謂く、諸の菩薩は虚妄の法を見て、貪取する所なく、真如の法は寂静安隠なりと知りて、発心勇猛にして大涅槃に趣く。これ七識の中の方便修行熏じて真を発すなり。彼は七識を説きてこれを以て意と為す。六識の中の意識に非ざるなり。)Keonsyo03-12L
【論】真如熏習義有二種。云何為二。一者自体相熏習。二者用熏習。自体相熏習者。従無始世来具無漏法。備有不思議業。作境界之性。依此二義。恒常熏習。以有熏習力故。能令衆生厭生死苦。楽求涅槃。自信己身有真如法。発心修行。
【論】 (真如熏習の義に二種あり。云何が二となす。一には自体相熏習、二には用熏習なり。自体相熏習とは、無始世より来た無漏の法を具す。備に不思議の業ありて、境界の性と作る。この二義に依りて、恒常に熏習す。熏習力あるを以ての故に、能く衆生をして生死の苦を厭い、涅槃を楽求し、自ら己身に真如の法ありと信じて、発心修行せしむ。)
自下第二明唯真熏妄。此中有二。一者明其所顕所熏妄義。二者復次真如自体相者以下明其所表理体平等。Keonsyo03-12L
(自下は第二に唯、真は妄に熏ずることを明かす。この中に二あり。一にはその所顕所熏の妄の義を明かす。二には「復次真如自体相」より以下はその所表の理体平等なることを明かす。)Keonsyo03-12L
問曰。所顕所表有何著別。答。言所顕者此真理中。随修習縁有可顕義。転理成行。以縁照解断惑。所顕故名所顕。所言表者。真如理体平等一味絶言離相。然理不自顕。寄法以表故名所表。法不自成。以理熏故真法方成。故此理中有二義。故此中弁也。Keonsyo03-13R
(問いて曰く。所顕所表に何の著別かある。答う。所顕というは、これ真理の中に修習の縁に随いて可顕の義あり。理を転じて行を成ず。縁照の解を以て惑を断じて顕する所なるが故に所顕と名づく。いう所の表とは、真如の理体は平等一味にして、言を絶し相を離る。然るに理は自ら顕われず。法に寄せて以て表するが故に所表と名づく。法は自ら成ぜず。理を以て熏ずるが故に真法は方に成ず。故にこの理の中に二義あり。故にこの中に弁ずるなり。)Keonsyo03-13R
就初中有二。一者就始中明真熏妄。二者復次染法以下就修明其真妄尽不尽義。就初中有二。一者明能熏法。二者此体用熏習以下明所熏人。就初中有三。一者総標挙類。二者列章門。三者自体熏者以下釈二章門。Keonsyo03-13R
(初の中に就きて二あり。一には始の中に就きて、真は妄に熏ずることを明かす。二には「復次染法」より以下は修に就きてその真妄の尽・不尽の義を明かす。初の中に就きて二あり。一には能熏の法を明かす。二には「此体用熏習」より以下は所熏の人を明かす。初の中に就きて三あり。一には総じて標じて類を挙ぐ。二には章門を列ぬ。三には「自体熏者」より以下は二章門を釈す。)Keonsyo03-13R
真如熏習有二種者是題名也。云何以下列章門。謂体用也。自体相熏習者以下第三列釈。此中有二。一者釈体章門。二者用熏習者以下釈用章門。就初中有二。一者正出其体。二者問答重釈。Keonsyo03-13L
(「真如熏習有二種〈真如熏習の義に二種あり〉」とは、これ名を題すなり。「云何」より以下は章門を列す。謂く体と用となり。「自体相熏習者」より以下は第三に列釈。この中に二あり。一には体章門を釈す。二には「用熏習者」より以下は用章門を釈す。初の中に就きて二あり。一には正しくその体を出だす。二には問答重釈。)Keonsyo03-13L
言無漏法者。法身本体法仏之性。言不思議作業性者。是報仏性也。有此二性熏習力。故令起妄解断惑。已後転理成行。地前名為性種習種。地上名為証教二道。仏果名為法報二仏。虚法為言。名為性浄方便涅槃。Keonsyo03-13L
(「無漏法」というは、法身の本体、法仏の性なり。「不思議作業性〈不思議の業ありて、境界の性と作る〉」というは、これ報仏の性なり。この二性熏習の力あるが故に妄解を起こして惑を断じ、已後に理を転じて行を成ぜしむ。地前には名づけて性種・習種と為し、地上には名づけて証教二道と為し、仏果には名づけて法報二仏と為す。法を虚しくして言を為すを、名づけて性浄方便涅槃と為す。)Keonsyo03-13L
【論】問曰。若如是義者。一切衆生悉有真如。等皆熏習。云何有信無信無量前後差別。皆応一時自知有真如法。勤修方便等入涅槃。
【論】 (問いて曰く。もしかくの如き義ならば、一切衆生は悉く真如ありて、等しくみな熏習せん。云何が信無信無量前後の差別ある。みな応に一時に自ら真如の法ありと知りて、勤修方便して等しく涅槃に入るべし。)
自下第二重顕。此中有二。一問。二答。Keonsyo03-13L
(自下は第二に重顕。この中に二あり。一に問。二に答。)Keonsyo03-13L
問意者。若便真能熏妄起善行者。一切衆生皆有真如。何不等熏。斉便発心起修善行能入涅槃。而諸衆生有信無信優劣。前後無量差別。Keonsyo03-13L
(問の意は、もし真能く妄に熏じて善行を起こさば、一切衆生は皆、真如ありて、何ぞ等しく熏じ、斉しく便ち発心し善行を起修して、能く涅槃に入らざらん。而るに諸の衆生は有信・無信、優劣、前後、無量の差別あり。)Keonsyo03-13L
【論】答曰。真如本一。而有無量無辺無明。従本已来自性差別厚薄不同故。過恒沙等上煩悩。依無明起差別。我見愛染煩悩。依無明起差別。如是一切煩悩。依於無明所起前後無量差別。唯如来能知故。
【論】 (答えて曰く。真如は本〈もと〉一。而して無量無辺の無明ありて、本より已来た自性差別し、厚薄同じからざるが故に。恒沙等の上に過ぐる煩悩〈過恒沙等の上の煩悩〉は、無明に依りて起こる差別あり。我見愛染の煩悩は無明に依りて起こる差別あり。かくの如き一切の煩悩は、無明に依りて起こる所の前後無量の差別あり。ただ如来のみ能く知るが故に。)
就第二答中有二。一者明真妄根原。正答上問。二者又諸仏法有因縁以下。明縁修対治。此之遠答也。就初中有三。一者明真。二者而有以下。明妄根本。三者唯如来下。結難知也。Keonsyo03-14R
(第二に答の中に就きて二あり。一には真妄の根原を明かす。正しく上の問に答う。二には「又諸仏法有因縁〈また諸仏の法は因あり縁あり〉」より以下は、縁修対治を明かす。これはこれ遠答なり。初の中に就きて三あり。一には真を明かし、二には「而有」より以下は妄の根本を明かし、三には「唯如来」の下は知り難きことを結するなり。)Keonsyo03-14R
言真如本一者。諸衆生中真如理一本来無二。故成仏時以理成故。但是一仏無有二也。何故名諸仏。此是処縁故爾。非理中諸也。此真如根原也。Keonsyo03-14R
(「真如本一」というは、諸の衆生の中に真如の理は一にして本来、二なきが故に。成仏の時は理を以て成ずるが故に。但これ一仏にして二あることなきなり。何が故に諸仏と名づくるや。これはこれ処縁の故に爾り。理の中の諸に非ざるなり。これ真如の根原なり。)Keonsyo03-14R
自下第二明妄根原。然若爾者何故衆生差別者。有無量無明本来成就。此之根本也。過恒沙等上煩悩者枝条末也。我見愛者是四住所起也。此衆惑者皆依無明。如此無明熏習真如。真如随縁差別不同。如虚空本一而随有処大小不同。若破有処即虚空無大小相。此亦如此。随染縁故利鈍差別。若離染縁則平等一味。無上下優劣。Keonsyo03-14R
(自下は第二に妄の根原を明かす。然るにもし爾らば何が故ぞ衆生差別あるとならば、無量の無明ありて本来成就す。これはこれ根本なり。「過恒沙等上煩悩〈過恒沙等の上煩悩〉」とは枝条の末なり。「我見愛」とはこれ四住所起なり。この衆惑は皆、無明に依る。かくの如く無明は真如に熏習し、真如は縁に随い差別不同なり。虚空は本一にして有処に随いて大小不同なるが如し。もし有処を破すれば即ち虚空に大小の相なし。これまたかくの如し。染縁に随うが故に利鈍の差別あり。もし染縁を離るれば則ち平等一味にして上下優劣なし。)Keonsyo03-14R
問曰。若初真一何故起染原薄不同。答。無始無明等同品無有麁細。智識以後染著不同。心慮異故。続識以後起成深浅。故果報優劣上下不等利鈍差別。然此義者非凡所能知。Keonsyo03-14L
(問いて曰く。もし初真一ならば、何が故ぞ起染に原薄の不同あるや。答う。無始無明等に同品にして、麁細あることなし。智識より以後は染著同じからず。心慮異なるが故に。続識より以後は起こるに深浅を成ず。故に果報の優劣・上下等しからず、利鈍の差別あり。然るにこの義は凡の能く知る所に非ず。)Keonsyo03-14L
自下第三結難知。唯如来能知故也。故大経言。十住菩薩見終不見始。仏乃窮了見始見終。Keonsyo03-14L
(自下は第三に難知を結す。唯如来のみ能く知る故なり。故に『大経〈大般涅槃経〉』に言く「十住の菩薩は終を見るも始を見ず。仏は乃ち窮了して始を見、終を見る」と。)Keonsyo03-14L
【論】又諸仏法有因有縁。因縁具足乃得成弁。
【論】 (また諸仏の法は因あり縁あり。因縁具足して乃ち成弁することを得。)
自下第二随対治。此中有三。一者法説。二者如木中下開譬。三者衆生亦爾下合喩。言有因有縁者。因者内心。縁謂外縁。Keonsyo03-14L
(自下は第二に随対治。この中に三あり。一には法説。二には「如木中」の下は開譬。三には「衆生亦爾」の下は合喩。「有因有縁〈因あり縁あり〉」というは、因は内心、縁は謂く外縁なり。)Keonsyo03-14L
【論】如木中火性是火正因。若無人知不仮方便。能自焼木無有是処。
【論】 (木中の火性はこれ火の正因。もし人の知ることなく、方便を仮らずして、能く自ら木を焼くこと、この処あることなきが如し。)
【論】衆生亦爾。雖有正因熏習之力。若不遇諸仏菩薩善知識等以之為縁。能自断煩悩入涅槃者。則無是処。若雖有外縁之力。而内浄法未有熏習力者。亦不能究竟厭生死苦楽求涅槃。
【論】 (衆生もまた爾り。正因熏習の力ありといえども、もし諸仏菩薩善知識等に遇いて、これを以て縁となさざれば、能く自ら煩悩を断じて涅槃に入ることは、則ちこの処なし。もし外縁の力ありといえども、内の浄法未だ熏習の力あらざる者は、また究竟して生死の苦を厭い、涅槃を楽求すること能わず。)
【論】若因縁具足者。所謂自有熏習之力。又為諸仏菩薩等慈悲願護故。能起厭苦之心。信有涅槃。修習善根。以修善根成熟故。則値諸仏菩薩。示教利喜。乃能進趣。向涅槃道。
【論】 (もし因縁具足するは、所謂、自ら熏習の力あり、また諸仏菩薩等のために慈悲願護せらるるが故に。能く厭苦の心を起こし、涅槃あることを信じ、善根を修習す。善根を修すること成熟するを以ての故に、則ち諸仏菩薩に値い、示教利喜して、乃ち能く進趣して、涅槃の道に向かう。)
譬意者木雖有火不能自焼。衆生雖有真如之性不能独熏自成涅槃。合中可解。言示教利喜者。四諦三転法輪也。示猶示転。教猶勧転。利喜是其猶証転也。示転者示苦示集。示滅示道。名示転也。言勧転者。苦応知。集応断。道応修。滅応証。言証転者苦我已知。集我已断。道我已修。滅我已証也。示可当相示苦令知。教集応断。道利応修。滅喜応証也。以此四諦入道之詮故。以四諦向涅槃道也。Keonsyo03-15R
(譬の意は、木に火ありと雖も自ら焼くこと能わず。衆生に真如の性ありと雖も、独熏の自ら涅槃を成ずること能わず。合の中、解すべし。「示教利喜」というは四諦三転法輪なり。「示」は示転の猶し、「教」は勧転の猶し、「利喜」はこれその証転の猶きなり。示転とは苦を示し、集を示し、滅を示し、道を示すを示転と名づくるなり。勧転というは、苦は応に知るべし、集は応に断ずべし、道は応に修すべし、滅は応に証すべし。証転というは苦は我已に知り、集は我已に断ち、道は我已に修し、滅は我已に証するなり。示は当相に苦を示して知らしめ、集は応に断つべしと教え、道は応に修すべしと利し、滅は喜びて応に証すべしと可〈いいつ〉べきなり。この四諦は入道の詮なるを以ての故に、四諦を以て涅槃の道に向かうなり。)Keonsyo03-15R
【論】用熏習者。即是衆生外縁之力。如是外縁有無量義。略説二種。云何為二。一者差別縁。二者平等縁。
【論】 (用熏習とは、即ちこれ衆生外縁の力。かくの如きの外縁に無量の義あり。略して説くに二種あり。云何が二となす。一には差別縁、二には平等縁なり。)
自下第二釈用章門。此中有三。一者総表挙数。二者云何以下。列二章門。三者釈二章門。Keonsyo03-15R
(自下は第二に用章門を釈す。この中に三あり。一には総表して数を挙ぐ。二には「云何」より以下は二章門を列す。三には二章門を釈す。)Keonsyo03-15R
用熏習者是顕名也。即衆生外縁之力者。謂仏菩薩証如起用。摂化衆生令修善法。自下列章門。差別縁者此応身化也。平等縁者真身摂也。Keonsyo03-15L
(「用熏習」とは、これ名を顕すなり。「即衆生外縁之力〈即ちこれ衆生外縁の力〉」とは、謂く仏菩薩は如を証して用を起こし、衆生を摂化して善法を修せしむ。自下は列章門。「差別縁」とはこれ応身の化なり。「平等縁」とは真身の摂なり。)Keonsyo03-15L
【論】差別縁者。此人依於諸仏菩薩等。従初発意始求道時。乃至得仏。於中若見若念。或為眷属父母諸親。或為給使。或為知友。或為冤家。或起四摂。乃至一切所作。無量行縁。以起大悲熏習之力。能令衆生増長善根。若見若聞得利益故。
【論】 (差別縁とは、この人は諸仏菩薩等に依りて、初発意に始めて道を求むる時より、乃至、仏を得るまで、中に於いて、もしは見、もしは念ず。或いは眷属父母諸親となり、或いは給使となり、或いは知友となり、或いは冤家となり、或いは四摂を起こす。乃至、一切の所作、無量の行縁、大悲を起こす熏習の力を以て、能く衆生をして善根を増長し、もしは見、もしは聞き、利益を得しむるが故に。)
【論】此縁有二種。云何為二。一者近縁。速得度故。二者遠縁。久遠得度故。是近遠二縁分別。復有二種。云何為二。一者増長行縁。二者受道縁。
【論】 (この縁に二種あり。云何が二となす。一には近縁。速かに度することを得るが故に。二には遠縁。久遠に度することを得るが故に。この近遠の二縁を分別するに、また二種あり。云何が二となす。一には増長行縁、二には受道縁なり。)
自下第三釈章門。釈二章門故即有二。就初中有三。一者正釈差別。二者此縁有二以下。就時以弁。謂時遠近也。三者是近遠二縁分別以下。就益以弁。増長行者修行時益。受道縁者得果時益。Keonsyo03-15L
(自下は第三に釈章門。二章門を釈するが故に即ち二あり。初の中に就きて三あり。一には正しく差別を釈す。二には「此縁有二〈この縁に二種あり〉」より以下は、時に就きて以て弁ず。謂く時の遠近なり。三には「是近遠二縁分別〈この近遠の二縁を分別するに〉」より以下は、益に就きて以て弁ず。「増長行」とは修行時の益なり。「受道縁」とは得果の時の益なり。)Keonsyo03-15L
【論】平等縁者。一切諸仏菩薩。皆願度脱一切衆生。自然熏習。常恒不捨。以同体智力故。随応見聞而現作業。所謂衆生。依於三昧。乃得平等見諸仏故。
【論】 (平等縁とは、一切の諸仏菩薩は、みな一切衆生を度脱せんと願い、自然に熏習して、常恒に捨てず。同体の智力を以ての故に、見聞に応ずるに随いて作業を現ず。所謂衆生は、三昧に依りて、乃ち平等に諸仏を見ることを得るが故に。)
平等縁者以下釈第二章門。諸仏菩薩久発大願誓度一切。以此善根熏習力故。自然常随一切衆生随応見聞而為示現。謂示如来平等法身也。以同体智力者此観照彼苦也。令諸衆生依三昧力平等見仏。此真身摂也。能熏如是。Keonsyo03-15L
(「平等縁者」というより以下は第二章門を釈す。諸仏菩薩は久しく大願を発し誓いて一切を度す。この善根熏習力を以ての故に、自然に常に一切衆生に随いて、応に見聞すべきに随いて為〈ため〉に示現す。如来平等法身を示すと謂うなり。「以同体智力〈同体の智力を以て〉」とは、これ彼の苦を観照するなり。諸の衆生をして三昧力に依りて平等に仏を見せしめたまう。これ真身の摂なり。能熏かくの如し。)Keonsyo03-15L
【論】此体用熏習分別。復有二種。云何為二。
【論】 (この体用熏習を分別するに、また二種あり。云何が二となす。)
次明所熏人。此中有二。一者題名挙数。謂此体用熏習分別有二種也。Keonsyo03-16R
(次に所熏の人を明かす。この中に二あり。一には名を題し、数を挙ぐ。謂く「此体用熏習分別有二種〈この体用熏習を分別するに、また二種あり〉」となり。)Keonsyo03-16R
【論】一者未相応。謂凡夫二乗初発意菩薩等。以意意識熏習。依信力故。而能修行。未得無分別心与体相応故。未得自在業修行与用相応故。
【論】 (一には未相応。謂く、凡夫二乗初発意の菩薩等は意と意識との熏習を以て、信力に依るが故に、而して能く修行す。未だ無分別心は体と相応することを得ざるが故に。未だ自在業の修行は用と相応することを得ざるが故に。)
二者列名即釈。言未相応者是凡二乗地前菩薩也。此中初明体未相応。後明未得自然以下用未相応。言意意識者是七六識也。是妄識心中信順修行。而未能捨離分別之念与実相応也。未得自在業修行者。未得無功用自在行也。Keonsyo03-16R
(二には名を列ねて即釈す。「未相応」というは、これ凡・二乗・地前の菩薩なり。この中に初には体未相応を明かす。後には「未得自然〈未得自在業か?〉」より以下は用未相応を明かす。「意意識」というは、これ七・六識なり。この妄識の心中に信順修行するは、未だ分別の念を捨離して実と相応すること能わざるなり。未だ自在業の修行を得ずとは、未だ無功用自在の行を得ざるなり。)Keonsyo03-16R
問曰。地前菩薩五生自在。何故未得自在業耶。答。隠細従麁。是故此論。Keonsyo03-16R
(問いて曰く。地前の菩薩は五生自在なり。何が故ぞ未だ自在業を得ざるや。答う。細を隠して麁に従う。この故に此に論ず。)Keonsyo03-16R
【論】二者已相応。謂法身菩薩得無分別心。与諸仏自体相応。得自在業。与諸仏智用相応。唯依法力自然修行。熏習真如滅無明故。
【論】(二には已相応。謂く、法身の菩薩は無分別心を得て、諸仏の自体と相応し、自在の業を得て、諸仏の智用と相応す。ただ法力に依りて自然に修行して、真如に熏習して無明を滅するが故に。)
已相応者謂初地以上出世法身菩薩令捨妄心。除滅無明契証真如。与仏如来法身相応無有分別。唯依法身自然修行趣仏智海也。Keonsyo03-16R
(「已相応」とは、謂く、初地以上、出世法身の菩薩は妄心を捨てしめ、無明を除滅し真如を契証して、仏如来の法身と相応して、分別あることなし。唯、法身に依りて自然に修行して仏の智海に趣くなり。)Keonsyo03-16R
【論】復次染法。従無始已来熏習不断。乃至得仏後則有断。浄法熏習。則無有断尽於未来。此義云何。以真如法常熏習故。妄心則滅。法身顕現起用熏習。故無有断。
【論】 (また次に、染法は無始より已来た熏習して断ぜず。乃至、仏を得て後に則ち断ずることあり。浄法熏習は、則ち断ずることあることなく、未来を尽くす。この義云何。真如の法は常に熏習するを以ての故に、妄心則ち滅すれば、法身顕現して、用熏習を起こす故に断ずることあることなし。)
復次染法自下第二明尽不尽。此中有二。一者立正道理。二者此義云何以下釈所以。Keonsyo03-16L
(「復次染法」より下は第二に尽不尽を明かす。この中に二あり。一には正道理を立つ。二には「此義云何」より以下は所以を釈す)。Keonsyo03-16L
復次染法者是挙法也。無始以来熏習不断。至渇仏後方尽滅也。浄法始終常有無有尽滅。此義以下釈其所以。真如常熏故妄心妄境則滅。転理成行。法身顕現也。起用熏者是応用也。上来明真妄相熏。此中明真妄尽不尽。不料簡也。Keonsyo03-16L
(「復次染法」とは、これ法を挙ぐるなり。無始より以来た熏習して断えず。渇仏に至る後に方に尽滅するなり。浄法は始終、常に有りて尽滅あることなし。「此義」より以下はその所以を釈す。真如は常に熏ずるが故に、妄心・妄境は則ち滅し、理を転じて行を成じ、法身顕現するなり。「起用熏〈用熏習を起こす〉」とは、これ応用なり。上来、真妄相熏を明かす。この中には真妄の尽・不尽を明かす。料簡せざるなり。)Keonsyo03-16L
【論】復次真如自体相者。一切凡夫声聞縁覚菩薩諸仏。無有増減。非前際生。非後際滅。畢竟常恒。
【論】 (また次に真如の自体相とは、一切の凡夫・声聞・縁覚・菩薩・諸仏は、増減あることなく、前際に生ずるにあらず、後際に滅するにあらず、畢竟して常恒なり。)
復次真如自体相者自下。第二明其所表。此中有二。一者明所表法。二者復次顕示以下。明其修捨趣入方法。Keonsyo03-16L
(「復次真如自体相者」より下は第二にその所表を明かす。この中に二あり。一には所表の法を明かす。二には「復次顕示」より以下は、その修捨趣入の方法を明かす。)Keonsyo03-16L
就初中有二。一者明所表体。二者復次真如用以下。明其所説。所謂行法也。Keonsyo03-17R
(初の中に就きて二あり。一には所表の体を明かす。二には「復次真如用」より以下は、その所説を明かす。所謂る行法なり。)Keonsyo03-17R
就初中有三。一者三義略表。二者問曰以下。釈簡前後。三者復以何義以下。釈前立義。Keonsyo03-17R
(初の中に就き三あり。一には三義略して表す。二には「問曰」より以下は、前後を簡ぶことを釈す。三には「復以何義」より以下は、前の立義を釈す。)Keonsyo03-17R
初中有三。一者総表。二者所謂以下別釈。三者具足如是以下結也。Keonsyo03-17R
(初の中に三あり。一には総表。二には「所謂」より以下は別して釈す。三には「具足如是」より以下は結なり。)Keonsyo03-17R
就初中有二。一者題名。謂復次真如自体相者也。真如即体名之為相。二者正釈。此中有三。一者明理無偏。二者非前際生以下。明理体常。三者従本来下。明理法具。Keonsyo03-17R
(初の中に就きて二あり。一には題名。謂く「復次真如自体相者」なり。真如は即体、これを名づけて相と為す。二には正釈。この中に三あり。一には理に偏なきことを明かす。二には「非前際生」より以下は理体の常を明かす。三には「従本来」の下は、理法具を明かす。)Keonsyo03-17R
言一切凡夫二乗菩薩諸仏者是挙人也。無有増減者是理体也。若論行義凡聖殊異因果差別。而理体者等同一味。凡夫二乗中理無有減。菩薩仏中理亦無増也。Keonsyo03-17R
(「一切凡夫二乗菩薩諸仏」というは、これ人を挙ぐるなり。「無有増減」とは、これ理体なり。もし行の義を論ずれば凡聖の殊異、因果の差別あれども、而も理体は等同一味なり。凡夫二乗の中にも理は減あることなし。菩薩仏の中にも理はまた増なきなり。)Keonsyo03-17R
自下明常。非前際生者。明其本来無有生相。非後際滅者明終無滅。行徳名為生。而不滅名不滅。異簡此故名非生不滅。湛然常也。畢竟常恒者。常中最故名畢竟常也。Keonsyo03-17L
(自下は常を明かす。「非前際生〈前際に生ずるにあらず〉」とは、その本来、生相あることなきことを明かす。「非後際滅〈後際に滅するにあらず〉」とは、終に滅なきことを明かす。行徳を名づけて生と為し、滅せざるを不滅と名づく。これに異簡するが故に非生不滅と名づく。湛然常なり。「畢竟常恒」とは、常の中に最なるが故に畢竟常と名づくるなり。)Keonsyo03-17L
【論】従本已来自性満足一切功徳。所謂自体有大智慧光明義故。遍照法界義故。真実識知義故。自性清浄心義故。常楽我浄義故。清涼不変自在義故。
【論】 (本より已来た自性に一切の功徳を満足す。所謂、自体に大智慧光明の義あるが故に、遍照法界の義の故に、真実識知の義の故に、自性清浄心の義の故に、常楽我浄の義の故に、清涼不変自在の義の故に。)
自下明理。然此理者非為孤立。従本以来理自満足一切功徳也。下其別釈。有六句。Keonsyo03-17L
(自下は理を明かす。然るにこの理は孤立と為るに非ず。本より以来、理は自ずから一切功徳を満足するなり。下はこれ別釈、六句あり。)Keonsyo03-17L
所謂自体有大智慧光明義故。此之一句此真理中。具足一切三昧智慧神通解脱陀羅尼等功徳之性。如妄心中具足一切八万四千諸煩悩性。雖不後現行而実有之。説彼理中智慧之性。以為智慧光明義也。故厳経云。一切衆生心微塵中。有如来智無師智無礙無相智広大智等。Keonsyo03-17L
(「所謂自体有大智慧光明義故〈所謂る自体に大智慧光明の義あるが故に〉」。この一句はこの真理の中に一切三昧・智慧・神通・解脱・陀羅尼等の功徳の性を具足す。妄心の中に一切八万四千の諸の煩悩の性を具足するが如し。後に現行せずと雖も、而も実にこれあり。彼の理の中の智慧の性を説きて、以て智慧光明の義と為すなり。故に『厳経』に云く「一切衆生の心、微塵の中に如来の智・無師智・無礙無相智・広大智等あり」といえり。)Keonsyo03-17L
問曰。若如是者何故大経菩薩品言。若言衆生身中具足十力四無畏等者。非我弟子。是大邪見。下文復言衆生有性。以当見故両経相違。云何会通。Keonsyo03-18R
(問いて曰く。もしかくの如ならば、何が故ぞ『大経〈大般涅槃経〉』の「菩薩品」に言く「もし衆生身中に十力四無畏等を具足すといわば、我弟子に非ず、これ大邪見なり」。下の文にまた言く「衆生に性あり。当見を以ての故に」。両経の相違は云何が会通せん。)Keonsyo03-18R
答。此等経文皆説行徳。若如行徳。十力無畏今時有者是大邪見。然非無理。又復果性以当得名為当見。故此経言。如貧女宝。如闇中宝。本自有之。非適今也。此説理。此等経文非一。是故無違。Keonsyo03-18R
(答う。これ等の経文は皆、行徳を説く。もし行徳の如き、十力無畏、今の時にあらば、これ大邪見なり。然るに理なきに非ず。また果性は当得を以て名づけて当見と為す。故にこの経に言く。貧女の宝の如く、闇中の宝の如く、本自ずからこれあり。今に適〈かな〉うに非ざるなり。これ理を説くに、これ等の経文は一に非ず。この故に違うことなし。)Keonsyo03-18R
言遍照法界義故。此之二句是心与法同一体性。互相縁集。然義分心法。心為能照。法為所照。此之自体照何為名照。如妄心中具足一切諸虚妄法。是真心中具一切法。以同体故将心摂法。無出一法。将法摂心。則具法界微塵等心。心随彼法為種種徳。心法界由来清浄無闇無障名照一切法界之義也。Keonsyo03-18R
(「遍照法界義故」というは、この二句はこれ心と法と同一体性にして、互いに相い縁集す。然るに義をもって心法を分かつ。心を能照と為し、法を所照と為す。この自体、何を照らすを名づけて照と為すや。妄心の中に一切諸の虚妄の法を具足するが如し。この真心の中に一切法を具して、同体なるを以ての故に、心を将て法を摂して一法を出づることなし。法を将て心に摂すれば、則ち法界微塵等心を具す。心は彼の法に随いて種種の徳と為る。心と法界と由来〈もとより〉清浄にして闇なく障なきを、一切法界を照らす義と名づくるなり。)Keonsyo03-18R
真実識知義故者。此之三句蓋之真実覚知之心。有人釈言。真識非識。唯是空理。与識作体。義名為識。此言謬限。不応受持。斯乃真実覚知之心。名之為識。何得説言一向是空。乃可。真識体有不空之義。不説空義以之為識。Keonsyo03-18L
(「真実識知義故」とは、この三句は蓋し真実覚知の心なり。有る人釈して言く。真識は識に非ず。唯これ空理にして識の与〈ため〉に体と作る。義を名づけて識と為す。この言は謬限なり。応に受持すべからず。これ乃ち真実覚知の心、これを名づけて識と為す。何ぞ説きて一向にこれ空なりということを得るや。乃ち可〈い〉うべし。真識の体に不空の義あり。空の義を説かず、これを以て識と為す。)Keonsyo03-18L
故唯識論言。対彼外道凡夫之人着我我所。故色等一切法空。非離言境。一切皆空離言境者。謂仏如来所行之処。唯有真識更無余識。以斯准験明知。不以空為真識也。経本之中為真相了別也。無有偽名為真実。神知之霊名為識知也。Keonsyo03-18L
(故に『唯識論』に言く。彼の外道凡夫の人は我我所に著するに対するが故に色等の一切の法空なり。離言の境に非らず。一切皆空にして言境を離るる者は、謂く、仏如来所行の処、唯、真識のみありて、更に余識なし。これを以て准験するに、明らかに知りぬ、空を以て真識と為さざるなり。経本の中に真相了別と為すなり。偽あることなきを名づけて真実と為す。神知の霊を名づけて識知と為すなり。)Keonsyo03-18L
言自性清浄心義故者。此之第四句本来無障。名自性浄心也。良以理尊在於無垢。名為清浄也。常楽我浄義此第五句。理徳雖衆対生死要無出此四也。Keonsyo03-19R
(「自性清浄心義故」というは、これはこれ第四句は本より来かた障なきを自性浄心と名づけるなり。良に以れば理尊して無垢に在るを名づけて清浄と為すなり。「常楽我浄の義」これ第五句なり。理徳衆〈おお〉しと雖も、生死に対して要ずこの四を出づることなきなり。)Keonsyo03-19R
言清涼不変自在義故者。此第六句体無染故。名為清浄。生滅所不遷故。名不変自在也。Keonsyo03-19R
(「清涼不変自在義故」というは、これ第六句の体は染なきが故に、名づけて「清浄」と為す。生滅の遷らざる所なるが故に「不変自在」と名づくなり。)Keonsyo03-19R
【論】具足如是過於恒沙不離不断不異不思議仏法。乃至満足無有所少義故。名為如来蔵。亦名如来法身。
【論】 (かくの如きの恒沙を過ぐる不離・不断・不異・不思議の仏法を具足し、乃至、満足して少くる所あることなき義の故に、名づけて如来蔵となし、また如来法身と名づく。)
自下総結。此中有二。一者結徳。二者結名。具足如是過恒沙等不思議仏法者。此前結徳。不能別嘆故総挙也。不離等四句者上明。猶浄我楽常也。乃至以下結名。包含蘊積名之為蔵。衆法積聚名為法身。若別言隠時名蔵。顕為法身。Keonsyo03-19R
(自下は総結なり。この中に二あり。一には徳を結す。二には名を結す。「具足如是過恒沙等不思議仏法〈かくの如きの恒沙を過ぐる不離・不断・不異・不思議の仏法を具足し〉」とは、これは前に徳を結す。別嘆すること能わざるが故に総じて挙ぐるなり。「不離」等の四句は上に明かす。猶し浄我楽常のごときなり。「乃至」より以下は名を結す。包含蘊積、これを名づけて「蔵」と為し、衆法積聚するを名づけて「法身」と為す。もし別して言わば、隠るる時を蔵と名づけ、顕るるを法身と為す。)Keonsyo03-19R
【論】問曰。上説真如其体平等離一切相。云何復説体有如是種種功徳。答曰。雖実有此諸功徳義。而無差別之相。等同一味唯一真如。此義云何。以無分別離分別相。是故無二。
【論】 (問いて曰く。上に真如はその体平等にして一切の相を離ると説く。云何ぞまた体にかくの如きの種種の功徳ありと説くや。答えて曰く。実にこの諸の功徳の義ありといえども、而も差別の相なし。等同一味にして唯だ一真如なり。この義云何ん。無分別は分別の相を離るるを以て、この故に無二なり。)
自下第二重顕。初問。後答。Keonsyo03-19L
(自下は第二に重ねて顕す。初に問。後に答。)Keonsyo03-19L
問意者上明真如絶相断言。何故此中具種種徳上下相違。Keonsyo03-19L
(問の意は上に真如は相を絶し言を断ずることを明かす。何が故ぞこの中に種種の徳を具するといいて上下相違するや。)Keonsyo03-19L
答中有二。一者正答。二者此義以下釈所以。雖有諸徳而無別相者。今此中就与上無違。雖有而無有相。故不妨無。雖無而無無相。故不妨有。恒有恒無。言等同一味者。此衆徳皆同一味也。何為者唯一真如。Keonsyo03-19L
(答の中に二あり。一には正答。二には「此義」以下は所以を釈す。諸の徳ありと雖も、而も別相なしとは、今この中に上と違いなきことに就きて、ありと雖も而も相あることなきが故に無を妨げず。なしと雖いえども、而も相なきことなきが故に有を妨げず。恒に有、恒に無なり。「等同一味」というは、この衆徳は皆、同じく一味なり。何と為れば、唯一真如なればなり。)Keonsyo03-19L
自下釈所以。中有三。一者正釈。二伝釈。三者結。何故一味者。題上句。此義云何以下。無分別故也。無彼此故。無分別故。名一味故。無分別者題上句。自下伝釈。離分別相故也。遠離六七識分別之相。故名離也。自下結也。是無二者明其空有無二体也。Keonsyo03-19L
(自下は所以を釈す。中に三あり。一には正釈。二には伝釈。三には結。何が故ぞ一味なるとならば、上の句を題す。「此義云何」より以下は分別なきが故なり。彼此なきが故に、分別なきが故に、一味と名づくるが故に。「無分別」とは上の句を題す。自下は伝釈なり。分別の相を離るるが故なり。六七識の分別の相を遠離するが故に離と名づくるなり。自下は結なり。「是無二〈この故に無二なり〉」とはその空有は二体なきことを明かすなり。)Keonsyo03-19L
【論】復以何義得説差別。以依業識生滅相示。
【論】 (また何の義を以て差別を説くことを得る。業識生滅相に依りて示すを以て。)
復以何義自下第三別釈。此中有二。一者略別本由。二者此義云何下。別釈上義。復以何義得説差別者。是顕名也。以依業識生滅相示者。若無待対無。而対妄識弁故得説差別也。Keonsyo03-20R
(「復以何義」より下は第三に別釈。この中に二あり。一には略して本由を別かち、二には「此義云何」より下は、別して上の義を釈す。「復以何義得説差別〈また何の義を以て差別を説くことを得る〉」とは、これ名を顕すなり。「以依業識生滅相示〈業識生滅相に依りて示すを以て〉」とは、もし待対なければなし。而るに妄識に対して弁ずるが故に差別を説くことを得るなり。)Keonsyo03-20R
【論】此云何示。以一切法本来唯心。実無於念而有妄心。不覚起念。見諸境界故説無明。心性不起。即是大智慧光明義故。
【論】 (これ云何が示す。一切の法は本より来た唯心にして、実に念なきも而も妄心あり。覚せず念を起こして、諸の境界を見るを以ての故に無明と説く。心性は起こらず。即ちこれ大智慧光明の義の故に。)
自下別釈。此中有二。一者上別釈中六句広釈。二者乃至以下上総結。此中別釈。就初中上二句別釈。下四句者通釈。Keonsyo03-20R
(自下は別釈。この中に二あり。一には上の別釈の中に六句は広く釈す。二には「乃至」より以下は上を総結す。この中に別釈。初の中に就きて上の二句は別釈、下の四句は通釈なり。)Keonsyo03-20R
以一切法者上明恒沙等法也。本来唯心実無念者唯真無妄也。而有妄心者是無明也。以有此故便起末条。不覚起念者是業識也。見諸境界者是転識也。故説無明者結本名也。此衆惑者依理而起。還迷真理而心性無起也。言無起者不為知返無知故名無起。惑心分別為生。以分別攬真。真猶無分別故言無起也。神知猶存故。言即是大智慧光明義也。此釈初句。Keonsyo03-20R
(「以一切法」とは上に恒沙等の法を明かすなり。「本来唯心実無念〈本より来た唯心にして、実に念なきも〉」とは唯真にして妄なきなり。「而有妄心〈而も妄心あり〉」とは、これ無明なり。これあるを以ての故に便ち末条を起こす。「不覚起念〈覚せず念を起こし〉」とは、これ業識なり。「見諸境界〈諸の境界を見る〉」とは、これ転識なり。「故説無明〈故に無明と説く〉」とは、本名を結するなり。この衆惑は理に依りて起こる。還りて真理に迷いて心性は起こることなし。「無起〈不起〉」というは、知は返りて無知なるが為の故に無起と名づけず。惑心分別を生と為す。分別して真を攬〈と〉れども、真は猶〈なお〉分別なきを以ての故に「無起」というなり。神知は猶〈なお〉存するが故に「即是大智慧光明義」というなり。これは初の句を釈す。)Keonsyo03-20R
【論】若心起見則有不見之相。心性離見。即是遍照法界義故。
【論】 (もし心の、見を起こさば、則ち不見の相あり。心性は見を離る。即ちこれ遍照法界の義の故に。)
若心起見者則分別心也。則有不見之相者是分別。有相故有遍有見則有不見之相。故知。有知為相。名妄心也。心性離見者即知而無知相。不縁而照。即是遍照法界義也。神知霊故即無不照。而不縁故霊豁無滞。於無礙故名遍照法界也。Keonsyo03-20L
(「若心起見〈もし心の、見を起こさば〉」とは、則ち分別心なり。「則有不見之相〈則ち不見の相あり〉」とは、これ分別、相あるが故に遍〈偏か?〉あり見あり、則ち不見の相あり。故に知りぬ。有知を相と為すを妄心と名づくるなり。「心性離見〈心性は見を離る〉」とは、知に即して知相なし。縁ぜずして照らす。即ちこれ遍照法界の義なり。神知霊なるが故に即ち照らさざることなし。而も縁ならざるが故に霊豁にして滞ることなし。無礙なるが故に「遍照法界」と名づくるなり。)Keonsyo03-20L
【論】若心有動。非真識知。無有自性。非常非楽非我非浄。熱悩衰変則不自在。
【論】 (もし心に動あるは、真の識知にあらず。自性あることなし。常にあらず、楽にあらず、我にあらず、浄にあらず、熱悩衰変して則ち自在ならず。)
自下通釈。若心有動者是三相所熏也。此中四句皆返釈也。非真識知者返釈上中真実識知義也。無有自性者返釈上中自性清浄心也。非常等者返釈上中常楽我浄也。熱悩衰変不自在者。返釈上中清浄不変自在義也。三相所不遷故。故具四句。Keonsyo03-20L
(自下は通釈。「若心有動〈もし心に動あるは〉」とは、これ三相所熏なり。この中の四句は皆、返釈なり。「非真識知〈真の識知にあらず〉」とは、上の中の真実識知の義を返釈するなり。「無有自性〈自性あることなし〉」とは、上の中の自性清浄心を返釈するなり。「非常」等とは、上の中の常楽我浄を返釈するなり。「熱悩衰変不自在〈熱悩衰変して則ち自在ならず〉」とは、上の中の清浄不変自在の義を返釈するなり。三相の遷せざる所なるが故に、故に四句を具す。)Keonsyo03-20L
【論】乃至。具有過恒沙等妄染之義。対此義故。心性無動。則有過恒沙等諸浄功徳相義示現。
【論】 (乃至、具に過恒沙等の妄染の義あり。この義に対するが故に、心性に動なければ、則ち過恒沙等の諸の浄功徳の相の義の示現することあり。)
乃至以下釈上結徳。此中有二。初釈結徳。此中有二。初明返釈。謂具有過恒沙等妄染之義也。後明順釈。謂対此義故心性無動。則為過恒沙等浄功徳相示現也。Keonsyo03-21R
(「乃至」より以下は上の結徳を釈す。この中に二あり。初に結徳を釈す。この中に二あり。初に返釈を明かす。謂く「具有過恒沙等妄染之義〈具に過恒沙等の妄染の義あり〉」なり。後に順釈を明かす。謂く「対此義故心性無動〈この義に対するが故に、心性に動なければ〉」、則ち過恒沙等の浄功徳相示現すと為すなり。)Keonsyo03-21R
【論】若心有起更見前法可念者。則有所少。如是浄法無量功徳。即是一心。更無所念。是故満足名為法身如来之蔵。
【論】 (もし心の起こることありて更に前法の念ずべきことを見る者は、則ち少くる所あり。かくの如く浄法の無量の功徳は即ちこれ一心にして、更に念ずる所なし。この故に満足するを名づけて法身如来の蔵となす。)
自下釈結名。此中有二。初明顕非。謂若心有起亦更見前法可念者。則有所少也。後明顕是。謂如是浄法無量功徳。即是一心無有二也。更無所念。是故満足。名為法身如来蔵也。Keonsyo03-21R
(自下は結名を釈す。この中に二あり。初に顕非を明かす。謂く「若心有起亦更見前法可念〈もし心の起こることありて更に前法の念ずべきことを見る者〉」とは、則ち少くる所あるなり。後に顕是を明かす。謂く「如是浄法無量功徳。即是一心〈かくの如く浄法の無量の功徳は即ちこれ一心にして〉」二あることなきなり。更に所念なし。この故に満足するを名づけて法身如来蔵と為すなり。)Keonsyo03-21R
【論】復次真如用者。所謂諸仏如来。本在因地発大慈悲。修諸波羅蜜。摂化衆生。
【論】 (また次に真如の用とは、謂う所の諸仏如来は本〈もと〉因地に在りて、大慈悲を発し、諸波羅蜜を修し、衆生を摂化す。)
復次真如用者自下。第二明其所説。言所説者所謂行徳。徳不自顕。依詮得顕。由修行故方得成也。Keonsyo03-21L
(「復次真如用者」より下は、第二にその所説を明かす。所説というは所謂る行徳なり。徳は自ら顕れず。詮に依りて顕るることを得。修行に由るが故に方に成ずることを得るなり。)Keonsyo03-21L
此中有二。一者明其行徳。二者此用有以下。明其見聞得益不同。就初中有四。一者明因時化物之行。二者此以何義以下明以因戒徳。三者又亦以下明真諦観。四者但随以下明俗諦観。Keonsyo03-21L
(この中に二あり。一にはその行徳を明かす。二には「此用有」より以下はその見聞得益の不同を明かす。初の中に就きて四あり。一には因時化物の行を明かす。二には「此以何義」より以下は以因戒徳を明かす。三には「又亦」より以下は真諦観を明かす。四には「但随」より以下は俗諦観を明かす。)Keonsyo03-21L
【論】復次真如用者。所謂諸仏如来。本在因地発大慈悲。修諸波羅蜜。摂化衆生。立大誓願。尽欲度脱等衆生界。亦不限劫数。尽於未来。以取一切衆生如己身故。而亦不取衆生相。
【論】 (また次に真如の用とは、謂う所の諸仏如来は本〈もと〉因地に在りて、大慈悲を発し、諸波羅蜜を修し、衆生を摂化す。大誓願を立て、尽く等しく衆生界を度脱せんと欲す。また劫数を限らず、未来を尽くす。一切衆生を取りて己身の如くなるを以ての故に。而してまた衆生の相を取らず。)
復次真如用者題名也。所謂以下正明也。発大慈悲者。謂四等也。修諸波羅蜜者。謂六度也。摂化衆生者。謂四摂也。立大誓願者。謂四弘誓也。此四句者明化物行体也。Keonsyo03-21L
(「復次真如用」とは名を題するなり。「所謂」より以下は正しく明かす。「発大慈悲」とは、謂く四等なり。「修諸波羅蜜」とは、謂く六度なり。「摂化衆生」とは、謂く四摂なり。「立大誓願者」とは、謂く四弘誓なり。この四句は化物の行体を明かすなり。)Keonsyo03-21L
下明時節。尽度衆生。不限劫数。尽未来際也。言以取衆生如己身者。弁其平等之心。此中有平等行也。非為空行。而不取衆生者此遣著也。若著衆生相者。即不得度衆生也。此之空行也。Keonsyo03-21L
(下は時節を明かし、尽く衆生を度す。「不限劫数。尽未来際〈劫数を限らず、未来を尽くす〉」なり。「以取衆生如己身〈一切衆生を取りて己身の如くなるを以て〉」というは、その平等の心を弁ず。この中に平等行あるなり。空行と為るに非ず。「而不取衆生〈而してまた衆生の相を取らず〉」とは、これ著を遣るなり。もし衆生の相に著する者は即ち衆生を度することを得ざるなり。これはこれ空行なり。)Keonsyo03-21L
【論】此以何義。謂如実知一切衆生及与己身。真如平等無別異故。
【論】 (これ何の義を以てぞ。謂く、如実に一切衆生と及び己身と、真如平等にして別異なきことを知るが故に。)
自下第二此以何義以下明徳。此中有二。一者縁照。二者明真照。此以何義者設問発起也。謂如実知者是縁智也。契真之智名如実知。一切衆生及与己身真如平等者。体無異故也。此之明智体。Keonsyo03-22R
(自下は第二に「此以何義」より以下は徳を明かす。この中に二あり。一には縁照。二には真照を明かす。「此以何義」とは問を設け発起するなり。「謂如実知」とは、これ縁智なり。真に契うの智を如実知と名づく。「一切衆生及与己身真如平等〈一切衆生と及び己身と、真如平等にして〉」とは、体に異なきが故なり。これはこれ智体を明かす。)Keonsyo03-22R
【論】以有如是大方便智。除滅無明。見本法身。自然而有不思議業種種之用。即与真如等遍一切処。
【論】 (かくの如き大方便智あるを以て、無明を除滅して本法身を見る。自然に不思議の業、種種の用あり。即ち真如と等しく一切処に遍ず。)
次弁智用。以有如是大方便智除滅無明。見本法身也。次明真照。自然而有不思議業者。是報身也。種種之用者是応身。此行用也。即与真如遍一切処者以行即理。Keonsyo03-22R
(次に智用を弁ず。「以有如是大方便智除滅無明。見本法身〈かくの如きの大方便智あるを以て、無明を除滅して本法身を見る〉」なり。次に真照を明かす。「自然而有不思議業」とは、これ報身なり。「種種之用」とは、これ応身、これ行用なり。「即与真如遍一切処〈即ち真如と等しく一切処に遍ず〉」とは、行即理を以てなり。)Keonsyo03-22R
【論】又亦無有用相可得。何以故。謂諸仏如来唯是法身。智相之身。第一義諦。無有世諦境界。離於施作。但随衆生見聞得益。故説為用。
【論】 (またまた用相の得べきことあることなし。何を以ての故に。謂く、諸仏如来は唯これ法身、智相の身、第一義諦。世諦の境界あることなし。施作を離れ、ただ衆生の見聞に随いて益を得るが故に説きて用となす。)
自下第三明真諦観。此中有二。一者正釈。又無有用相可得者。与体別用不可得故也。二者釈。何故不可得者。謂諸仏者唯是法身智身。第一義諦者。此之真観也。如華厳中十身相作是也。就真而望無有別用。観生死也。次弁第四明俗諦観。但随衆生見聞得益故説為用也。Keonsyo03-22R
(自下は第三に真諦観を明かす。この中に二あり。一には正釈。「又無有用相可得〈また用相の得べきことあることなし〉」とは、体と別に用は不可得なるが故なり。二には釈。何が故ぞ不可得とならば、謂く、諸仏は唯これ法身智身なればなり。「第一義諦」とはこれ真観なり〈「謂く、諸仏如来は唯これ法身、智相の身、第一義諦」とは、これはこれ真観なり〉。『華厳』の中の十身相作の如きこれなり。真に就きて望むれば別用あることなし。生死を観ずるなり。次に第四に俗諦観を明かすことを弁ず。但、衆生の見聞得益に随うが故に、説きて用と為すなり。)Keonsyo03-22R
【論】此用有二種。云何為二。一者依分別事識。凡夫二乗心所見者。名為応身。以不知転識現故。見従外来。取色分斉。不能尽知故。
【論】 (この用に二種あり。云何が二となす。一には分別事識に依りて、凡夫二乗の心の見る所の者を名づけて応身となす。転識の現ずるを知らざるを以ての故に、外より来たると見て、色の分斉を取りて、尽く知ること能わざるが故に。)
此用有二種。自下第二明得益不同。此中有二。一者明能見之人。二者又凡夫可見以下明所見之身。此用有二者。此略挙也。分別事識者。謂六識也。言不知転識現故見従外来者。諸可見色依転識起。此起根源。不知自心現故為従外来。Keonsyo03-22L
(「此用有二種〈この用に二種あり〉」より下は第二に得益の不同を明かす。この中に二あり。一には能見の人を明かす。二には又凡夫可見より以下は所見の身を明かす。「此用有二」とは、これ略して挙ぐるなり。「分別事識」とは、謂く六識なり。「不知転識現故見従外来〈転識の現ずるを知らざるを以ての故に、外より来たると見て〉」というは、諸の可見の色は転識に依りて起こる。これ起の根源なり。自心現なることを知らざるが故に「従外来〈外より来たる〉」と為すなり。)Keonsyo03-22L
【論】二者依於業識。謂諸菩薩。従初発意。乃至菩薩究竟地心所見者。名為報身。身有無量色。色有無量相。相有無量好。所住依果亦有無量種種荘厳。随所示現。即無有辺。不可窮尽。離分斉相。随其所応。常能住持不毀不失。如是功徳。皆因諸波羅蜜等無漏行熏。及不思議熏之所成就。具足無量楽相故。説為報身。
【論】 (二には業識に依る。謂く、諸の菩薩、初発意より、乃至、菩薩究竟地の心の所見をば、名づけて報身となす。身に無量の色あり。色に無量の相あり。相に無量の好あり。所住の依果は、また無量種種の荘厳あり。示現する所に随いて、即ち辺あることなく、窮尽すべからず。分斉の相を離る。その所応に随いて、常に能く住持して毀せず失せず。かくの如きの功徳は、みな諸の波羅蜜等の無漏の行熏、及び不思議熏の成就する所に因りて、無量の楽相を具足するが故に、説きて報身となす。)
二者言業識者。謂第七識也。初発意者是地前菩薩也。所住依果者。即蓮華蔵世界也。常能住持不毀不失者。是報浄土也。故華厳云。法界不可壊蓮華蔵世界海。Keonsyo03-22L
(二には「業識」というは、謂く第七識なり。「初発意」とは、これ地前の菩薩なり。「所住依果〈所住の依果〉」とは、即ち蓮華蔵世界なり。「常能住持不毀不失〈常に能く住持して毀せず失せず〉」とは、これ報の浄土なり。故に『華厳』に云く「法界は壊すべからず、蓮華蔵世界海」といえり。)Keonsyo03-22L
【論】又為凡夫所見者。是其麁色。随於六道各見不同。種種異類非受楽相。故説為応身。
【論】 (また凡夫のために所見の者は、これその麁色。六道に随いて各見ること同じからず。種種の異類、受楽の相にあらず。故に説いて応身となす。)
自又凡夫下第二明所見身。此中有二。一者明凡所見。二者復次以下明菩薩所見。言非受楽相者。小乗教中明仏無常。但以修行故増智慧耳。故具苦無常。故非受楽也。Keonsyo03-23R
(「又凡夫」より下は第二に所見の身を明かす。この中に二あり。一には凡の所見を明かす。二には「復次」より以下は菩薩の所見を明かす。「非受楽相〈受楽の相にあらず〉」というは、小乗教の中には、仏は無常にして、但、修行を以ての故に智慧を増すのみなるが故に苦無常を具し、故に受楽に非ずと明かすなり。)Keonsyo03-23R
【論】復次初発意菩薩等所見者。以深信真如法故。少分而見。知彼色相荘厳等事無来無去。離於分斉。唯依心現不離真如。然此菩薩。猶自分別以未入法身位故。若得浄心所見微妙其用転勝。乃至菩薩地尽。見之究竟。若離業識則無見相。以諸仏法身。無有彼此色相迭相見故。
【論】 (また次に初発意の菩薩等の所見は、深く真如の法を信ずるを以ての故に、少分に見る。彼の色相荘厳等の事は、来なく去く、分斉を離る。ただ心に依りて現じて真如を離れずと知る。然るにこの菩薩は、なお自分別して未だ法身の位に入らざるを以ての故に。もし浄心を得れば、所見微妙にして、その用は転た勝なり。乃至、菩薩地尽にこれを見ること究竟す。もし業識を離るれば則ち見相なし。諸仏の法身は、彼此の色相迭いに相い見ることあることなきを以ての故に。)
自下第二明菩薩所見。此中有二。一者正明。二者問答料簡。言浄心者初地也。Keonsyo03-23R
(自下は第二に菩薩の所見を明かす。この中に二あり。一には正しく明かし。二には問答料簡す。「浄心」というは初地なり。)Keonsyo03-23R
【論】問曰。若諸仏法身離於色相者。云何能現色相。答曰。即此法身是色体故。能現於色。所謂従本已来色心不二。以色性即智故。色体無形説名智身。以智性即色故。説名法身遍一切処。所現之色無有分斉。随心能示十方世界。無量菩薩。無量報身。無量荘厳。各各差別皆無分斉。而不相妨。此非心識分別能知。以真如自在用義故。
【論】 (問いて曰く。もし諸仏の法身は色相を離れては、云何ぞ能く色相を現ずる。答えて曰く。即ちこの法身はこれ色の体なるが故に、能く色を現ず。謂う所、本より已来た色心不二なり。色性即ち智なるを以ての故に、色体無形なるを説きて智身と名づく。智性は即ち色なるを以ての故に、説きて法身は一切処に遍ずと名づく。所現の色に分斉あることなし。心に随いて能く十方世界の無量の菩薩、無量の報身、無量の荘厳、各各差別して皆、分斉なくして、而も相い妨げざることを示す。これ心識分別の能く知るにあらず。真如自在の用の義なるを以ての故に。)
自下第二問答料簡。初問後答。就答中有三。一者正答。二者所謂釈答。三者此非心識以下。総結殊勝。Keonsyo03-23R
(自下は第二に問答料簡す。初に問。後に答。答の中に就きて三あり。一には正答。二には所謂る釈答。三には「此非心識」より以下は総じて殊勝を結す。)Keonsyo03-23R
言此法身是色体故者。有人釈言。法身無色。応中但有。此義不然。此文顕矣。勝鬘中如来色無尽智慧亦復然。鴦崛魔羅経言。瞿曇法身妙色常湛然。又復義推下五戒十善中有人天也。何故万善満足感無色報乎。無国土也。既上中言所住依果種種荘厳也。Keonsyo03-23R
(「此法身是色体故〈即ちこの法身はこれ色の体なるが故に〉」というは、ある人釈して言く。法身には色なし。応の中には但有りと。この義は然らず。この文顕なり。『勝鬘』の中に「如来の色は無尽なり。智慧また然り」。『鴦崛魔羅経〈大薩遮尼乾子所説經か?〉』に言く「瞿曇法身は妙色常に湛然なり」。また義を推するに、下の五戒十善の中に人天あるなり。何が故ぞ万善満足して無色の報を感ぜんや。国土なからんや。既に上の中に「所住依果種種荘厳〈所住の依果は、また無量種種の荘厳あり〉」というなり。)Keonsyo03-23R
【論】復次顕示従生滅門即入真如門。所謂推求五陰色之与心。六塵境界畢竟無念。以心無形相。十方求之終不可得。如人迷故。謂東為西。方実不転。衆生亦爾。無明迷故。謂心為念。心実不動。若能観察知心無念。即得随順入真如門故。
【論】 (また次に生滅門より即ち真如門に入ることを顕示す。所謂、五陰を推求するに色と心となり。六塵の境界は畢竟じて無念なり。心に形相なく、十方にこれを求むるに終に不可得なるを以てなり。人の迷うが故に、東を謂いて西となすも、方は実に転ぜざるが如し。衆生もまた爾り。無明の迷の故に、心を謂いて念となすも、心は実に動ぜず。もし能く観察して心は無念と知れば、即ち随順して真如門に入ることを得るが故に。)
自復次顕示下第二明修捨方法。此中有三。一者法説。二者如人以下開譬。三者衆生亦爾下合譬。Keonsyo03-23L
(「復次顕示」より下は第二に修捨の方法を明かす。この中に三あり。一には法説。二には「如人」より以下は開譬。三には「衆生亦爾」の下は合譬。)Keonsyo03-23L
復次顕示従生滅門入真如門者是略題也。従浅入深。従無常門入無我義。中従無我門入真如不空門。其実唯真。而以相覆故不知不覚。除破此相。即知真如也。令可解大意如是。Keonsyo03-23L
(「復次顕示従生滅門入真如門〈また次に生滅門より即ち真如門に入ることを顕示す〉」とは、これ略して題するなり。浅より深に入り、無常門より無我の義に入る中、無我門より真如不空門に入る。その実は唯、真にして、相覆うを以ての故に知らず覚さず、この相を除破して、即ち真如を知るなり。大意を解すべからしむることかくの如し。)Keonsyo03-23L
【論】対治邪執者。一切邪執皆依我見。若離於我則無邪執。
【論】 (対治邪執とは、一切の邪執は皆、我見に依る。もし我を離るれば則ち邪執なし。)
自下第二明対治邪執。於中両門分別。一者明種種邪執不同。顕示正義。二者随文解釈。就初中有三。一者就事識中対治邪執。顕示正義。二者拠妄識中対治邪執。顕示正義。三者約真識中対治邪執。以顕正義。Keonsyo04-01R
(自下は第二に対治邪執を明かす。中に於いて両門をもって分別す。一には種種の邪執は同じからざることを明かして正義を顕示す。二には文に随いて解釈す。初の中に就きて三あり。一には事識の中に就きて邪執を対治して、正義を顕示す。二には妄識の中に拠りて邪執を対治して正義を顕示す。三には真識の中に約して邪執を対治して、以て正義を顕す。)Keonsyo04-01R
就事識中邪執有八。一者執之定一。有人宣説。六識之心随根雖別。体性是一。往来彼此。如一[ミ01]猴六[ケイ13]現。倶非有六猴。心識如此。六根中現非有六心。Keonsyo04-01R
(事識の中に就きて邪執に八あり。一にはこれを定めて一と執す。有る人宣説すらく。六識の心は根に随いて別なりと雖も、体性はこれ一なり。往来彼此、一の[ミ01]猴の、六[ケイ13]に現ずるが如し。倶に六猴あるに非ず。心識もかくの如し。六根の中に現ずれども六心あるに非ず。)Keonsyo04-01R
対此邪執説心非一。識無別体。縁知為義。六識之心。所依根異。所縁亦異。云何定一。若定是一常了一塵不応転変。又復心法無往来義。随有知処。即彼処生。不得説言一而往来。又彼所引[ミ01]猴為喩。証心一者是義不然。凡夫愚人謂猴定一六[ケイ13]中現。然実[ミ01]猴念念生滅。此[ケイ13]現者不至彼[ケイ13]。心識如是。依眼生者不至余根。如是一切。Keonsyo04-01R
(この邪執に対して心は一に非ずと説く。識は別体なし。縁知を義と為す。六識の心は所依の根を異にして、所縁もまた異なり。云何が定めて一ならん。もし定めてこれ一ならば、常に一塵を了して転変すべからず。また心法は往来の義なし。知ある処に随いて即ち彼の処に生ず。説きて一にして往来すということを得ず。また彼の所引の[ミ01]猴を喩と為して、心の一を証するは、この義然らず。凡夫愚人は猴は定一にして六[ケイ13]の中に現ずという。然るに実に[ミ01]猴は念念に生滅す。この[ケイ13]に現ずる者は彼の[ケイ13]に至らず。心識もかくの如し。眼に依りて生まるる者は余根に至らず。かくの如く一切なり。)Keonsyo04-01R
二者執定異別。有人宣説。六識之心体性定異。Keonsyo04-01L
(二には定めて異別なりと執す。有る人、宣説すらく。六識の心の体性は定めて異なりと。)Keonsyo04-01L
対此邪執説心不別。於事分斉相続一盧。非全別体。一[ミ01]猴遊於六[ケイ13]。非有六猴。若言六識各別有体。別体之法不相[カン18][ヘイ04]。眼識還応従眼識生。乃至意識還従意生。不得相起。現見五識従意識生。意識従於五識而生。眼非別体。又若六識各別有体別体之法不相妨礙。不相妨故六識之心常応並有。恒応並用。不常並。故明無別体也。Keonsyo04-01L
(この邪執に対して心は別ならず、事の分斉に於いて相続一盧にして、全く別体に非ずとと説く。一[ミ01]猴、六[ケイ13]に遊ぶも、六猴あるに非ず。もし六識各別に体ありといわば、別体の法は相い[カン18][ヘイ04]〈干預か?〉せず。眼識は還りて応に眼識より生じ、乃至、意識は還りて意より生ずべし。相起することを得ず。現見五識は意識より生じ、意識は五識よりして生ず。眼は別体に非ず。またもし六識各別に体あらば、別体の法は相い妨礙せず。相い妨げざるが故に六識の心は常に応に並びに有るべし。恒に応に並用すべし。常に並ばざるが故に別体なきことを明かすなり。)Keonsyo04-01L
三者執定常。有人聞説三世之中業果不断。謂心定常生死往来常是一識用。雖興廃心体不変。Keonsyo04-02R
(三には定めて常なりと執す。有る人、三世の中に業果は断えずと説くを聞きて。謂く、心は定めて常に生死に往来して常にこれ一識。用は興廃ありと雖も、心体は変らず。)Keonsyo04-02R
対此邪執説識無常。人中心異。天中亦異。六道之心各各別異。云何是常。又如経説。苦相応心異。楽相応心異。不苦不楽相応心異。如是一切各異。云何是常。但諸凡夫不知心相。妄謂是常。猶如小児見旋火輪謂不断絶。若心常者善応常善。悪応恒悪。無有変異。以変異故定知無常。Keonsyo04-02R
(この邪執に対して識は無常なりと説く。人中の心異なり。天中もまた異なり。六道の心おのおのに別異なり。云何がこれ常ならん。また経〈『北本涅槃経』か?〉に説くが如し「苦相応心異なり。楽相応心異なり。不苦不楽相応心異なり」と。かくの如く一切おのおの異なり。云何がこれ常ならん。但し諸の凡夫は心相を知らず。妄りにこれ常なりという。猶し小児の、旋火輪を見て断絶せずというが如し。もし心常ならば善は応に常に善なるべし。悪は応に恒に悪なるべし。変異あることなし。変異するを以ての故に、定めて知りぬ、無常なることを。)Keonsyo04-02R
四者執定断。有人聞説心識無常。便謂定断。Keonsyo04-02R
(四には定めて断なりと執す。有る人、心識は無常なりと説くを聞きて、便ち定めて断なりという。)Keonsyo04-02R
対治此執説心不断。現世造業。後必得果。云何定断。譬如乳酪転変雖異。置毒乳中。酪則害人。心亦如是。此身造悪。必未受苦果報。明非是断。Keonsyo04-02R
(この執を対治して心は断えずと説く。現世に業を造り、後に必ず果を得。云何が定めて断ならん。譬えば乳酪は転変して異なりと雖も、毒乳の中に置けば、酪は則ち人を害するが如し。心もまたかくの如し。この身、悪を造りて、必ずしも未だ苦の果報を受けず。これ断に非ざることを明かす。)Keonsyo04-02R
五者執定有。如毘曇説。十八界等各住已性。是有不空。謂言空者但空陰上横計我人。不空法体。法不空故心識定有。Keonsyo04-02L
(五には定有なりと執す。毘曇に説くが如し。十八界等おのおの已性に住す。これ有にして空ならず。謂く、空というは、但、空陰の上に横に我人を計す。法体を空せず。法は空ならざるが故に心識は定めて有なりと。)Keonsyo04-02L
対此邪執。説識是空。空相云何。識者正以別知為義。如一念識即具四相。初生次住終異後滅。於四中何者是知。為初相知為中為後。若初相知者余応不知。余若不知則不名識。若余相知初応不知。初若不知初不名識。若言四相各別是知便是四念各別。知法何関。一念具足四相。Keonsyo04-02L
(この邪執に対して、識はこれ空なりと説く。空相は云何ん。識は正に別知を以て義と為す。一念の識に即ち四相を具するが如き、初は生、次は住、終は異、後は滅なり。四の中に於いて何者かこれ知なるや。初相を知とやせん、中とやせん、後とやせん。もし初相知ならば、余は応に知るべからず。余もし不知ならば則ち識と名づけず。もし余相知ならば、初は応に不知なるべし。初もし不知ならば、初を識と名づけず。もし四相おのおの別にこれ知なりといえば、便ちこれ四念おのおの別なり。法を知る何んぞ関わらん。一念に四相を具足するや。)Keonsyo04-02L
答言。四相別非是知。和合之中方知者非知共合。云何有知。如百盲聚。豈有所見。又復四相都無合理。云何無合者。生相現時余相未有。余誰共合。乃至第四滅相現時余相已謝。復与誰合。進退推求都無合義。云何説言和合有知。知義既無。焉有定識。是故経説。色乃至受想行識一切皆空也。Keonsyo04-03R
(答えて言く。四相別にこれ知るに非ず。和合の中に方に知らば知共に合するに非ず。云何が知あるや。百盲聚の如し、あに所見あらんや。また四相は都て合理なし。云何が合なきとならば、生相現る時、余相は未だあらず。余は誰と共に合せん。乃至、第四の滅相現る時、余相は已に謝す。また誰と合するや。進退推求するに都て合の義なし。云何が説いて和合有知というや。知の義は既になし。焉ぞ定識あらん。この故に経に説かく。色、乃至、受想行識は一切皆空なりと。Keonsyo04-03R
六者執定無。有人聞説五陰空寂。便謂世諦因縁亦無。Keonsyo04-03R
(六には定無と執す。有る人、五陰空寂と説くを聞きて、便ち謂く、世諦の因縁もまた無なりと。)Keonsyo04-03R
対治此執。説識非無。若無心識云何而得見聞覚知。現見六識各有作用。明知。不無。又若無識則無善悪。若無善悪亦無苦楽。則入邪見断善根中。不宜受之。経言空者就真為論。於世諦中不無心識。Keonsyo04-03R
(この執を対治して、識は無に非ずと説く。もし心識なくば云何がして見聞覚知と得ん。現に六識を見るに、おのおの作用あり。明らかに知りぬ。無ならずと。またもし識なくんば則ち善悪なし。もし善悪なくんば、また苦楽なし。則ち邪見断善根の中に入る。これを受くるべからず。経に空というは、真に就きて論を為す。世諦の中に於いて心識なきにあらず。)Keonsyo04-03R
七者執心識独立。無数如来実説。Keonsyo04-03L
(七には心識の独立を執す。無数の如来は実に説きたまうと。)Keonsyo04-03L
対治此執。説有同時心心数法。故涅槃云。我諸弟子不解我意。唱言仏説定無心数。又涅槃説十大地中心数之定。明非無数。又龍樹云。譬如池水珠在則清。象入便濁。水喩心王。珠象喩数。於彼喩中可説言。水珠象一。心法如是。寧無別数。Keonsyo04-03L
(この執を対治して、同時心心数の法ありと説く。故に『涅槃』に云く「我が諸の弟子は我が意を解せず、唱えて仏は定めて心数なしと説くという」と。また『涅槃』に「十大地の中の心数の定」を説く。数なきに非ざることを明かす。また龍樹〈『智度論』か?〉の云く「譬えば池水に珠在れば則ち清く、象入れば便ち濁るが如し」。水は心王に喩え、珠・象は数に喩う。彼の喩の中に於いて説きて水珠象一というべし。心法もかくの如し。寧んぞ別数なからん。)Keonsyo04-03L
八者執心外定有数。如毘曇説。Keonsyo04-03L
(八には心外に定めて数ありと執す。毘曇に説くが如し。)Keonsyo04-03L
対治此執明非定別。故涅槃云。我諸弟子不解我意。唱言。仏説定有心数。若使心外定有別数。無預心事無心之時何不別起。Keonsyo04-03L
(この執を対治して定別に非ずと明かす。故に『涅槃』に云く「我が諸の弟子は我が意を解せず、唱言すらく。仏は定めて心数ありと説くと」。もし心の外に定めて別数あらしめば、心に預ることなき事、無心の時、何ぞ別に起こらざる。)Keonsyo04-03L
又若心外定有別数。識従意生。諸数亦応別有所依。若別有依是義不然。云何不然。於彼宗中説三性心相応各異。如欲界地善心起時二十二数相応共生。不善起時二十一数相応共生。無記起時有十二数相応共生。従無記心起善悪時十二同数可有所依。自余別数意何所依。若無依生是則心法無次第縁。経説不許。若無別依依意生者与識同依。明非心外。道理云何。Keonsyo04-03L
(またもし心外に定めて別数あらば、識は意より生ず。諸数もまた応に別に所依あるべし。もし別に依あらばこの義は然らず。云何が然らざらん。彼の宗の中に於いて三性心相応各異と説く。欲界地に善心起こる時は二十二の数相応して共に生じ、不善起こる時は二十一の数相応して共に生ずるが如し。無記起こる時は十二の数ありて相応して共に生ず。無記心より善悪を起こす時は十二同数、所依あるべし。自余の別数意は何の所にか依る。もし依なくして生ぜば、これ則ち心法に次第縁なし。経説に許さず。もし別依なく意に依りて生ぜば識と同依なり。心外に非ざることを明かす。道理云何ん。)Keonsyo04-03L
即彼心体同時具有。受想行等諸義差別。不同成実前後建立。就一心体随義別分不同毘曇異体建立。両義兼通故非諍論。Keonsyo04-04R
(即ち彼の心体は同時に具に有り。受想行等の諸義差別す。『成実』には前後に建立するに同じからず。一心の体に就きて義に随いて別分して、毘曇には異体を建立するに同じからず。両義は兼通するが故に諍論に非ず。)Keonsyo04-04R
次就妄識。対治邪執。邪執有六。Keonsyo04-04R
(次に妄識に就きて邪執を対治す。邪執に六あり。)Keonsyo04-04R
一者執定無。有人聞説但有六識無第七情。便言一向無第七識。対治此執説有七識。如楞伽中説八識義。勝鬘亦云。七法不住。若無妄識説何為八説何為七。経中所言無七情者。事相之中無第七情。非無妄識。Keonsyo04-04R
(一には定無と執す。有る人、但、六識ありて第七情なしと説くを聞きて、便ち一向に第七識なしという。この執を対治して七識ありと説く。『楞伽』の中に八識の義を説くが如し。『勝鬘』にまた云く「七法住せず」と。もし妄識なくんば何を説きて八と為し、何を説きて七と為すや。経の中に言う所の七情なしとは、事相の中には第七情なし。妄識なきには非ず。)Keonsyo04-04R
二執定有。有人聞説有第七識。便謂七識別有体性。対治此執明妄無体。当知如来就心法中。分取虚妄別之義為第七識。何得於中別立体性。如似世人見繩為蛇。繩是実事。喩彼真識。蛇是妄有。喩彼妄識。蛇依繩。故蛇無別体。妄依真立。云何有体。迷夢等喩類亦同然。又経中説。若無真識七法不住。若自有体云何不住。又若識自有体性便是実有云何名妄。Keonsyo04-04L
(二には定有と執す。有る人、第七識ありと説くを聞きて、便ち七識は別に体性ありという。この執を対治して、妄は体なきことを明かす。当に知るべし、如来は心法の中に就きて、虚妄別の義を分取して第七識と為す。何ぞ中に於いて別に体性を立てることを得ん。世人、繩を見て蛇と為すが如似し。繩はこれ実事なり。彼の真識に喩う。蛇はこれ妄有なり。彼の妄識に喩う。蛇は繩に依るが故に蛇に別の体なし。妄は真に依りて立つ。云何が体あらん。迷夢等の喩の類、また同じく然り。また経の中に説かく。もし真識なくば七法は住せず。もし自ら体あらば云何が住せざらん。またもし識に自ら体性あらば、便ちこれ実有なり。云何ぞ妄と名づけん。)Keonsyo04-04L
三者執事識以為妄識。有人聞説真識名心。妄識名意。事名意識。便言。小乗七心界中之意根界者是第七識。Keonsyo04-04L
(三には事識を執して以て妄識と為す。有る人、真識を心と名づけ、妄識を意と名づけ、事を意識と名づくと説くを聞きて、便ち言うらく、小乗七心界の中の意根界はこれ第七識なりと。)Keonsyo04-04L
対治此執宣説妄識不同事識。七心界中意根界者。即是六識生後義辺説為意根。更無別法。妄識与彼分斉条異。云何言一異相。Keonsyo04-05R
(この執を対治して、妄識は事識に同じからずと宣説す。七心界の中の意根界は、即ちこれ六識生後の義辺をもって説きて意根と為す。更に別法なし。妄識は彼と分斉条異なり。云何が一異相をいうや。)Keonsyo04-05R
如何如今論説妄識有六。始従無明乃至相続。広如上弁。事識有四。従執取相。乃至第四業繋苦相。亦如上弁。分斉各異。何得説言意根界者是第七識。又楞伽云。第七妄識唯仏如来住地菩薩所能覚知。余皆不覚。云何説言意根界者是第七識。Keonsyo04-05R
(如何が如今の論に妄識に六ありと説く。始め無明より乃至、相続まで広く上に弁ずるが如し。事識に四あり。執取相より乃至、第四の業繋苦相までなり。また上に弁ずるが如し。分斉はおのおの異なり。何ぞ説きて意根界はこれ第七識なりということを得るや。また『楞伽』に云く。第七妄識は唯、仏如来住地の菩薩の能く覚知する所なり。余は皆、覚さず。云何が説きて意根界はこれ第七識なりというや。)Keonsyo04-05R
問曰。妄識若非意根何故楞伽及此論中説為意乎。釈言。彼乃借名顕示。非即意根。如楞伽中説。第七識以之為心。今此論中宣説真識以之為心。豈可名同便是一物。心名雖同真妄両別。意名雖一何妨差別。Keonsyo04-05R
(問いて曰く。妄識、もし意根に非ざれば、何が故ぞ『楞伽』及びこの論の中に説きて意と為すや。釈して言く。彼は乃し名を借りて顕示す。即意根なるには非ず。『楞伽』の中に説くが如し。第七識、これを以て心と為すと。今この論の中に真識これを以て心と為すと宣説す。あに名同じくして便ちこれ一物なるべけんや。心の名は同じと雖も、真妄両別あり。意の名は一なりと雖も何ぞ差別を妨げん。)Keonsyo04-05R
四者執麁為細。有人宣説。眼見色時不知色空。即是七識迷惑之心。余亦如此。若解色空即是七識明解之心。余亦如此。対治此執須顕其異。言見色等不知空者。是六識中取性無明非第七識。此之取性猶是向前事識之中執取相也。Keonsyo04-05L
(四には麁を執して細と為す。有る人、宣説すらく。眼に色を見る時、色空を知らず。即ちこれ七識迷惑の心なり。余もまたかくの如し。もし色空を解さば即ちこれ七識明解の心なり。余もまたかくの如しと。この執を対治して、須くその異を顕すべし。色等を見て空を知らずというは、これ六識の中の取性無明にして第七識に非ず。これはこれ取性は猶〈なお〉これ向前の事識の中の執取相なり。)Keonsyo04-05L
問曰。若是六識中無明心者。与七識中無明何別。此如上弁。以於心外事相法中執性迷空。故非妄識。又於心外事相法中解知無性。是事識中分別之解非七識智。Keonsyo04-05L
(問いて曰く。もしこれ六識の中の無明心は七識の中の無明と何の別あるや。これ上に弁ずるが如し。心外の事相の法の中に於いて、性に執し空に迷うを以ての故に、妄識に非ず。また心外の事相の法の中に於いて無性を解知するは、これ事識の中の分別の解にして七識智に非ず。)Keonsyo04-05L
五者執不滅。有人宣説。七識之心未見理時生滅無常。見理即常究竟不滅。Keonsyo04-06R
(五には滅せずと執す。有る人、宣説すらく。七識の心は未だ理を見ざる時は生滅無常なり。理を見れば即ち常にして究竟して滅せずと。)Keonsyo04-06R
対治此執説妄終滅。七識妄心体唯痴闇。相唯分別。得聖会如。捨其分別見実明照。尽其痴闇。更有何在。而言不滅。道理如此。須以文証。Keonsyo04-06R
(この執を対治して妄は終に滅すと説く。七識妄心の体は唯痴闇なり。相は唯分別なり。聖を得て如に会して、その分別を捨て、実明照を見て、その痴闇を尽くせば、更に何の在ることかあらん。而も滅せずという。道理かくの如し。須く文証を以てすべし。)Keonsyo04-06R
如涅槃説。譬如男女燃灯之時。灯炉大小悉満中油。油喩煩悩。明喩智慧。油尽之時明亦随滅。煩悩尽已智慧随滅。故知。妄心解惑倶已。又楞伽云。断七種識名出仏血。故知。妄滅。Keonsyo04-06R
(『涅槃』に説くが如し。譬えば男女燃灯の時、灯炉大小悉く中油を満つるが如し。油は煩悩に喩え、明は智慧に喩う。油尽くる時、明もまた随して滅す。煩悩尽き已りて智慧も随いて滅す。故に知りぬ。妄心・解惑倶に已む。また『楞伽』に云く「七種の識を断ずるを仏血を出だすと名づく」。故に知りぬ。妄は滅することを。)Keonsyo04-06R
又龍樹云。覚観之心望於欲界。是善是治。若望二禅即是罪過。乃至非想非非想定於下為善。望於出世還是罪過。智慧亦爾。望世為善。若対実相還名罪過。既説為罪。何為不滅。又大智論解釈如義。彼云。実相如水性冷。観智如火。水随火熱。若火滅已水冷如本。故名為如。是実相者随観転変。是観滅已実相如本。故名為如。明知。妄解終竟滅尽。若観不滅水冷之時火応不滅。Keonsyo04-06R
(また龍樹の云く。覚観の心を欲界に望めば、これ善、これ治なるも、もし二禅に望めば即ちこれ罪過なり。乃至、非想非非想定は下に於いて善と為すも、出世に望めば還りてこれ罪過なり。智慧また爾り。世に望めば善と為り、もし実相に対せば還りて罪過と名づく。既に説きて罪と為す。何ぞ滅せずと為さん。また『大智論』に如の義を解釈す。彼に云く。実相は水性の冷たきが如し。観智は火の如し。水は火に随いて熱す。もし火滅し已れば水の冷たきこと本の如し。故に名づけて如と為す。この実相は観に随いて転変す。この観滅し已れば実相は本の如し。故に名づけて如と為す。明らかに知りぬ。妄解は終竟に滅尽す。もし観滅せざれば水冷の時に火は応に滅せざるべし。)Keonsyo04-06R
有人説言。経中説滅。但滅智中無明闇障。不滅智体。是義不然。宝性論中自有戒文。不但滅闇。亦滅智解。故彼論中説有四障不得如来浄我楽常。一者縁相。謂無明地障仏真浄。断離彼故得仏真浄。二者因相。謂無漏業障仏真我。断除彼故得仏真我。三者生相。謂意生身障仏真楽。断除彼故得仏真楽。四者壊相。謂変易死障仏真常。断除彼故得仏真常。無明等外別説無漏。以之為障。別説断除。云何而言不滅無漏。又言智体不滅尽者。不滅之体即是真心非第七識。Keonsyo04-06L
(有る人説きて言く。経の中に滅を説くは、但、智の中の無明闇障を滅して智体は滅せず。この義然らず。『宝性論』の中に自ら戒文あり。但、闇を滅するのみにあらず、また智解を滅す。故に彼の論の中に、四障ありて如来の浄我楽常を得ずと説く。一には縁相。謂く無明地は仏の真浄を障う。彼を断離するが故に仏の真浄を得。二には因相。謂く無漏業は仏の真我を障う。彼を断除するが故に仏の真我を得。三には生相。謂く意生身は仏の真楽を障う。彼を断除するが故に仏の真楽を得。四には壊相。謂く変易死は仏の真常を障う。彼を断除するが故に仏の真常を得。無明等の外に別に無漏を説く。これを以て障と為す。別して断除を説く、云何が無漏を滅せずといわん。また智体は滅尽せずというは、不滅の体は即ちこれ真心にして第七識に非ず。)Keonsyo04-06L
問曰。若七識滅者誰得菩提。誰証涅槃。釈曰。心相雖復滅尽心性猶在。心性在者即是真識。是故就此説得説証也。Keonsyo04-07R
(問いて曰く。もし七識滅せば誰か菩提を得、誰か涅槃を証らん。釈して曰く。心相はまた滅尽すと雖も心性は猶〈なお〉在り。心性の在りとは即ちこれ真識なり。この故にこれに就き得と説き証と説くなり。)Keonsyo04-07R
六者執定滅。有人聞説妄心終滅。便言定滅無熏習義。何故如此妄在之時。未得真実則無所熏。証実之時。達本無妄則無能熏。又真実中浄法満足。更無所少。何用妄熏。心有此義故無熏習。Keonsyo04-07R
(六には定んで滅すと執す。有る人、妄心は終に滅すと説くを聞きて、便ち定んで滅して熏習の義なしという。何が故にかくの如きの妄在るの時、未だ真実を得ざれば則ち所熏なし。実を証する時は本〈もと〉妄なしと達すれば則ち能熏なし。また真実の中に浄法満足して、更に所少なし。何ぞ妄熏を用いん。心にこの義あるが故に熏習なし。)Keonsyo04-07R
対治此執説有妄有妄熏。如論中言。妄熏有二。一事識熏。所謂凡夫二乗所修善。二者業識熏。謂諸菩薩所行之道。所熏有二。一者熏生。二者熏顕。望方便果説為熏在。其猶臈印印泥成文。亦如摸[ギ03]転金成器。望性浄果熏之顕。如炉治等融石出金。Keonsyo04-07L
(この執を対治して、妄あり妄熏ありと説く。論の中に言うが如し。妄熏に二あり。一には事識熏。所謂る凡夫二乗の所修の善なり。二には業識熏。謂く諸の菩薩の所行の道なりと。所熏に二あり。一には熏生。二には熏顕。方便の果に望みて説きて熏在と為す。それ臈印をもって泥に印して文を成ずるが猶し。また摸[ギ03]の、金を転じて器を成ずるが如し。性浄果に望むれば熏じて顕る。炉治〈冶か?〉等の、石を融して金を出だすが如し。)Keonsyo04-07L
若言妄時未得真故今無熏者。得時由彼何為下熏。若言拠真本無妄故令無熏者。就真論真。真則常寂。実不仮熏。拠妄論真。真随妄染後随妄飾。寧無熏義。若言真中浄法満足不仮熏者。凡夫之時雖有浄性未顕成徳。是故須熏。其猶宅中雖有宝蔵不掘不出。亦如地中雖復有水不取不得。故説有熏。Keonsyo04-07L
(もし妄時には未だ真を得ざるが故に今は熏なしといわば、時を得るは彼に由れば何為ぞ下熏ぜんや。もし真に拠れば本〈もと〉妄なきが故に熏なからしむといえば、真に就きて真を論ずれば、真は則ち常寂にして、実に熏を仮らず。妄に拠りて真を論ずれば、真は妄に随いて染し、後に妄に随いて飾る。寧ろ熏の義なからんや。もし真の中に浄法満足して熏を仮らずといわば、凡夫の時、浄性ありと雖も未だ顕れて徳を成ぜず。この故に須く熏ずべし。それ宅中に宝蔵ありと雖も掘らざれば出でざるが猶し。また地の中にまた水ありと雖も取らざれば得ざるが如し。故に熏ありと説く。)Keonsyo04-07L
問曰。真妄其性各異。云何妄修而得熏真。良以真妄不相離。故妄染則染。妄浄則浄。故以妄修熏成真徳。Keonsyo04-08R
(問いて曰く。真と妄と、その性おのおの異ならば、云何が妄修して真を熏ずることを得ん。良に以みれば真と妄とは相離せず。故に妄の染〈そ〉むときは則ち染み、妄の浄むるときには則ち浄む。故に妄を以て修熏して真徳を成ず。)Keonsyo04-08R
次就真識対治邪執。執有二。一者凡夫著我執。二者二乗著法執。Keonsyo04-08R
(次に真識に就きて邪執を対治す。執に二あり。一には凡夫は我執に著す。二には二乗は法執に著す。)Keonsyo04-08R
問曰。凡夫亦著諸法。何故偏名人著我執。釈言。細分亦著諸法。今対二乗。凡夫著我及著我所通名人執。諸法皆是我所摂故。Keonsyo04-08R
(問いて曰く。凡夫もまた諸法に著す。何が故ぞ偏に人著我執と名づくるや。釈して言く。細分もまた諸法に著す。今は二乗に対し、凡夫の、我に著し及び我所に著するを、通じて人執と名づく。諸法は皆これ我の所摂なるが故に。)Keonsyo04-08R
就凡執中随義具論。略有二種。一者執有。二者執無。執有之中別有四種。Keonsyo04-08R
(凡執の中に就きて義に随いて具に論ずれば、略して二種あり。一には有に執し、二には無に執す。執有の中に別して四種あり。)Keonsyo04-08R
一者執実同神。有人聞説蔵識是我。謂同外道所取神我。対治此執。説如来蔵非我衆生非命非人。Keonsyo04-08R
(一には実に神に同じと執す。有る人、蔵識はこれ我なりと説くを聞きて、外道所取の神我に同じと謂〈おも〉えり。この執を対治して如来蔵は我衆生に非ず、命に非ず、人に非ずと説く。)Keonsyo04-08R
二者執真中具足真染。有人聞説生死二法是如来蔵。便謂真中有生死。対治此執説。如来蔵自性清浄。従本以来唯有清浄恒沙仏法。無有染汚。若言真中実有生死。而便証会永離生死無有是処。若言有彼縁起作用。随世法門非無此義。Keonsyo04-08R
(二には真の中に真染を具足すと執す。有る人、生死の二法はこれ如来蔵なりと説くを聞きて、便ち真の中に生死ありと謂〈おも〉えり。この執を対治して説かく、如来蔵は自性清浄にして本より以来、唯、清浄恒沙の仏法のみありて、染汚あることなし。もし真の中に実に生死ありといわば、便ち証会して永く生死を離るること、この処あることなし。もし彼の縁起作用ありといわば、随世法門、この義なきに非ず。)Keonsyo04-08R
三者執有浄相。有人聞説如来蔵中。備有一切諸功徳法不増不減。即謂真中有色心等自相著別。対治此執。説如来蔵雖具諸法。依真如説無彼此相。無自他相。乃至亦無離自他相。翻対染故説彼真中具一切法。又彼真中恒沙等法同体縁集無有差別。不得別取差別之相。Keonsyo04-08L
(三には有浄相を執す。有る人、如来蔵の中に備に一切諸の功徳法ありて、増さず減ぜずと説くを聞きて、即ち真の中に色心等の自相著別ありと謂〈おも〉えり。この執を対治して説かく、如来蔵は諸法を具すと雖も、真如に依りて彼此の相なく、自他の相なく、乃至、また自他の相を離るることなしと説く。染に翻対するが故に彼の真の中に一切の法を具すと説く。また彼の真の中の恒沙等の法は同体縁集して差別あることなく、別に差別の相を取ることを得ず。)Keonsyo04-08L
四者執始終相。有人聞説依如来蔵有生死。謂如来蔵始起生死。又復説如来之蔵起生死故。雖得涅槃還起生死。起生死故涅槃有終。対治此執。説如来蔵無始無終。以無始故依起生死生死無始。是以論言。若有宣説三界之外。更有衆生初始起者。是外道説。非正仏法。以無終故依成涅槃。涅槃無終。Keonsyo04-08L
(四には始終相を執す。有る人、如来蔵に依りて生死ありと説くを聞きて、如来蔵ありて始めて生死を起こすと謂〈おも〉えり。また如来の蔵は生死を起こすが故に、涅槃を得と雖も、還りて生死を起こし、生死を起こすが故に涅槃に終ありと説く。この執を対治して、如来蔵は無始無終と説く。無始を以ての故に依りて生死を起こす。生死は無始なり。これを以て論〈『起信論』か?〉に言く「もし三界の外に更に衆生ありて初始めて起こると宣説することあらば、これ外道の説にして、正仏法に非ず」と。無終を以ての故に依りて涅槃を成ず。涅槃は無終なり。)Keonsyo04-08L
執無之中別有三種。一者執空義以為真識。有人聞説真識離相是法無我。便謂六識七識空義即是真識。対治此執説識不空。経言空者。於真識中無彼妄情所取相。故名為空。非謂真識一向是空。Keonsyo04-09R
(執無の中に別して三種あり。一には空義を執して以て真識と為す。有る人、真識は相を離る。この法は我なしと説くを聞きて、便ち六識七識の空の義は即ちこれ真識なりと謂う。この執を対治して識不空と説く。経に空というは、真識の中に於いて彼の妄情所取の相なきが故に名づけて空と為す。真識は一向にこれ空なりと謂うには非ず。)Keonsyo04-09R
故唯識論言。対彼凡夫外道之人取我我所。故説色等一切法空。非離言境一切皆空行者是。其離言境者。謂仏行処唯有真識。更無余識及外境界。云何言空。Keonsyo04-09R
(故に『唯識論』に言く。彼の凡夫外道の人の、我我所を取るに対するが故に、色等の一切の法は空なりと説く。離言の境は一切皆空の行に非ずとはこれなり。それ離言の境とは、謂く、仏の行処は唯、真識のみありて、更に余識及び外の境界なし。云何が空といわん。)Keonsyo04-09R
又復如彼勝鬘経説宣説二識。一者空如来蔵。謂諸煩悩空無自実。二者不空如来蔵。謂過恒沙一切仏法。又取六識七識空理為真識者。是彼二中空如来蔵。何関真識不空蔵乎。Keonsyo04-09L
(また彼の『勝鬘経』に説くが如きは二識を宣説す。一には空如来蔵。謂く諸の煩悩は空にして自実なし。二には不空如来蔵。謂く過恒沙の一切の仏法なり。また六識七識空理を取りて真識と為すとは、これ彼の二の中の空如来蔵なり。何ぞ真識不空蔵に関わらんや。)Keonsyo04-09L
又他経中宣説生空法空及与第一義空。此三空外別更宣説利耶識空。明知。六識七識心空非是真識。又真識中雖有空義。不説空義以為真識。事識之中雖有空義不以空義以為真識。妄識之中雖有空義不説空義以為妄識。真識亦爾。不説空義以為真識。真識是真実知之性。云何言空。若説心空為真識者。小乗法中亦説心空。以何義故不名真識。Keonsyo04-09L
(また他経の中に生空と法空と及び第一義空とを宣説す。この三空の外に別に更に利耶識空を宣説す。明らかに知りぬ。六識七識心空はこれ真識に非ず。また真識の中に空の義ありと雖も、空義を説きて以て真識と為さず。事識の中に空義ありと雖も、空義を以て、以て真識と為さず。妄識の中に空義ありと雖も、空義を説きて以て妄識と為さず。真識また爾り。空義を説きて以て真識と為さず。真識はこれ真実知の性なり。云何が空といわん。もし心空を説きて真識と為さば、小乗法の中にも、また心空を説く。何の義を以ての故に真識と名づけざる。)Keonsyo04-09L
二者執法身以為空。有人聞説如来法身畢竟寂滅猶如虚空。是人不知為破著故。即謂法身一向是空。対治是執説実不空。所言空者対有故説。何処別有空体可得。又論説。一向境界但是心有心外無法。若離妄心境界随滅。唯有真心無所不遍。即是如来広大性智究竟善有非是虚空。Keonsyo04-10R
(二には法身を執して以て空と為す。有る人、如来法身は畢竟して寂滅なること猶し虚空の如しと説くを聞きて、この人は著を破さんが為の故と知らず、即ち法身は一向にこれ空なりという。この執を対治して、実には不空なりと説く。言う所の空とは、有に対するが故に説く。何処にか別に空体の得べきものあらんや。また論に説かく。一向境界は但これ心有にして心外に法なし。もし妄心を離れぬれば境界は随いて滅す。唯、真心のみありて遍ぜざる所なし。即ちこれ如来の広大性智、究竟善、有にしてこれ虚空に非ず。)Keonsyo04-10R
三者執真如。以為定空。有人聞説世間涅槃一切空寂乃至真如亦畢竟空離一切相。不知此等為破著故。即謂真如唯是其空。対治此執説如来不空具足無量性功徳。云何言空。Keonsyo04-10R
(三には真如を執して以て定空と為す。有る人、世間涅槃は一切空寂、乃至、真如もまた畢竟空にして一切の相を離ると説くを聞きて。これ等は著を破さんが為なることを知らざるが故に、即ち真如は唯これそれ空なりと謂う。この執を対治して如来は不空にして無量性功徳を具足すと説く。云何が空といわん。)Keonsyo04-10R
次明対治二乗妄執。妄執有二。一者執有。二乗之人未得法空。見有生死涅槃之相。以此見故深畏生死。趣求涅槃迷覆真如。対治此執説諸法空一切生死本性常寂。亦無自滅涅槃可得。Keonsyo04-10L
(次に二乗の妄執を対治することを明かす。妄執に二あり。一には有を執す。二乗の人は未だ法空を得ず。生死涅槃の相あると見る。この見を以ての故に深く生死を畏れ、涅槃に趣求して迷いて真如を覆う。この執を対治して諸法は空にして一切の生死は本性常寂にして、また自滅涅槃の得べきことなしと説く。)Keonsyo04-10L
二者執定無。二乗之人分見生空。利根之者少見法空。便取此空以為究竟。覆障真実。対治此執宣説仏性実有不空。対治邪執旨玄難測。邪俯聖言粗術綱緒。Keonsyo04-10L
(二には定無と執す。二乗の人は分に生空を見る。利根の者は少しく法空を見て、便ちこの空を取りて以て究竟と為し、真実を覆障す。この執を対治して仏性は実有不空と宣説す。邪執を対治する旨は玄にして測り難し。聖言を邪俯すること粗、綱緒を術〈の〉ぶ。)Keonsyo04-10L
【※編者註 この起信論の文は再掲です。】
【論】対治邪執者。一切邪執皆依我見。若離於我則無邪執。
【論】 (対治邪執とは、一切の邪執は皆、我見に依る。もし我を離るれば則ち邪執なし。)
【論】是我見有二種。云何為二。一者人我見。二者法我見。
【論】 (この我見に二種あり。云何が二となす。一には人我見、二には法我見なり。)
次弁随文。此中有二。一者明治邪執不同。二者復次究竟離以下。明其遣著。前治邪非有而猶存治相。故次第二遣治相也。就初中有三。一者総立道理。二者是我見有二以下。挙数列章門。三者人我見者以下。釈章門。Keonsyo04-10L
(次に文に随いて弁ず。この中に二あり。一には邪執を治するの不同を明かす。二には「復次究竟離」より以下はその遣著を明かす。前の治邪は非有にして猶〈なお〉治相を存す。故に次に第二に治相を遣るなり。初の中に就きて三あり。一には総じて道理を立つ。二には「是我見有二」より以下は数を挙げて章門を列す。三には「人我見者」より以下は章門を釈す。)Keonsyo04-10L
対治邪執者是題名也。一切邪執皆依我見者是正釈也。我見是其衆惑根本。是故数家之義我見非惑。以有我故得修聖道。若離於我則無邪執者是返釈也。Keonsyo04-11R
(「対治邪執」とはこれ題名なり。「一切邪執皆依我見〈一切の邪執は皆、我見に依る〉」とは、これ正釈なり。我見、これはその衆惑の根本なり。この故に数家の義、我見は惑に非ず。我あるを以ての故に聖道を修することを得。「若離於我則無邪執〈もし我を離るれば則ち邪執なし〉」とは、これ返釈なり。)Keonsyo04-11R
【論】人我見者。依諸凡夫説有五種。云何為五。一者聞修多羅。説如来法身畢竟寂寞。猶如虚空。以不知為破著故。即謂虚空是如来性。
【論】 (人我見とは、諸の凡夫に依りて説くに五種あり。云何が五となす。一には修多羅に如来の法身は畢竟寂寞なること猶し虚空の如しと説くを聞きて、著を破さんがためと知らざるを以ての故に、即ち虚空はこれ如来の性なりといえり。)
【論】二者。聞修多羅。説世間諸法畢竟体空。乃至。涅槃真如之法亦畢竟空。本来自空離一切相。以不知為破著故。即謂真如涅槃之性唯是其空。云何対治。明真如法身自体不空。具足無量性功徳故。
【論】 (二には、修多羅に、世間の諸法は畢竟体空なり、乃至、涅槃真如の法もまた畢竟空、本より来た自空にして一切の相を離れたりと説くを聞きて、著を破さんがためと知らざるを以ての故に、即ち真如涅槃の性は唯これはそれ空といえり。云何が対治せん。真如法身は自体不空にして無量の性功徳を具足すと明かすが故に。)
【論】三者。聞修多羅。説如来之蔵無有増減。体備一切功徳之法。以不解故。即謂如来之蔵。有色心法自相差別。云何対治。以唯依真如義説故。因生滅染義示現。説差別故。
【論】 (三には、修多羅に如来の蔵は増減あることなく、体に一切功徳の法を備うと説くを聞きて、解せざるを以ての故に、即ち如来の蔵は色心の法の自相差別ありと謂う。云何が対治せん。唯だ真如の義に依りて説くを以ての故に、生滅の染の義に因りて示現するを、差別と説くが故に。)
【論】四者。聞修多羅。説一切世間生死染法。皆依如来蔵而有。一切諸法不離真如。以不解故。謂如来蔵自体。具有一切世間生死等法。云何対治。以如来蔵従本已来。唯有過恒沙等諸浄功徳。不離不断不異真如義故。以過恒沙等煩悩染法。唯是妄有性自本無。従無始世来。未曽与如来蔵相応故。若如来蔵体有妄法。而使証会永息妄者。則無有是処。
【論】 (四に、修多羅に一切世間の生死の染法は、皆、如来蔵に依りて有り、一切の諸法は真如を離れずと説くを聞きて、解せざるを以ての故に、如来蔵の自体に具に一切世間の生死等の法ありという。云何が対治せん。如来蔵は本より已来た、唯、過恒沙等の諸の浄功徳は不離不断不異の真如の義あるを以ての故に。過恒沙等の煩悩の染法は唯これ妄有、性自から本無なり、無始世より来た、未だ曽て如来蔵と相応せざるを以ての故に。もし如来蔵の体に妄法ありて、証会せしめて永く妄を息めば、則ちこの処あることなし。)
【論】五者。聞修多羅。説依如来蔵故有生死。依如来蔵故得涅槃。以不解故。謂衆生有始。以見始故。復謂如来所得涅槃。有其終尽還作衆生。云何対治。以如来蔵無前際故。無明之相亦無有始。若説三界外更有衆生始起者。即是外道経説。又如来蔵無有後際。諸仏所得涅槃与之相応。則無後際故。
【論】 (五に、修多羅に、如来蔵に依るが故に生死あり、如来蔵に依るが故に涅槃を得と説くを聞きて、解せざるを以ての故に、衆生に始ありという。始を見るを以ての故に、また如来所得の涅槃は、その終尽ありて、還りて衆生と作るという。云何が対治せん。如来蔵は前際なきを以ての故に、無明の相もまた始あることなし。もし三界の外に更に衆生ありて始めて起こると説かば、即ちこれ外道経の説なり。また如来蔵は後際あることなく、諸仏所得の涅槃もこれと相応して、則ち後際なきが故に。)
釈章門中有二。一者釈人我章門。二者釈法我章門。就初中有二。一者略挙数。二者云何以下別釈。此五中前一執無。後三執有。若応具論三種識中治邪執也。広如上弁。然今此論就本為論。但真識耳。真識之中挙要言故説此五耳。文顕可解。此五中各有二。一者明邪執。二者明対治解。Keonsyo04-11R
(釈章門の中に二あり。一には人我章門を釈す。二には法我章門を釈す。初の中に就きて二あり。一には略して数を挙ぐ。二には「云何」より以下は別釈す。この五の中に、前の一は無を執し、後の三は有を執す。もし応に具に三種識の中に邪執を治することを論ずべきなり。広くは上に弁ずるが如し。然るに今この論には本に就きて論を為す。但、真識のみ。真識の中に要を挙げていうが故にこの五を説くのみ。文は顕かなり、解すべし。この五の中におのおの二あり。一には邪執を明かし、二には対治の解を明かす。)Keonsyo04-11R
【論】法我見者。依二乗鈍根故。如来但為説人無我。以説不究竟。見有五陰生滅之法。怖畏生死妄取涅槃。云何対治。以五陰法自性不生。則無有滅。本来涅槃故。
【論】 (法我見とは、二乗の鈍根に依るが故に、如来はただ人無我と説くがために、説、究竟せざるを以て、五陰生滅の法ありと見て、生死を怖畏して妄に涅槃を取る。云何が対治せん。五陰の法は自性不生なるを以て、則ち滅あることなし。本より来た涅槃の故に。)
法我見者以下明第三法我見。此中有二。一者執有。二者執無。而文中但有執有。略無執無。此中有二。一者明執。二者明対治。Keonsyo04-11L
(「法我見者」より以下は第三に法我見を明かす。この中に二あり。一には有を執し、二には無を執す。而して文中には但、執有のみありて、略して執無なし。この中に二あり。一には執を明かし、二には対治を明かす。)Keonsyo04-11L
【論】復次究竟離妄執者。当知染法浄法皆悉相待。無有自相可説。
【論】 (また次に究竟して妄執を離るれば、当に知るべし、染法・浄法、皆悉く相待して、自相の説くべきあることなし。)
自復次究竟下第二明遣著。此中有二。一者遣除治相。二者而有以下撥権顕実。就初中有三。一者題名。二者当知以下遣情。三者是故以下遣相。Keonsyo04-11L
(「復次究竟」より下は第二に著を遣ることを明かす。この中に二あり。一には治相を遣除す。二には「而有」より以下は権を撥いて実を顕す。初の中に就きて三あり。一には名を題す。二には「当知」より以下は情を遣る。三には「是故」より以下は相を遣る。)Keonsyo04-11L
復次究竟離妄執者是題名也。但離邪執非是究竟。亦遣能治名究竟離也。何故双遣。下顕其義。当知染法浄法皆悉相待無有可説者。若竅論理皆不得染浄相。而就相弁。拠妄而望亦得浄相。既無妄執所対治。浄法亦無可立。Keonsyo04-11L
(「復次究竟離妄執者〈また次に究竟して妄執を離るれば〉」とはこれ題名なり。但、邪執を離るのみは、これ究竟に非ず。また能治を遣るを究竟離と名づくるなり。何が故に双び遣るや。下にその義を顕す。「当知染法浄法皆悉相待無有可説〈当に知るべし、染法・浄法、皆悉く相待して、自相の説くべきあることなし〉」とは、もし竅かに理を論ずれば、皆、染浄相を得ず。而して相に就きて弁じ、妄に拠りて而も望むれば、また浄相を得。既に妄執の対治する所なければ、浄法もまた立すべきなし。)Keonsyo04-11L
【論】是故一切法。従本已来非色非心非智非識非有非無。畢竟不可説相。而有言説者。当知如来善巧方便。仮以言説引導衆生。其旨趣者。皆為離念帰於真如。以念一切法。令心生滅不入実智故。
【論】 (この故に一切の法は本より已来た色にあらず、心にあらず、智にあらず、識にあらず、有にあらず、無にあらず、畢竟して不可説の相なり。而して言説あるは、当に知るべし、如来の善巧方便にして、仮に言説を以て衆生を引導す。その旨趣は皆、念を離れ真如に帰せんがためなり。一切の法を念ずれば、心をして生滅して実智に入らざらしむるを以ての故に。)
自下遣相。是故一切法者。是染浄一切法也。本来無相不可説也。自而有言説下第二明其廃権。此中有三。一者明撥権。二者其旨以下明其顕実。三者以念以下明其返釈。而有言説者当知。如来方便引道衆生非正顕也。言離念者名妄識念也。帰於真如者是正顕也。以念以下文可解。Keonsyo04-12R
(自下は相を遣る。「是故一切法」とは、これ染浄の一切法なり。本来無相にして説くべからざるなり。「而有言説」より下は第二にその廃権を明かす。この中に三あり。一には権を撥うことを明かす。二には「其旨」より以下はその実を顕すことを明かす。三には「以念」より以下はその返釈を明かす。「而有言説者当知。如来方便引道衆生〈而して言説あるは、当に知るべし、如来の善巧方便にして、仮に言説を以て衆生を引導す〉」とは正顕に非ざるなり。「離念〈念を離れ〉」というは妄識の念に名づくるなり。「帰於真如〈真如に帰せん〉」とは、これ正顕なり。「以念」より以下の文は解すべし。)Keonsyo04-12R
【論】分別発趣道相者。謂一切諸仏所証之道。一切菩薩発心修行趣向義故。
【論】 (分別発趣道相とは、謂く、一切の諸仏所証の道に、一切の菩薩の、発心修行し趣向する義なるが故に。)
自下第三明趣道相。此中有三。一者総表。二者略説以下列章門。三者釈章門。Keonsyo04-12R
(自下は第三に趣道相を明かす。この中に三あり。一には総表。二には「略説」より以下は章門を列す。三には章門を釈す。)Keonsyo04-12R
分別発趣道相者是題名也。道者所証之道。発趣者修行趣入也。一切諸仏所証之道者釈道相也。一切菩薩修行趣向義者釈発趣也。理行合釈。Keonsyo04-12R
(「分別発趣道相」とは、これ名を題するなり。「道」とは所証の道。「発趣」とは修行趣入なり。「一切諸仏所証之道」とは道相を釈するなり。「一切菩薩修行趣向義」とは発趣を釈すなり。理行合釈す。)Keonsyo04-12R
【論】略説発心有三種。云何為三。一者信成就発心。二者解行発心。三者証発心。
【論】 (略して発心を説くに三種あり。云何が三となす。一には信成就発心。二には解行発心。三には証発心。)
略説以下初明挙数。後明列章門。言成就発心者十信以上也。解行発心者解行以上也。証発心者初地以上也。Keonsyo04-12L
(「略説」より以下は、初に挙数を明かし、後に列章門を明かす。「成就発心」というは十信以上なり。「解行発心」とは解行以上なり。「証発心」とは初地以上なり。)Keonsyo04-12L
【論】信成就発心者。依何等人。修何等行。得信成就。堪能発心。
【論】 (信成就発心とは、何等の人に依り、何等の行を修し、信成就を得て、能く発心するに堪えん。)
信成就発心者自下第三釈章門。釈三章門故即分為三。就初中有二。一者設問発趣。二者所謂以下正釈。Keonsyo04-12L
(「信成就発心者」より下は第三に章門を釈す。三章門を釈すが故に即ち分かちて三と為す。初の中に就きて二あり。一には問を設けて発趣す。二には「所謂」より以下は正しく釈す。)Keonsyo04-12L
信成就発心者是題名也。依何等人者就人以問。修何等行者就行以弁。得信成就堪能発心者。結問信発心也。Keonsyo04-12L
(「信成就発心」とはこれ名を題するなり。「依何等人」とは人に就きて以て問う。「修何等行」とは行に就きて以て弁ず。「得信成就堪能発心」とは、信発心を問うことを結するなり。)Keonsyo04-12L
【論】所謂依不定聚衆生。
【論】 (所謂、不定聚の衆生に依る。)
自下正答。此中有二。一者就人以弁。二者復次信成就発者以下就行以釈。就初中有二。一者明進入。二者若有衆生以下明退之人。此十信中進退位故。恒遭善縁遂入種性。若遇悪縁還退失也。有此二人故分為二。就初中有三。一者表位。二者有熏習下明其起行。三者如是信心以下明其進入。Keonsyo04-12L
(自下は正しく答う。この中に二あり。一には人に就きて以て弁ず。二には「復次信成就発者」より以下は行に就きて以て釈す。初の中に就きて二あり。一には進入を明かす。二には「若有衆生」より以下は退の人を明かす。これ十信の中は進退位なるが故に。恒に善縁に遭いて遂に種性に入る。もし悪縁に遇えば還りて退失するなり。この二人あるが故に分かちて二と為す。初の中に就きて三あり。一には位を表わす。二には「有熏習」より下はその起行を明かす。三には「如是信心」より以下はその進入を明かす。)Keonsyo04-12L
所謂不定聚衆生者。十信是其進退不定聚也。Keonsyo04-13R
(「所謂不定聚衆生」とは、十信はこれその進退不定聚なり。)Keonsyo04-13R
【論】有熏習善根力故。信業果報能起十善。厭生死苦。欲求無上菩提。得値諸仏親承供養。修行信心。経一万劫信心成就故。諸仏菩薩教令発心。或以大悲故能自発心。或因正法欲滅。以護法因縁故能自発心。
【論】 (熏習する善根力あるが故に、業果報を信じて能く十善を起こし、生死の苦を厭い、無上菩提を欲求し、諸仏に値うを得て、親承供養して、信心を修行す。一万劫を経て信心成就するが故に、諸仏菩薩は教えて発心せしめ、或いは大悲を以ての故に能く自ら発心し、或いは正法の滅せんと欲するに因りて、護法の因縁を以ての故に能く自ら発心す。)
自有熏習下第二明其起行。此中有二。一者明其信仏心。二者諸仏以下明其発心。Keonsyo04-13R
(「有熏習」より下は第二にその起行を明かす。この中に二あり。一にはその信仏の心を明かす。二には「諸仏」より以下はその発心を明かす。)Keonsyo04-13R
有熏習善根力者是六識熏習也。信業果報者是報果也。能起十善厭苦求涅槃。値仏供養修信心。径一万劫者信心成就也。自諸仏菩薩下第二明其発心。諸仏菩薩教令発心。或因大悲或因護法能自発心。Keonsyo04-13R
(「有熏習善根力」とは、これ六識熏習なり。「信業果報」とは、これ報果なり。能く十善を起こして苦を厭い、涅槃を求めて、仏に値いて供養し、信心を修めて、一万劫を径〈へ〉る者は信心成就するなり。「諸仏菩薩」より下は第二にその発心を明かす。諸仏菩薩は教えて発心せしめ、或いは大悲に因り、或いは護法に因り、能く自ら発心す。)Keonsyo04-13R
【論】如是信心成就得発心者。入正定聚畢竟不退。名住如来種中正因相応。
【論】 (かくの如く信心成就して発心を得る者は、正定聚に入りて畢竟じて退ぞかざるを、如来種の中に住して正因相応すと名づく。)
自如是信心下第二明其進入。如是信心成就得発心者満足万劫也。入正定聚者種性以上決定不退。故名正定聚。性種習種与二仏中種子正因。故名住如来種正因相応也。Keonsyo04-13R
(「如是信心」より下は第二にその進入を明かす。「如是信心成就得発心〈かくの如く信心成就して発心を得る〉」とは万劫を満足するなり。「入正定聚」とは種性より以上、決定して退かざるが故に正定聚と名づく。性種・習種、二つ与〈とも〉に仏の中の種子正因なるが故に、「名住如来種正因相応〈如来種の中に住して正因相応すと名づく〉」となり。)Keonsyo04-13R
【論】若有衆生。善根微少。久遠已来煩悩深厚。雖値於仏亦得供養。然起人天種子。或起二乗種子。設有求大乗者。根則不定若進若退。或有供養諸仏。未経一万劫。於中遇縁亦有発心。所謂見仏色相而発其心。或因供養衆僧而発其心。或因二乗之人教令発心。或学他発心。如是等発心。悉皆不定。遇悪因縁。或便退失堕二乗地。
【論】 (もし衆生ありて、善根微少にして久遠より已来た煩悩深厚なれば、仏に値いまた供養することを得といえども、然るに人天の種子を起こし、或いは二乗の種子を起こす。設い大乗を求むる者あれども、根は則ち不定にして、もしは進み、もしは退す。或いは諸仏を供養することあるも、未だ一万劫を経ざるに、中に於いて縁に遇いてまた発心することあり。所謂、仏の色相を見てその心を発し、或いは衆僧を供養するに因りてその心を発し、或いは二乗の人の教えに因りて発心せしめ、或いは他を学びて発心す。かくの如き等の発心は、悉く皆、不定なり。悪の因縁に遇わば、或いは便ち退失して二乗地に堕す。)
自若有衆生下第二明還退人。此中退者位行二退也。若論念退種性亦有。Keonsyo04-13L
(「若有衆生」より下は第二に還退の人を明かす。この中に退とは位・行の二退なり。もし念退を論ずれば種性にもまたあり。)Keonsyo04-13L
【論】復次信成就発心者。発何等心。略説有三種。云何為三。一者直心。正念真如法故。二者深心。楽集一切諸善行故。三者大悲心。欲抜一切衆生苦故。
【論】 (また次に信成就発心とは、何等の心を発すや。略して説くに三種あり。云何が三となす。一には直心。正しく真如の法を念ずるが故に。二には深心。楽しみて一切の諸の善行を集むるが故に。三には大悲心。一切衆生の苦を抜かんと欲するが故に。)
自復次信成就下第二就行以弁。此中有二。一者明因分行。二者菩薩発是心故以下明果分行。就初中有二。一者就心以弁。二者略説方便以下就行以弁。就初中有三。一者総表挙数。二者列名即釈。三者問答重明。三種心者即是三菩提心也。Keonsyo04-13L
(「復次信成就」より下は第二に行に就きて以て弁ず。この中に二あり。一には因分の行を明かす。二には「菩薩発是心故」より以下は果分の行を明かす。初の中に就きて二あり。一には心に就きて以て弁ず。二には「略説方便」より以下は行に就きて以て弁ず。初の中に就きて三あり。一には総表して数を挙ぐ。二には名を列ねて即ち釈す。三には問答して重ねて明かす。三種の心とは即ちこれ三菩提心なり。)Keonsyo04-13L
【論】問曰。上説法界一相仏体無二。何故不唯念真如。復仮求学諸善之行。
【論】 (問いて曰く。上に法界一相、仏体無二なりと説く。何が故ぞ唯だ真如を念ぜずして、また諸善の行を求学することを仮るや。)
【論】答曰。譬如大摩尼宝体性明浄。而有鉱穢之垢。若人雖念宝性。不以方便種種磨治。終無得浄。以垢無量無辺遍一切法故。修一切善行以為対治。若人修行一切善法。自然帰順真如法故。
【論】 (答えて曰く。譬えば大摩尼宝の体性は明浄なるに、鉱穢の垢あり。もし人、宝性を念ずといえども、方便を以て種種に磨治せざれば、終に浄を得ることなきが如し。垢は無量無辺にして一切法に遍ずるを以ての故に、一切の善行を修して以て対治をなす。もし人、一切の善法を修行すれば、自然に真如の法に帰順するが故に。)
就第三中有二。一問。二答。中有二。一者開喩。二者如是衆生以下明合喩。Keonsyo04-13L
(第三の中に就きて二あり。一には問。二には答。中に二あり。一には喩を開く。二には「如是衆生」より以下は合喩を明かす。)Keonsyo04-13L
大摩尼宝体性明浄者。此喩真如体。而有鉱穢之垢者。是心為煩悩所染也。方便喩其縁修万行。合中可解。Keonsyo04-13L
(「大摩尼宝体性明浄」とは、これ真如の体に喩う。「而有鉱穢之垢〈鉱穢の垢あり〉」とは、この心は煩悩の為に染せらるなり。「方便」はその縁修万行に喩う。合の中、解すべし。)Keonsyo04-13L
【論】略説方便有四種。云何為四。
【論】 (略して方便を説くに四種あり。云何が四となす。)
【論】一者行根本方便。謂観一切法自性無生。離於妄見不住生死。観一切法因縁和合業果不失。起於大悲修諸福徳。摂化衆生不住涅槃。以随順法性無住故。
【論】 (一には行根本方便。謂く一切の法は自性無生と観じ、妄見を離れて生死に住せず。一切の法は因縁和合して業果は失せずと観じ、大悲を起こして諸の福徳を修し、衆生を摂化して涅槃に住せず。法性の無住に随順するを以ての故に。)
【論】二者能止方便。謂慚愧悔過。能止一切悪法不令増長。以随順法性離諸過故。
【論】 (二には能止の方便。謂く慚愧悔過して能く一切の悪法を止め増長せしめず。法性の、諸過を離るるに随順するを以ての故に。)
【論】三者発起善根増長方便。謂勤供養礼拝三宝。讃歎随喜勧請諸仏。以愛敬三宝淳厚心故。信得増長。乃能志求無上之道。又因仏法僧力所護故。能消業障善根不退。以随順法性離癡障故。
【論】 (三には発起善根増長方便。謂く勤めて三宝を供養し礼拝し、諸仏を讃歎し随喜し勧請す。三宝を愛敬する淳厚の心を以ての故に、信は増長することを得、乃ち能く無上の道を志求す。また仏法僧の力に護らるるに因るが故に、能く業障を消して善根退かず。法性の、癡障を離るるに随順するを以ての故に。)
【論】四者大願平等方便。所謂発願尽於未来。化度一切衆生使無有余。皆令究竟無余涅槃。以随順法性無断絶故。法性広大遍一切衆生。平等無二。不念彼此。究竟寂滅故。
【論】 (四には大願平等方便。所謂、発願して未来を尽くし、一切衆生を化度するに余あることなからしめて、皆、究竟無余涅槃せしむ。法性の断絶なきに随順するを以ての故に。法性広大にして一切の衆生に遍し、平等無二なり。彼此を念ぜず、究竟寂滅の故に。)
自略説方便下第二明行。此中有二。一者立名。謂行根方便。二者即釈。此有三。一者明不住生死行。二者観一切法以下明不住涅槃行。三者以随下以行即理。就第二中有三。一者立名。二者謂慚愧下即釈。三者随順下以行即理。後第三第四中亦同此三。Keonsyo04-14R
(「略説方便」より下は第二に行を明かす。この中に二あり。一には名を立つ。謂く行根方便。二には即釈。これに三あり。一には不住生死行を明かす。二には「観一切法」より以下は不住涅槃行を明かす。三には「以随」より下は行を以て理に即す。第二の中に就きて三あり。一には名を立つ。二には「謂慚愧」より下は即釈す。三には「随順」より下は行を以て理に即す。後の第三・第四の中もまたこの三に同ず。)Keonsyo04-14R
【論】菩薩発是心故。則得少分見於法身。以見法身故。随其願力能現八種利益衆生。所謂従兜率天退。入胎住胎出胎。出家成道転法輪。入於涅槃。然是菩薩未名法身。以其過去無量世来。有漏之業未能決断。随其所生。与微苦相応。亦非業繋。以有大願自在力故。
【論】 (菩薩はこの心を発する故に、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に、その願力に随りて能く八種を現じて衆生を利益す。所謂、兜率天より退し、入胎、住胎、出胎、出家、成道、転法輪、涅槃に入る。然るにこの菩薩は未だ法身と名づけず。その過去無量世より来た、有漏の業未だ能く決断せざるを以て、その所生に随いて微苦と相応す。また業繋にあらず。大願自在力あるを以ての故に。)
自下第二菩薩発是心以下二明果分行。此中有三。一者明真証行。二者以見法身以下明応化行。三者如修多羅下引経証成。Keonsyo04-14R
(自下は第二に「菩薩発是心」より以下は二に果分の行を明かす。この中に三あり。一には真証行を明かす。二には「以見法身」より以下は応化行を明かす。三には「如修多羅」より下は経を引きて証成す。)Keonsyo04-14R
菩薩発是心故則得少見法身者是証行体也。Keonsyo04-14R
(「菩薩発是心故則得少見法身〈菩薩はこの心を発する故に、則ち少分に法身を見ることを得〉」とは、これ証行の体なり。)Keonsyo04-14R
自下明応化。此中有三。一者明依体起用。二者所謂以下明八相益。三者然是菩薩以下明未尽有漏之業。未名法身者。法身是其初地以上也。Keonsyo04-14L
(自下は応化を明かす。この中に三あり。一には体に依りて用を起こすことを明かす。二には「所謂」より以下は八相の益を明かす。三には「然是菩薩」より以下は未だ有漏の業を尽くさざることを明かす。「未名法身〈未だ法身と名づけず〉」とは、法身はこれはその初地以上なり。)Keonsyo04-14L
此業有二釈。一云。不繋業変易。大悲為縁。此業為因墮悪道中。不期劫数。名為変易。二云。不繋業分段。雖受不限劫数報。猶名分段。有漏業因四住為縁所成之業。故名分段。以微細故受不限報也。Keonsyo04-14L
(この業に二釈あり。一に云く。不繋業変易。大悲を縁と為し、この業を因と為して悪道の中に墮ちて劫数を期せざるを名づけて変易と為す。二に云く。不繋業分段。劫数を限らざる報を受くと雖も、猶〈なお〉分段と名づく。有漏の業因、四住を縁となす所成の業なるが故に分段と名づく。微細を以ての故に不限の報を受くるなり。)Keonsyo04-14L
受苦有二釈。一云。此業微故小痛小悩無大受苦。二云。雖業而微墮三悪故如処受之微故不肯入者。如曲引経証。中有二。一者明其権行。二者又是菩薩下明其実行。Keonsyo04-14L
(受苦に二の釈あり。一に云く。この業は微なるが故に小痛、小悩にして大に苦を受くることなし。二に云く。業は而して微なりと雖も、三悪に墮つるが故に処受の微なるが如きの故に肯入せずとは、曲には経を引きて証するが如し。中に二あり。一にはその権行を明かす。二には「又是菩薩」より下はその実行を明かす。)Keonsyo04-14L
【論】如修多羅中。或説有退堕悪趣者。非其実退。但為初学菩薩未入正位。而懈怠者恐怖。令彼勇猛故。又是菩薩。一発心後遠離怯弱。畢竟不畏堕二乗地。若聞無量無辺阿僧祇劫。勤苦難行乃得涅槃。亦不怯弱。以信知一切法。従本已来自涅槃故。
【論】 (修多羅中。或いは悪趣に退堕する者ありと説くが如きは、その実退にあらず。ただ初学の菩薩の、未だ正位に入らず、懈怠する者に恐怖せしめ、彼をして勇猛ならしめんための故に。またこの菩薩は一たび発心して後、怯弱を遠離して、畢竟じて二乗地に堕つることを畏れず。もし無量無辺阿僧祇劫に勤苦難行して乃ち涅槃を得と聞くとも、また怯弱ならず。一切の法は本従り已来た自ら涅槃なりと信知するを以ての故に。)
如修多羅。或説退者非其実退者非業所墮。未入正位者是不定聚也。就実行中有三。一者明其不畏墮二乗地。二者若聞以下明其不畏苦難行也。三者以信知下明五行体。Keonsyo04-14L
(「如修多羅。或説退者非其実退〈修多羅中、或いは悪趣に退堕する者ありと説くが如きは、その実退にあらず〉」とは、業の所墮に非ず。「未入正位〈未だ正位に入らず〉」とは、これ不定聚なり。実行の中に就きて三あり。一にはそれ「不畏堕二乗地〈二乗地に墮ちることを畏れざる〉」ことを明かす。二には「若聞」より以下は、その苦難の行を畏れざることを明かすなり。三には「以信知」より下は五行の体を明かす。)Keonsyo04-14L
【論】解行発心者。当知転勝。
【論】 (解行発心とは、当に知るべし、転た勝なり。)
解行発心者以下釈第二章門。此中有二。一者明其総勝。当知転勝。解行倶明也。Keonsyo04-15R
(「解行発心者」より以下は第二の章門を釈す。この中に二あり。一にはその総勝を明かす。「当知転勝〈当に知るべし、転た勝なり〉」とは解行倶に明かなり。)Keonsyo04-15R
【論】以是菩薩。従初正信已来。於第一阿僧祇劫将欲満故。
【論】 (この菩薩は、初の正信より已来た、第一阿僧祇劫に於いて将に満ぜんと欲するを以ての故に。)
【論】於真如法中。深解現前所修離相。以知法性体無慳貪故。随順修行檀波羅蜜。以知法性無染離五欲過故。随順修行尸羅波羅蜜。以知法性無苦離瞋悩故。随順修行[セン08]提波羅蜜。以知法性無身心相離懈怠故。随順修行毘梨耶波羅蜜。以知法性常定体無乱故。随順修行禅波羅蜜。以知法性体明離無明故。随順修行般若波羅蜜。
【論】 (真如の法の中に於いて、深解現前して、所修は相を離る。法性の体は慳貪なきを知るを以ての故に、随順して檀波羅蜜を修行す。法性は無染にして五欲の過を離れたると知るを以ての故に、随順して尸羅波羅蜜を修行す。法性には苦なく瞋悩を離るるを知るを以ての故に、随順して[セン08]提波羅蜜を修行す。法性は身心の相なく懈怠を離るるを知るを以ての故に、随順して毘梨耶波羅蜜を修行す。法性は常定にして、体は乱なきを知るを以ての故に、随順して禅波羅蜜を修行す。法性は体明にして無明を離るるを知るを以ての故に、随順して般若波羅蜜を修行す。)
二者以是菩薩下明其別勝。就第二中有二。一者明其解勝。二者以知法性下明其行勝。就行勝中以六度弁。此六之中各分有二。一者明理。二者明以理成行。Keonsyo04-15R
(二には「以是菩薩」より下はその別勝を明かす。第二の中に就きて二あり。一にはその解勝を明かす。二には「以知法性」より下はその行勝を明かす。行勝の中に就きて六度を以て弁ず。この六の中におのおの分かちて二あり。一には理を明かす。二には理を以て行を成ずることを明かす。)Keonsyo04-15R
【論】証発心者。従浄心地。乃至菩薩究竟地。証何境界。所謂真如。以依転識説為境界。而此証者無有境界。
【論】 (証発心とは、浄心地より、乃至、菩薩究竟地に何の境界を証するや。所謂、真如なり。転識に依るを以て説きて境界となす。而してこの証とは境界あることなし。)
証発心者以下明釈証発心。此中有二。一者明所証法。二者唯真如下明能証行。Keonsyo04-15R
(「証発心者」より以下は証発心を明釈す。この中に二あり。一には所証の法を明かす。二には「唯真如」より下は能証の行を明かす。)Keonsyo04-15R
就初中有五句。従浄心地至究竟地者就人位弁。証何境界者設問発起。十地之中所証理通。所謂真如者表所証法也。以依転識説為境界者以熏修縁故所証境異。若廃行縁則無境界之異。而此証者無有境界者是遣相也。Keonsyo04-15R
(初の中に就きて五句あり。「従浄心地至究竟地〈浄心地より、乃至、菩薩究竟地〉」とは、人の位に就きて弁ず。「証何境界〈何の境界を証するや〉」とは、問を設け発起す。十地の中の所証の理通ず。「所謂真如」とは、所証の法を表すなり。「以依転識説為境界〈転識に依るを以て説きて境界となす〉」とは、熏修の縁を以ての故に所証の境は異なる。もし行縁を廃すれば則ち境界の異なし。「而此証者無有境界〈而してこの証とは境界あることなし〉」とは、これ相を遣るなり。)Keonsyo04-15R
【論】唯真如智名為法身。是菩薩。於一念頃能至十方無余世界。供養諸仏請転法輪。唯為開導利益衆生。不依文字。或示超地速成正覚。以為怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫当成仏道。以為懈慢衆生故。能示如是無数方便不可思議。
【論】 (唯だ真如智を名づけて法身となす。この菩薩、一念の頃に於いて能く十方無余の世界に至り、諸仏を供養し転法輪を請す。唯だ衆生を開導し利益せんがために、文字に依らず。或いは地を超えて速かに正覚を成ずと示す。怯弱の衆生のためなるを以ての故に。或いは我、無量阿僧祇劫に於いて当に仏道を成ずべしと説く。懈慢の衆生のためなるを以ての故に。能くかくの如き無数の方便を示す。不可思議なり。)
自下明其能証之行。此中有三。一者従初地以上至七地以還明能証行。二者又是菩薩発心以下明八地以上能証之行。三者又是菩薩功徳以下明第十地能証之行。Keonsyo04-15L
(自下はその能証の行を明かす。この中に三あり。一には初地以上より七地以還に至るは能証の行を明かす。二には「又是菩薩発心」より以下は八地以上の能証の行を明かす。三には「又是菩薩功徳」より以下は第十地の能証の行を明かす。)Keonsyo04-15L
就初中有二双。一者真応相対以弁。二者而実菩薩以能化相対以弁。就初中有二。一者明真身。唯真如智為法身也。二者明応身。此中有二。一者別明異化。二者如是以下結明応化無辺。Keonsyo04-15L
(初の中に就きて二双あり。一には真応相対して以て弁ず。二には「而実菩薩」より能化相対を以て、以て弁ず〈二には「而実菩薩」より以下は能化相対を以て弁ず〉。初の中に就きて二あり。一には真身を明かす。唯真如智を法身と為すなり。二には応身を明かす。この中に二あり。一には別して異化を明かす。二には「如是」より以下は結して応化無辺を明かす。)Keonsyo04-15L
是菩薩於一念頃示越地成正覚。或説無量久遠劫中修行成仏。衆生根性不同則有万差。而引要言無出此二。謂懈怠怯弱為此二人故為此説也。Keonsyo04-16R
(この菩薩は一念の頃に於いて地を越えて正覚を成ずることを示す。或いは無量久遠劫の中に修行して成仏すと説く。衆生の根性は同じからず、則ち万差あり。而して要を引きていわば、この二を出ずることなし。謂く懈怠と怯弱と、この二人の為なるが故にこの説を為すなり。)Keonsyo04-16R
【論】而実菩薩種性根等。発心則等。所証亦等。無有超過之法。以一切菩薩。皆経三阿僧祇劫故。但随衆生世界不同。所見所聞根欲性異故。示所行亦有差別。
【論】 (而して実に菩薩の種性根等しく、発心則ち等しく、所証また等しくして、超過の法あることなし。一切の菩薩は皆、三阿僧祇劫を経るを以ての故に。ただ衆生世界は同じからず、所見、所聞、根、欲、性の異なるに随うが故に、所行を示すことまた差別あり。)
自而実菩薩下第二双。此中有二。一者明能化。二者以一切菩薩以下明所化。而実菩薩種性発心所証皆等無超過法者。種性以上無利鈍差別。而所化不同故種種不同也。以一切示化菩薩下所見所聞根欲性異者是所化也。故示所行亦有差別者随示能化也。Keonsyo04-16R
「而実菩薩」より下は第二双。この中に二あり。一には能化を明かす。二には「以一切菩薩」より以下は所化を明かす。「而実菩薩種性発心所証皆等無超過法〈而して実に菩薩の種性根等しく、発心則ち等しく、所証また等しくして、超過の法あることなし〉」とは、種性より以上は利鈍の差別なく、而も所化は不同なるが故に種種に同じからざるなり。「以一切示化菩薩」より下、「所見所聞根欲性異」とは、これ所化なり。「故示所行亦有差別〈故に所行を示すことまた差別あり〉」とは、随いて能化を示すなり。)Keonsyo04-16R
【論】又是菩薩発心相者。有三種心微細之相。云何為三。一者真心。無分別故。二者方便心。自然遍行利益衆生故。三者業識心。微細起滅故。
【論】 (またこの菩薩の発心の相とは、三種の心の微細の相あり。云何が三となす。一には真心。無分別の故に。二には方便心。自然に遍行して衆生を利益するが故に。三には業識心。微細に起滅するが故に。)
自又是菩薩下第二明八地已上能証之行。此中二。一者挙数表相。二者云何以下列名即釈。微細相者無功用故。行相微細名微細相。此三心中。前一是真後二是妄。Keonsyo04-16R
(「又是菩薩」より下は第二に八地已上の能証の行を明かす。この中に二。一には数を挙げて相を表す。二には「云何」より以下は名を列ね即釈す。「微細相」とは、功用なきが故に。行相微細なるを微細相と名づく。この三心の中に、前の一はこれ真、後の二はこれ妄なり。)Keonsyo04-16R
【論】又是菩薩功徳成満。於色究竟処。示一切世間最高大身。謂以一念相応慧。無明頓尽名一切種智。自然而有不思議業。能現十方利益衆生。
【論】 (またこの菩薩は、功徳成満して、色究竟処に於いて、一切世間の最高大の身を示す。謂く、一念相応の慧を以て、無明頓に尽くすを一切種智と名づく。自然に不思議業ありて、能く十方に現じて衆生を利益す。)
自又是菩薩下第三明第十地能証之行。就此中有二。一者明因満果成。二者以問答重明。就初中有二。一者明其因満故報身成立。二者謂以一念下明其惑尽之相。Keonsyo04-16L
(「又是菩薩」より下は第三に第十地の能証の行を明かす。この中に就きて二あり。一には因満果成を明かす。二には問答を以て重明す。初の中に就きて二あり。一にはその因満つるが故に報身の成立することを明かす。二には「謂以一念」より下はその惑尽の相を明かす。)Keonsyo04-16L
又是菩薩功徳成満者。明因行満也。於色究竟処示世間高大身者。明其報身成。自下明相。一念相応慧者。是縁智終一念解也。以此解故無明頓尽種智現前。以此種智現前故自然而有不思議業用。充法界能現十方利益衆生也。Keonsyo04-16L
(「又是菩薩功徳成満〈またこの菩薩は、功徳成満して〉」とは、因行の満つることを明かすなり。「於色究竟処示世間高大身〈色究竟処に於いて、一切世間の最高大の身を示す〉」とは、それ報身の成ずることを明かす。自下は相を明かす。「一念相応慧」とは、これ縁智の終り、一念の解なり。この解を以ての故に無明頓に尽きて、種智現前す。この種智の現前するを以ての故に自然にして不思議の業用ありて、法界に充ちて、能く十方に現じて衆生を利益するなり。)Keonsyo04-16L
【論】問曰。虚空無辺故世界無辺。世界無辺故衆生無辺。衆生無辺故心行差別亦復無辺。如是境界不可分斉。難知難解。若無明断無有心想。云何能了名一切種智。
【論】 (問いて曰く。虚空無辺なるが故に世界無辺なり。世界無辺なるが故に衆生無辺なり。衆生無辺なるが故に心行の差別もまたまた無辺なり。かくの如きの境界は分斉すべからず。知り難く、解し難し。もし無明断ぜば心想あることなし。云何して能く了するを一切種智と名づけん。)
【論】答曰。一切境界本来一心。離於想念。以衆生妄見境界故。心有分斉。以妄起想念不称法性故。不能決了。諸仏如来。離於見相無所不遍。心真実故。即是諸法之性。自体顕照一切妄法。有大智用無量方便。随諸衆生所応得解。皆能開示種種法義。是故得名一切種智。
【論】 (答えて曰く。一切の境界は本来一心にして想念を離る。衆生は妄に境界を見るを以ての故に、心に分斉あり。妄に想念を起こして法性に称わざるを以ての故に、決了すること能わず。諸仏如来は見相を離れて遍ぜざる所なし。心真実の故に、即ちこれ諸法の性なり。自体、一切の妄法を顕照す。大智用、無量の方便ありて、諸の衆生の応に得解すべき所に随いて、皆能く種種の法義を開示す。この故に一切種智と名づくることを得。)
自下第二明答重明。此中有二。一者初一問答。上言一切種智重明。二者第二問答。上言自然不思議業重明。就初中有二。一問。二答。Keonsyo04-16L
(自下は第二に明答〈問答か?〉重ねて明かす。この中に二あり。一には初の一問答は上に一切種智というを重ねて明かす。二には第二の問答は上に自然不思議業というを重ねて明かす。初の中に就きて二あり。一に問。二に答。)Keonsyo04-16L
虚空無辺者大虚也。無有心想断無明者。妄心差別皆悉無也。若無差別心相者。云何名種智。即名一切智。Keonsyo04-17R
(「虚空無辺」とは大虚なり。「無有心想」とは、無明を断ずる者は妄心の差別、皆悉く無なり。もし差別の心相なければ、云何が種智と名づけ、即ち一切智と名づけん)。Keonsyo04-17R
就第二答中有三。一者表理体一。二者以衆生下明凡夫無種智。三者諸仏以下明仏種智。一切境界本来一心離想念者。唯真識無妄想也。而凡夫人起妄心故不称法性。心有分斉無種智也。Keonsyo04-17R
(第二答の中に就きて三あり。一には理体一なることを表す。二には「以衆生」より下は凡夫に種智なきことを明かす。三には「諸仏」より以下は仏種智を明かす。「一切境界本来一心離想念〈一切の境界は本来一心にして想念を離る〉とは、唯、真識にして妄想なきなり。而して凡夫の人は妄心を起こすが故に法性に称わず、心に分斉あれば種智なきなり。)Keonsyo04-17R
自諸仏如来下第三明仏種智。此中有二。一者明仏有智体。二者有大智下明仏有智用。諸仏如来離見想者離妄見也。雖復智体一有智用方便。随衆生差別開種種法。名種智也。Keonsyo04-17R
(「諸仏如来」より下は第三に仏種智を明かす。この中に二あり。一には仏に智体あることを明かす。二には「有大智」より下は仏に智用あることを明かす。「諸仏如来離見想〈諸仏如来は見相を離れ〉」とは、妄見を離るるなり。また智体は一と雖も智用方便あり。衆生の差別に随いて種種の法を開くを種智と名づくるなり。)Keonsyo04-17R
【論】又問曰。若諸仏有自然業。能現一切処利益衆生者。一切衆生若見其身。若覩神変。若聞其説無不得利。云何世間多不能見。答曰。諸仏如来法身平等遍一切処。無有作意故説自然。但依衆生心現。衆生心者猶如於鏡。鏡若有垢色像不現。如是衆生心。若有垢法身不現故。
【論】 (また問いて曰く。もし諸仏に自然業ありて、能く一切処に現じて衆生を利益せば、一切衆生は、もしはその身を見、もしは神変を覩、もしはその説を聞きて、利を得ざることなし。云何ぞ世間に多く見ること能わざるや。答えて曰く。諸仏如来の法身は平等に一切処に遍じて作意あることなきが故に自然と説く。ただ衆生の心に依りて現ず。衆生心は猶し鏡の如し。鏡もし垢あらば色像は現ぜず。かくの如く衆生の心にもし垢あらば、法身は現ぜざるが故に。)
就第二問答有二。一問。二答。問中初領上。後正問也。就答中有三。初法。次喩。後合。Keonsyo04-17L
(第二問答に就きて二あり。一に問、二に答なり。問の中に初は上を領し、後に正しく問うなり。答の中に就きて三あり。初に法、次に喩、後に合なり。)Keonsyo04-17L
【論】已説解釈分。次説修行信心分。是中依未入正定聚衆生故。説修行信心。
【論】 (已に解釈分を説く。次に修行信心分を説かん。この中に未だ正定聚に入らざる衆生に依るが故に、修行信心を説く。)
自下結前生後。已説解釈分。次説修行信心也。Keonsyo04-17L
(自下は結前生後。已に解釈分を説く。次に修行信心を説くなり。)Keonsyo04-17L
自下第三明依理起行。亦可為下根故説此修行信心分。此中有四。一者就人以弁。二者何等以下設問発起。三者略説以下。正釈信行。四者復次衆生初学以下。明修是法恒生浄土。Keonsyo04-17L
(自下は第三に理に依りて行を起こすことを明かす。またいうべし、下根の為の故にこの修行信心分を説く。この中に四あり。一には人に就きて以て弁ず。二には「何等」より以下は問を設けて発起す。三には「略説」より以下は、正しく信行を釈す。四には「復次衆生初学」より以下は、この法を修して恒に浄土に生ずることを明かす。)Keonsyo04-17L
是中依未入正定衆生者。就不定位也。Keonsyo04-17L
(「是中依未入正定衆生〈この中に未だ正定聚に入らざる衆生に依る〉」とは、不定の位に就くなり。)Keonsyo04-17L
【論】何等信心。云何修行。
【論】 (何等の信心、云何が修行する。)
第二故設問中有二。一者問信。二者問行。Keonsyo04-17L
(第二に故に問を設くる中に二あり。一には信を問い、二には行を問う。)Keonsyo04-17L
【論】略説信心有四種。云何為四。一者信根本。所謂楽念真如法故。二者信仏有無量功徳。常念親近供養恭敬発起善根。願求一切智故。三者信法有大利益。常念修行諸波羅蜜故。四者信僧能正修行自利利他。常楽親近諸菩薩衆。求学如実行故。
【論】 (略して信心を説くに四種あり。云何が四となす。一には根本を信ず。所謂、真如の法を楽念するが故に。二には仏に無量の功徳ありと信じて、常に念じて親近し供養し恭敬して善根を発起し、一切智を願求するが故。三には法に大利益ありと信じて、常に念じて諸波羅蜜を修行するが故に。四には僧は能く正しく自利利他を修行すと信じて、常に楽しみて諸菩薩衆に親近して如実の行を求学するが故に。)
就第三釈中有二。一者釈信心。二者釈修行。有五門以下明行。就信心中有二。初明挙数。二者列名。即釈三宝与理故有四也。所信之境無出此四故説四也。Keonsyo04-17L
(第三の釈の中に就きて二あり。一には信心を釈し、二には修行を釈す。「有五門」より以下は行を明す。信心の中に就きて二あり。初に挙数を明かし、二には名を列ぬ。即ち三宝と理とを釈するが故に四あるなり。所信の境はこの四を出づることなきが故に四と説くなり。)Keonsyo04-17L
【論】修行有五門。能成此信。云何為五。一者施門。二者戒門。三者忍門。四者進門。五者止観門。
【論】 (修行に五門あり。能くこの信を成ず。云何が五となす。一には施門。二には戒門。三には忍門。四には進門。五には止観門。)
就第二行中有三。一者挙数略弁。二者列章門。三者広釈。修行有五門能成信者。於六度中定慧合故。故有五也。Keonsyo04-18R
(第二の行の中に就きて三あり。一には数を挙げて略弁す。二には章門を列す。三には広釈。「修行有五門能成信〈修行に五門あり。能くこの信を成ず〉」とは、六度の中に於いて定慧合するが故に、故に五あるなり。)Keonsyo04-18R
【論】云何修行施門。若見一切来求索者。所有財物随力施与。以自捨慳貪。令彼歓喜。若見厄難恐怖危逼。随己堪任施与無畏。若有衆生来求法者。随己能解方便為説。不応貪求名利恭敬。唯念自利利他。回向菩提故。
【論】 (云何が施門を修行する。もし一切の来りて求索する者を見れば、所有る財物は力に随いて施与す。自から慳貪を捨するを以て、彼をして歓喜せしむ。もし厄難恐怖危逼を見て、己が堪任するに随いて無畏を施与す。もし衆生の来りて法を求むる者あらば、己が能く解するに随いて方便して為に説きて、応に名利恭敬を貪求すべからず。唯だ自利利他を念じ菩提に回向するが故に。)
就広釈中釈五章門。故復即五。釈施門中有二。一者題名。二者若見以下正釈。就第二中有三。一者明財施。二者若見厄下明無畏施。三者若有衆生下明法施。Keonsyo04-18R
(広釈の中に就きて五章門を釈するが故にまた即ち五あり。施門を釈する中に二あり。一には名を題す。二には「若見」より以下は正釈。第二の中に就きて三あり。一には財施を明す。二には「若見厄」より下は無畏施を明かす。三には「若有衆生」より下は法施を明かす。)Keonsyo04-18R
【論】云何修行戒門。所謂不殺不盜不婬不両舌不悪口不妄言不綺語。遠離貪嫉欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者為折伏煩悩故。亦応遠離[ケ02]鬧常処寂静。修習少欲知足頭陀等行。乃至。小罪心生怖畏慚愧改悔。不得軽於如来所制禁戒。当護譏嫌。不令衆生妄起過罪故。
【論】 (云何が戒門を修行する。所謂、不殺・不盜・不婬・不両舌・不悪口・不妄言・不綺語。貪嫉・欺詐・諂曲・瞋恚・邪見を遠離す。もし出家者は煩悩を折伏せんがための故に、また応に[ケ02]鬧を遠離し、常に寂静に処して少欲知足・頭陀等の行を修習し、乃至、小罪にも心に怖畏を生じて、慚愧・改悔して、如来所制の禁戒を軽んずることを得ざるべし。当に譏嫌を護り、衆生をして妄に過罪を起こさしめざるべきが故に。)
釈戒門中。初題名。次弁正釈。就正釈中有二。一者明行戒。二者不得軽於下明止戒。就初中有二。一者明十善行戒。二者若出家者以下明威儀戒。就第二正戒中有二。一者明性重戒。二者当護以下明威儀戒。Keonsyo04-18R
(戒門の中に釈きて、初に名を題し、次に正釈を弁ず。正釈を就する中に二あり。一には行戒を明かし、二には「不得軽於」より下は止戒を明かす。初の中に就きて二あり。一には十善行戒を明かし、二には「若出家者」より以下は威儀戒を明かす。第二の正戒の中に就きて二あり。一には性重戒を明かし、二には「当護」より以下は威儀戒を明かす。)Keonsyo04-18R
【論】云何修行忍門。所謂応忍他人之悩心不懐報。亦当忍於利衰毀誉称譏苦楽等法故。
【論】 (云何が忍門を修行する。所謂、応に他人の悩を忍びて心に報を懐せざるべし。また当に利衰・毀誉・称譏・苦楽等の法を忍ぶべきが故に。)
就忍門中有二。一者明無報心忍。二者亦当忍下忍世八風。Keonsyo04-18L
(忍門の中に就きて二あり。一には無報心忍を明かし、二には「亦当忍」より下は世の八風を忍ぶ。)Keonsyo04-18L
【論】云何修行進門。所謂於諸善事心不懈退。立志堅強遠離怯弱。当念過去久遠已来。虚受一切身心大苦無有利益。是故応勤修諸功徳。自利利他速離衆苦。
【論】 (云何が進門を修行する。所謂、諸の善事に於て心に懈退せず、志を立つること堅強にして怯弱を遠離し、当に過去久遠已り来た、虚しく一切身心の大苦を受けて利益あることなきことを念ず。この故に応に勤めて諸の功徳を修して、自利利他して速かに衆苦を離るべし。)
【論】復次若人雖修行信心。以従先世来多有重罪悪業障故。為邪魔諸鬼之所悩乱。或為世間事務種種牽纒。或為病苦所悩。有如是等衆多障礙。是故応当勇猛精勤。昼夜六時礼拝諸仏。誠心懺悔勧請随喜回向菩提。常不休廃得免諸障。善根増長故。
【論】 (また次に、もし人、信心を修行すといえども、先世より来た多く重罪悪業障あるを以ての故に、邪魔諸鬼のために悩乱せらる。或いは世間事務のために種種に牽纒せらる。或いは病苦のために悩まさる。かくの如き等の衆多の障礙あり。この故に応当に勇猛精勤して、昼夜六時に諸仏を礼拝し、誠心に懺悔し勧請し随喜して菩提に回向すべし。常に休廃せず諸障を免れることを得ん。善根増長するが故に。)
就進門中有二。一者就自明進。二者復次若人以下就他以勧。就初中有三。一者明無怠精進。二者当念以下拠昔以勧。三者是故以下結勧。就第二就他勧中有三。一明難障衆生以為勧縁。二者応当以下明勧修因行。三者回向菩提以下明勧修回向。Keonsyo04-18L
(進門の中に就きて二あり。一には自に就きて進を明かし、二には「復次若人」より以下は他に就きて以て勧む。初の中に就きて三あり。一には無怠精進を明かし、二には「当念」より以下は昔に拠りて以て勧め、三には「是故」より以下は結勧。第二に他勧の中に就きて三あり。一には難障の衆生は以て勧縁と為すことを明かし、二には「応当」より以下は勧修因行を明かし、三には「回向菩提」より以下は勧修回向を明かす。)Keonsyo04-18L
【論】云何修行止観門。所言止者。謂止一切境界相。随順奢摩他観義故。所言観者。謂分別因縁生滅相。随順毘鉢舍那観義故。云何随順。以此二義漸漸修習不相捨離。双現前故。
【論】 (云何が止観門を修行する。言う所の止とは、謂く、一切の境界の相を止めて、奢摩他観に随順する義の故に。言う所の観とは、謂く、因縁生滅の相を分別して毘鉢舍那観に随順する義の故に。云何が随順する。この二義は漸漸に修習して相捨離せざるを以て、双びて現前するが故に。)
就止観中有三。一者略明止観。二者若修止下別広止観。三者若修観者対治以下明止観相資。就初中有二。一者別釈。二者云何随順以下双釈。奢摩多者変言名定。毘婆舍那者変言名慧。Keonsyo04-18L
(止観の中に就きて三あり。一には略して止観を明かし、二には「若修止」より下は別して止観を広くし、三には「若修観者対治」より以下は止観相資を明かす。初の中に就きて二あり。一には別釈、二には「云何随順」より以下は双釈。「奢摩多」とは変言して定と名づく。「毘婆舍那」とは変言して慧と名づく。)Keonsyo04-18L
【論】若修止者。住於静処端坐正意。
【論】 (もし止を修する者は、静処に住して、端坐して意を正す。)
就第二広中有三。一者総明其修観定。二者復次精勤以下明修定得益。三者復次若人唯修以下別明修観。以就初中有三。一者明修方法。二者或有衆生下顕定難相。三者応知外道以下弁邪正相。就初中有二。一者明能修之方。二者復次依是三昧以下。明其所修三昧之相。就初中有二。一者明正修人。二者唯除疑以下明不得修人。就初中有三。一者明前方便。二者是正念者以下明得定相。三者深伏以下明定伏惑。但釈初段名耳。Keonsyo04-19R
(第二の広の中に就きて三あり。一には総じてその修観定を明かし、二には「復次精勤」より以下は修定の得益を明かし、三には「復次若人唯修」より以下は別して修観を明かす。以て初の中に就きて三あり。一には修の方法を明かし、二には「或有衆生」より下は定の難相を顕し、三には「応知外道」より以下は邪正の相を弁ず。初の中に就きて二あり。一には能修の方を明かし、二には「復次依是三昧」より以下はその所修三昧の相を明かす。初の中に就きて二あり。一には正修の人を明かし、二には「唯除疑」より以下は不得修の人を明かす。初の中に就きて三あり。一には前方便を明かし、二には「是正念者」より以下は得定の相を明かし、三には「深伏」より以下は、定の、惑を伏すことを明かす。但し初段の名を釈すのみ。)Keonsyo04-19R
【論】不依気息。不依形色。不依於空。不依地水火風。乃至。不依見聞覚知。一切諸想随念皆除亦遣除想。以一切法本来無想。念念不生。念念不滅。亦常不得随心外念境界。後以心除心。心若馳散。即当摂来住於正念。是正念者当知唯心無外境界。即復此心亦無自相。念念不可得。
【論】 (気息に依らず、形色に依らず、空に依らず、地水火風に依らず、乃至、見聞覚知に依らず。一切の諸想は念に随いて皆除き、また除想を遣る。一切の法は本来無想を以て、念念に生ぜず、念念に滅せず。また常に心外に随いて境界を念じ、後に心を以て心を除くことを得ず。心もし馳散せば、即ち当に摂し来りて正念に住すべし。この正念とは当に知るべし、唯心にして外の境界なし。即ちまたこの心は、また自相なく、念念不可得なり。)
【論】若従坐起。去来進止有所施作。於一切時。常念方便随順観察。久習淳熟其心得住。以心住故。漸漸猛利随順得入真如三昧。深伏煩悩信心増長。速成不退。唯除疑惑不信誹謗重罪業障我慢懈怠。如是等人所不能入。
【論】 (もし坐より起きて、去来進止に施作する所あらば、一切の時に於いて常に方便を念じて、随順観察すべし。久習淳熟すれば、その心は住することを得。心住するを以ての故に、漸漸に猛利にして真如三昧に随順し得入し、深く煩悩を伏して信心増長して、速かに不退を成ず。ただ疑惑・不信・誹謗・重罪業障・我慢・懈怠を除く。かくの如き等の人は入ること能わざる所なり。)
前方便者一切境界随取皆除。境相既亡随心亦除。故文言以心除心。地論之中亦同此説。言真如三昧者謂理定也。小乗之中但止心流住在一境。名為得定。大乗之中解其妄理理中住心。名為得定。故経中云。諸仏菩薩常在住定遊法性也。Keonsyo04-19R
(前方便とは一切の境界は取るに随いて皆除く。境相は既に亡ずれば随心もまた除くが故に文に「以心除心〈心を以て心を除く〉」という。『地論』の中にもまたこの説に同じ。「真如三昧」というは、謂く理定なり。小乗の中には但、止心流住して一境に在るを名づけて得定と為す。大乗の中にはその妄理を解し、理の中に心を住するを名づけて得定と為す。故に経の中に云く。諸仏菩薩は常に住定に在りて法性に遊ぶなり。)Keonsyo04-19R
【論】復次依是三昧故。則知法界一相。謂一切諸仏法身与衆生身平等無二。即名一行三昧。当知真如是三昧根本。若人修行漸漸能生無量三昧。
【論】 (また次にこの三昧に依るが故に、則ち法界一相なりと知る。謂く一切の諸仏の法身と衆生身と平等無二なるを、即ち一行三昧と名づく。当に知るべし真如はこれ三昧の根本なり。もし人、修行する漸漸に能く無量三昧を生ず。)
就復次依是三昧以下第二明所修相。此中有三。一者明其定中体。二者当知以下明其諸定中体本。三者若人修行以下挙益勧修。復次依是三昧則知法界一相者。定功用也。解理無二故名一相。下顕其相。謂諸仏身与衆生身平等無二也。Keonsyo04-19L
(「復次依是三昧」より以下に就きて第二に所修の相を明かす。この中に三あり。一にはその定中の体を明かし、二には「当知」より以下はその諸の定中の体の本を明かし、三には「若人修行」より以下は益を挙げて修を勧む。「復次依是三昧則知法界一相〈また次にこの三昧に依るが故に、則ち法界一相なりと知る〉」とは、定の功用なり。理は無二なりと解るが故に一相と名づく。下にその相を顕す。謂く、諸仏の身と衆生の身と平等無二なり。)Keonsyo04-19L
【論】或有衆生無善根力。則為諸魔外道鬼神之所惑乱。若於坐中現形恐怖。或現端正男女等相。当念唯心。境界則滅。終不為悩。
【論】 (或いは衆生ありて善根力なく、則ち諸魔外道鬼神のために惑乱せらる。もしは坐中に於いて形を現じて恐怖し、或いは端正の男女等の相を現ず。当に唯心を念ずべし。境界則ち滅して、終に悩をなさず。)
就或有衆生第二定難中有三。一者明身業乱。二者或現天像以下明口業乱。三者或復令人以下明意業乱。就初中有二。一者正明身乱。二者当念以下明対治解。Keonsyo04-19L
(「或有衆生」より第二に定難の中に就きて三あり。一には身業の乱を明かし、二には「或現天像」より以下は口業の乱を明かし、三には「或復令人」より以下は意業の乱を明かす。初の中に就きて二あり。一には正しく身乱を明かし、二には「当念」より以下は対治の解を明かす。)Keonsyo04-19L
【論】或現天像菩薩像。亦作如来像相好具足。若説陀羅尼。若説布施持戒忍辱精進禅定智慧。或説平等空無相無願無怨無親無因無果畢竟空寂。是真涅槃。或令人知宿命過去之事。亦知未来之事。得他心智弁才無礙。能令衆生貪著世間名利之事。又令使人数瞋数喜性無常準。或多慈愛多睡多宿多病其心懈怠。或率起精進。後便休廃生於不信多疑多慮。或捨本勝行更修雑業。若著世事種種牽纒。亦能使人得諸三昧少分相似。皆是外道所得。非真三昧。或復令人若一日若二日若三日乃至七日。住於定中。得自然香美飲食。身心適悦不飢不渇。使人愛著。或亦令人食無分斉。乍多乍少顏色変異。
【論】 (或いは天像菩薩像を現じ、または如来の像を作りて相好具足し、もしは陀羅尼を説き、もしは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を説き、或いは平等・空・無相・無願・無怨・無親・無因・無果・畢竟空寂なる、これ真の涅槃なりと説き、或いは人をして宿命過去の事を知り、また未来の事を知り、他心智弁才無礙を得しむ。能く衆生をして世間の名利の事に貪著せしむ。また人をして数〈しばしば〉瞋り数〈しばしば〉喜びて性に常準なく、或いは多く慈愛・多睡・多宿・多病にしてその心懈怠ならしむ。或いは率〈にわか〉に精進を起こし、後に便ち休廃して、不信を生じて多疑多慮。或いは本の勝行を捨て更に雑業を修す。もしは世事に著し種種に牽纒す。また能く人をして諸の三昧の少分の相似を得しむ。皆これ外道の所得にして真の三昧にあらず。或いはまた人をして、もしは一日、もしは二日、もしは三日、乃至、七日、定中に住して、自然の香美の飲食を得て、身心適悦して不飢不渇ならしむ。人をして愛著せしめ、或いはまた人をして食に分斉なく、乍に多く、乍に少なくして、顏色変異せしむ。)
【論】以是義故。行者常応智慧観察。勿令此心堕於邪網。当勤正念不取不著。則能遠離是諸業障。
【論】 (この義を以ての故に、行者、常に応に智慧観察して、この心をして邪網に堕せしむることなかれ。当に勤めて正念にして不取不著ならば、則ち能くこの諸の業障を遠離す。)
就第二口業乱中有四。一者顕能説人。二者若説陀羅尼下明所説法。三者或令人知以下明神通乱。四者皆是以下明其当知非真之相。Keonsyo04-20R
(第二の口業乱の中に就きて四あり。一には能説の人を顕し、二には「若説陀羅尼」より下は所説の法を明かし、三には「或令人知」より以下は神通の乱を明かし、四には「皆是」より以下はその当に非真の相を知るべきことを明かす。)Keonsyo04-20R
就第三意業乱中有二。一者明其乱相。二者以是義故以下明応観察。Keonsyo04-20R
(第三の意業の乱の中に就きて二あり。一にはその乱相を明かし、二には「以是義故」より以下は応に観察すべきことを明かす。)Keonsyo04-20R
【論】応知。外道所有三昧。皆不離見愛我慢之心。貪著世間名利恭敬故。真如三昧者。不住見相。不住得相。乃至。出定亦無懈慢。所有煩悩漸漸微薄。若諸凡夫不習此三昧法。得入如来種性。無有是処。以修世間諸禅三昧。多起味著。依於我見繋属二界。与外道共。若離善知識所護。則起外道見故。
【論】 (応に知るべし。外道所有の三昧は、皆、見愛我慢の心を離れず。世間の名利恭敬を貪著するが故に。真如三昧とは、見相に住さず、得相に住さず。乃至。定を出でて、また懈慢なし。所有の煩悩は漸漸に微薄なり。もし諸の凡夫、この三昧の法を習せずして、如来の種性に入ることを得ること、この処りあることなし。世間の諸禅三昧を修して、多く味著を起こし、我見に依りて二界に繋属するを以て、外道と共にす。もし善知識の所護を離るれば、則ち外道の見を起こすが故に。)
自応知外道下第三明邪正定。此中有三。一者明邪正定相。二者真如三昧者以下明真正定。三者若諸凡夫以下勧人修定。所言見者謂五見也。言愛者謂五鈍也。言我慢者謂八慢也。Keonsyo04-20R
(「応知外道」より下は第三に邪正定を明かす。この中に三あり。一には邪正定の相を明かし、二には「真如三昧者」より以下は真正定を明かし、三には「若諸凡夫」より以下は人の修定を勧む。言う所の「見」とは、謂く五見なり。「愛」というは謂く五鈍なり。「我慢」というは謂く八慢なり。)Keonsyo04-20R
【論】復次精勤専心修学此三昧者。現世当得十種利益。云何為十。一者常為十方諸仏菩薩之所護念。二者不為諸魔悪鬼所能恐怖。三者不為九十五種外道鬼神之所惑乱。四者遠離誹謗甚深之法。重罪業障漸漸微薄。五者滅一切疑諸悪覚観。
【論】 (また次に精勤して専心にこの三昧を修学する者は、現世に当に十種の利益を得べし。云何が十となす。一には常に十方の諸仏菩薩のために護念せらる。二には諸魔悪鬼のために能く恐怖せられず。三には九十五種の外道鬼神のために惑乱せられず。四には甚深の法を誹謗することを遠離し、重罪業障は漸漸に微薄なり。五には一切の疑と諸の悪覚観を滅す。)
【論】六者於諸如来境界信得増長。七者遠離憂悔。於生死中勇猛不怯。八者其心柔和捨於[キョウ02]慢。不為他人所悩。九者雖未得定。於一切時一切境界処。則能減損煩悩不楽世間。十者若得三昧。不為外縁一切音声之所驚動。
【論】 (六には諸の如来の境界に於いて、信は増長することを得。七には憂悔を遠離して、生死の中に於いて勇猛不怯なり。八にはその心柔和にして[キョウ02]慢を捨てて、他人のために悩まされず。九には未だ定を得ずといえども、一切の時、一切の境界の処に於いて、則ち能く煩悩を減損して、世間を楽しまず。十には、もし三昧を得れば、外縁一切音声のために驚動せられず。)
自復次精勤下第二明修定益。此中有二。一者総表。二者云何以下別釈。十止種利益。文顕可解。Keonsyo04-20R
(「復次精勤」より下は第二に修定の益を明かす。この中に二あり。一には総表、二には「云何」より以下は別釈。十止種〈十種の止 か?〉の利益、文は顕にして、解すべし。)Keonsyo04-20R
【論】復次若人唯修於止。則心沈没。或起懈怠。不楽衆善。遠離大悲。是故修観。
【論】 (また次に、もし人ただ止を修すれば、則ち心沈没し、或いは懈怠を起こして衆善を楽しまず、大悲を遠離す。この故に観を修す。)
自復次若人唯修於止下第二別明修観。此中有二。一者結前生後。二者修習観者正明修観。Keonsyo04-20L
(「復次若人唯修於止〈また次にもし人ただ止を修すれば〉」の下は第二〈三か?〉に別して修観を明かす。この中に二あり。一には結前生後、二には「修習観者」とは正しく修観を明かす。)Keonsyo04-20L
【論】修習観者。当観一切世間有為之法。無得久停。須臾変壊。一切心行念念生滅。以是故苦。応観過去所念諸法。恍愡如夢。応観現在所念諸法。猶如電光。応観未来所念諸法。猶如於雲[クツ01]爾而起。応観世間一切有身。悉皆不浄。種種穢汚無一可楽。
【論】 (観を修習する者は、当に一切世間有為の法は、久しく停ることなく、須臾に変壊し、一切の心行は念念に生滅して、これを以ての故に苦なりと観ずべし。応に過去所念の諸法は恍愡として夢の如しと観ずべし。応に現在の所念の諸法は、猶し電光の如しと観ずべし。応に未来所念の諸法は猶し雲の[クツ01]爾として起るが如しと観ずべし。応に世間一切の有身は、悉く皆不浄にして、種種の穢汚は一として楽しむべきことなしと観ずべし。)
就第二中有二。一者就五門観明修観慧。二者若余一切以下就二諦門以弁観慧。就第一中有二。一者正明修観。二者如是当念以下明発願化広。此二猶是既自悟解亦令他解。Keonsyo04-20L
(第二の中に就きて二あり。一には五門観に就きて修観慧を明かし、二には「若余一切」より以下は二諦門に就きて以て観慧を弁ず。第一の中に就きて二あり。一には正しく修観を明かし、二には「如是当念」より以下は発願化広を明かす。この二は猶〈なお〉これ既に自ら悟解し、また他をして解しむ。)Keonsyo04-20L
就初中有四。一者明無常観。二者是以以下明其苦観。三者応以下空無我令観。四者応観世間以下明不浄観。Keonsyo04-20L
(初の中に就きて四あり。一には無常観を明かし、二には「是以」より以下はその苦観を明かし、三には「応」より以下は空無我を観ぜしめ、四には「応観世間」より以下は不浄観を明かす。)Keonsyo04-20L
就無常観中有二。一者明分段無常。二者一切心行以下明変易無常。就令観中拠三世以弁。言如夢者滅無滅相。言電光者住無住相。言如雲者起無起相。Keonsyo04-20L
(無常観の中に就きて二あり。一には分段無常を明かし、二には「一切心行」より以下は変易無常を明かす。観ぜしむる中に就きて三世に拠りて以て弁ず。「如夢」というは滅に滅相なし。「電光」というは住に住相なし。「如雲」というは起に起相なし。)Keonsyo04-20L
【論】如是当念。一切衆生従無始時来。皆因無明所熏習故。令心生滅。已受一切身心大苦。現在即有無量逼迫。未来所苦亦無分斉。難捨難離而不覚知。衆生如是甚為可愍。
【論】 (かくの如く当に念ずべし。一切衆生は無始の時より来た、皆、無明に熏習せらるに因るが故に、心をして生滅せしめ、已に一切の身心の大苦を受け、現在に即ち無量の逼迫あり。未来の所苦もまた分斉なし。捨し難く離れ難くして、而して覚知せず。衆生はかくの如く甚だ愍れむべしとなす。)
【論】作是思惟。即応勇猛立大誓願。願令我心離分別故。遍於十方。修行一切諸善功徳。尽其未来。以無量方便。救抜一切苦悩衆生。令得涅槃第一義楽。
【論】 (この思惟を作し、即ち応に勇猛に大誓願を立つべし。願くは我が心をして分別を離れしむるが故に十方に遍じて一切の諸善功徳を修行し、その未来を尽くして、無量の方便を以て、一切の苦悩の衆生を救抜して、涅槃第一義の楽を得しめん。)
【論】以起如是願故。於一切時一切処。所有衆善随已堪能。不捨修学。心無懈怠。唯除坐時専念於止。
【論】 (かくの如き願を起こすを以ての故に、一切時、一切処に於いて、所有の衆善、已に堪能するに随いて、修学を捨てず、心に懈怠なし。ただ坐する時に止を専念するを除く。)
就第二発願化度中有三。一者如是当念以下念所化境。二者作此思惟以下正明発願。三者以起如是以下明化度行。Keonsyo04-21R
(第二に発願化度の中に就きて三あり。一には「如是当念」より以下は所化の境を念じ、二には「作此思惟」より以下は正しく発願を明かし、三には「以起如是」より以下は化度の行を明かす。)Keonsyo04-21R
【論】若余一切。悉当観察応作不応作。若行。若住。若坐。若臥。若起。皆応止観倶行。所謂雖念諸法自性不生。而復即念因縁和合。善悪之業苦楽等報不失不壊。雖念因縁善悪業報。而亦即念性不可得。若修止者。対治凡夫住著世間。能捨二乗怯弱之見。
【論】 (もし余の一切は悉く当に応作と不応作とを観察すべし。もしくは行、もしくは住、もしくは坐、もしくは臥、もしくは起、皆、応に止観倶行すべし。所謂、諸法の自性不生を念ずといえども、而してまた即ち因縁和合の善悪の業苦、楽等の報は失せず壊せずと念ず。因縁善悪の業報を念ずといえども、而してまた即ち性は不可得なりと念ず。もし止を修せば、凡夫の世間に住著するを対治し、能く二乗の怯弱の見を捨す。)
就第二二諦中有二。一者若余以下総明。二者所謂以下別釈。就第二中有二。一者明俗諦観。二者雖念因縁以下明真諦観。Keonsyo04-21R
(第二に二諦の中に就いて二あり。一には「若余」より以下は総じて明かし、二には「所謂」より以下は別釈。第二の中に就きて二あり。一には俗諦観を明かし、二には「雖念因縁」より以下は真諦観を明かす。)Keonsyo04-21R
【論】若修観者。対治二乗不起大悲狹劣心過。遠離凡夫不修善根。以是義故。是止観門共相助成不相捨離。若止観不具。則無能入菩提之道。
【論】 (もし観を修すれば、二乗の、大悲を起こさざる狹劣の心の過を対治し、凡夫の善根を修せざるを遠離す。この義を以ての故にこの止・観門は共に相い助成して相い捨離せず。もし止・観具せざれば、則ち能く菩提の道に入ることなし。)
自若修観者対治下第三明止観相資。若定過多則是沈没。若慧偏多則是浮昇。定慧平等爾乃調柔故。復次弁定慧相資。此中有三。一者別明止観相対。二者以此義故以下明相助成。三者若止観下明不具有損。対治之行有正傍義。定能正治凡夫著有散乱之心。兼余二乗怯弱異見。慧能正治二乗無悲。兼除凡夫不修善痴。Keonsyo04-21R
(「若修観者対治」より下は第三に止観の相資を明かす。もし定過多ならば則ちこれ沈没す。もし慧偏に多からば則ちこれ浮昇す。定慧平等ならば爾れば乃ち調柔なるが故なり。また次に定慧の相資を弁ず。この中に三あり。一には別して止観の相対を明かし、二には「以此義故」より以下は相い助成することを明かし、三には「若止観」より下は具せざれば損あることを明かす。対治の行に正傍の義あり。定は能く正しく凡夫の著有、散乱の心を、兼ねては余の二乗怯弱の異見を治す〈定は能く正しく凡夫の著有、散乱の心を治し、兼ねては二乗の怯弱の異見を除く。 か?〉。慧は能く正しく二乗の無悲を治し、兼ては凡夫の、善を修せざるの痴を除く。)Keonsyo04-21R
【論】復次衆生。初学是法。欲求正信。其心怯弱。以住於此娑婆世界。自畏不能常値諸仏親承供養。懼謂信心難可成就。意欲退者。当知。如来有勝方便。摂護信心。謂以専意念仏因縁。随願得生他方仏土。常見於仏永離悪道。
【論】 (また次に衆生、初めてこの法を学び、正信を欲求するに、その心怯弱なり。この娑婆世界に住するを以て、自ら常に諸仏に値いて親承し供養すること能わざることを畏れ、懼れて信心は成就すべきこと難しといいて、意、退せんと欲する者は、当に知るべし。如来は勝方便あり、信心を摂護す。謂く、意を専にし仏を念ずる因縁を以て、願に随いて他方の仏土に生ずることを得て、常に仏を見て永く悪道を離る。)
【論】如修多羅説。若人専念西方極楽世界阿弥陀仏。所修善根回向。願求生彼世界。即得往生。常見仏故。終無有退。若観彼仏真如法身。常勤修習畢竟得生住正定故。
【論】 (修多羅に説くが如し。もし人、専ら西方極楽世界の阿弥陀仏を念じて、所修の善根回向して、彼の世界に生ぜんと願求すれば、即ち往生することを得。常に仏を見るが故に、終に退あることなし。もし彼の仏の真如法身を観じて、常に勤めて修習すれば、畢竟じて生ずることを得て正定に住するが故に。)
自下第四明修止恒生浄土。此中有二。一者明其仏力摂護令生。二者如修多羅下引経証成。正釈分竟。Keonsyo04-21L
(自下は第四に止を修して恒に浄土に生ずることを明かす。この中に二あり。一にはその仏力の摂護して生ぜしむることを明かし、二には「如修多羅」より下は経を引きて証成す。正釈分竟りぬ。)Keonsyo04-21L
【論】已説修行信心分。次説勧修利益分。如是摩訶衍諸仏秘蔵。我已総説。
【論】 (已に修行信心分を説く。次に勧修利益分を説かん。かくの如き摩訶衍は諸仏の秘蔵、我已に総じて説く。)
次下一分伝持末代分。此中有二。一者結前上言。Keonsyo04-21L
(次下の一分は伝持末代分なり。この中に二あり。一には前上の言を結す。)Keonsyo04-21L
【論】若有衆生。欲於如来甚深境界。得生正信。遠離誹謗。入大乗道。当持此論。思量修習究竟。能至無上之道。若人聞是法已。不生怯弱。当知。此人定紹仏種。必為諸仏之所授記。
【論】 (もし衆生ありて、如来の甚深の境界に於いて、正信を生ずることを得て、誹謗を遠離して、大乗の道に入らんと欲せば、当にこの論を持して、思量し修習し究竟して、能く無上の道に至る。もし人、この法を聞き已りて怯弱を生ぜざれば、当に知るべし、この人は定んで仏種を紹〈つ〉ぎ、必ず諸仏のために授記せらる。)
二者若有衆生以下。明其勧持。就第二中有二。一者約始終勧持。二者仮使有人以下。挙勝勧学。就初中有二。一者嘆論勧持。二者若人聞是以下。明約終果勧持此論。Keonsyo04-21L
(二には「若有衆生」より以下は、その勧持を明かす。第二の中に就きて二あり。一には始終勧持に約し、二には「仮使有人」より以下は勝を挙げて学を勧む。初の中に就きて二あり。一には論を嘆じて勧持し、二には「若人聞是」より以下は終果に約してこの論を勧持することを明かす。)Keonsyo04-21L
【論】仮使有人。能化三千大千世界満中衆生。令行十善。不如。有人於一食頃正思此法。過前功徳不可為喩。
【論】 (たとい人ありて、能く三千大千世界の中に満てる衆生を化して、十善を行ぜしめんは、如かじ、人ありて一食の頃に於いて正しくこの法を思わんに、前の功徳に過ること、喩となすべからず。)
就第二挙勝勧持中有五。一者格量明勝。二者後次有人以下嘆勝勧持。三者其有衆生以下挙非返釈。四者以一切如来以下取人以証。五者是故以下結観修行。Keonsyo04-21L
(第二に勝を挙げて持を勧むる中に就きて五あり。一には格量明勝〈量を格<ただ>して勝を明かす〉、二には「後次有人〈復次若人か?〉」より以下は嘆勝勧持〈勝を嘆じて持を勧む〉、三には「其有衆生」より以下は挙非返釈〈非を挙げて返釈す〉、四には「以一切如来」より以下は取人以証〈人を取りて以て証す〉、五には「是故」より以下は結観修行〈観の修行を結す〉なり。)Keonsyo04-21L
格量之意。仮使有人。三千世界満中衆生令行十善。但感天報。不得仏果。正思此法。正得仏果。更無余因。故名勝也。Keonsyo04-22R
(格量の意は、たとい人ありて、三千世界の、中に満つる衆生をして十善を行ぜしめば、但、天報を感ずるも、仏果を得ず。正しくこの法を思いて、正しく仏果を得。更に余因なきが故に勝と名づくるなり。)Keonsyo04-22R
【論】復次若人受持此論。観察修行。若一日一夜。所有功徳無量無辺。不可得説。仮令十方一切諸仏。各於無量無辺阿僧祇劫。歎其功徳。亦不能尽。何以故。謂法性功徳無有尽故。此人功徳亦復如是無有辺際。
【論】 (また次に、もし人、この論を受持して観察し修行し、もしは一日一夜せん。所有の功徳無量無辺にして、説くことを得べからず。たとい十方一切の諸仏、おのおの無量無辺阿僧祇劫に於いて、その功徳を歎ずるも、また尽くすこと能わず。何を以ての故に。謂く、法性の功徳は尽くることあることなきが故に、この人の功徳もまたまたかくの如く辺際あることなし。)
就第二嘆勝中有二。一者説徳勝。二者何以故下釈勝所以。Keonsyo04-22R
(第二に嘆勝の中に就きて二あり。一には徳勝を説き、二には「何以故」より下は勝の所以を釈す。)Keonsyo04-22R
【論】其有衆生。於此論中毀謗不信。所獲罪報。経無量劫受大苦悩。是故衆生。但応仰信。不応毀謗。以深自害亦害他人。断絶一切三宝之種。
【論】 (これ衆生ありて、この論の中に於いて毀謗して信ぜざれば、獲る所の罪報は、無量劫を経て大苦悩を受く。この故に衆生は、ただ応に仰ぎて信すべし。応に毀謗すべからず。深く自害し、また他人を害して、一切三宝の種を断絶するを以て。)
就第三挙非中有三。一者挙不信罪。二者是故以下勧生仰信。三者以深自害以下釈勧之意。有大損故応当仰信。Keonsyo04-22R
(第三の挙非の中に就きて三あり。一には不信の罪を挙げ、二には「是故」より以下は生に仰ぎ信ずることを勧め、三には「以深自害」より以下は勧の意を釈す。大損あるが故に応当に仰ぎ信ずべし。)Keonsyo04-22R
【論】以一切如来。皆依此法得涅槃故。一切菩薩。因之修行得入仏智故。当知。過去菩薩。已依此法得成浄信。現在菩薩。今依此法得成浄信。未来菩薩。当依此法得成浄信。是故衆生応勤修学。
【論】 (一切の如来は皆、この法に依りて涅槃を得るが故に、一切の菩薩は、これに因りて修行して仏智に入ることを得るを以ての故に。当に知るべし。過去の菩薩は已にこの法得に依りて浄信を成ずることを得。現在の菩薩は今、この法に依りて浄信を成ずることを得。未来の菩薩は当にこの法に依りて浄信を成ずることを得べし。この故に衆生は応に勤めて修学すべし。)
就第四取人証中有二。一者以仏為証。若無此信不得成仏。知明要法。二者一切菩薩以下因行為証。一切菩薩皆行此法。故知要行。此中有二。一者総明。二者当知以下別明三世以弁。過去已依。現在世今依。未来当依。若爾要者豈容不信。是故第五結勧修行。論宗釈竟。Keonsyo04-22R
(第四に人を取りて証する中に就きて二あり。一には仏を以て証と為す。もしこの信なくば成仏を得ず。知りぬ明らかに要法なることを。二には「一切菩薩」より以下は因行を証と為す。一切の菩薩は皆この法を行ず。故に知りぬ要行なることを。この中に二あり。一には総明、二には「当知」より以下は別して三世を明かして以て弁ず。過去は已に依り、現在世は今依り、未来は当に依るべし。もし爾らば要は豈に信ぜざるべけんや。この故に第五に修行を勧むることを結す。論の宗を釈し竟りぬ。)Keonsyo04-22R
【論】諸仏甚深広大義。我今随順総持説。回此功徳如法性。普利一切衆生界。
【論】 (諸仏の甚深広大の義、我今随順して総持して説く〈我、今、分に随いて総持して説く〉。この功徳の如法性を回して、普く一切衆生界を利せん。)
次下回向発願。此中有三。一行傷表所作事。二者一句正明回向。三者一句明所為人。Keonsyo04-22L
(次下は回向発願。この中に三あり。一行は傷表所作事〈傷みて所作の事を表し〉、二に一句は正しく回向を明かし、三に一句は所為の人を明かす。Keonsyo04-22L
此論所説理行及教。凡夫二乗絶分。故名諸仏甚深広大義。此之所顕不能広弁。故名随分総持説也。以行帰本。故名回此功徳如法性。所修不自。故名普利衆生界也。Keonsyo04-22L
(この論の所説の理行及び教は、凡夫二乗には分を絶するが故に「諸仏甚深広大義」と名づく。この所顕は広く弁ずること能わざるが故に「随分総持説」と名づくるなり。行を以て本に帰するが故に「回此功徳如法性」と名づく。修する所は自ならざるが故に「普利衆生界」と名づくるなり。)Keonsyo04-22L
大乗起信論義疏 下之末 終 Keonsyo04-22L