世親の無明論の特質

乗灃

人間の苦を滅すことは仏教の目的である。十二支縁起説は、原始仏教以来、苦になる原因を説明する中心的教義として位置づけられる。十二支の中で、無明に関する論議は、縁起説全体を理解する上で特に重要な位置を占める。世親(Vasubandhu, 4世紀または5世紀)は、説一切有部の伝統的な教義を批判的に継承しながら、独自の解釈を展開し、後の大乗仏教にも大きな影響を与えた、仏教史における重要な人物である。本稿では、『阿毘達磨倶舎論』(以下、『倶舎論』と略す)の世間品における無明に関する議論を分析することで、世親の無明論の特質を明らかにすることを目的とする。

十二支縁起は、無明を根源として、行、識、名色、六入、触、受、愛、取、有、生、老死という十二の要素が連鎖的に生起し、輪廻の苦しみを引き起こすという教説である。『倶舎論』巻第九「分別世間品」では、この十二支が詳細に解説されている。無明は十二支の最初に位置し、他の支の根本原因とされる。これは、無明が真理に対する無知であり、誤った認識や価値観を生み出し、それに基づいて行から老死に至るまでの様々な苦しみが形成されるためである。世親は部派仏教から大乗仏教まで、仏教の教理全体に通じていたため、彼の無明論はどのような特質を持つのか、以下に検討する。

『倶舎論』における無明の定義から検討する。無明の定義は、否定辞「a-」の解釈から始まる。無明(avidyā)を「明(vidyā)ではないもの」と捉え、否定辞‘a-’の用法に着目して無明の意味を検討する。世親は、無明を単なる「明ではないもの」や「明の非存在」とする説を否定する。無明を「明ではないもの」とする説の否定について、真諦訳では以下のように述べられている。

復次無明者何義。非明是名無明。若爾有過量失。眼等亦應成無明。若爾明無應是無明。若爾應以無所有爲無明。此二執不相應故。應以別法爲無明。

この意味するところは、無明が単に明ではないものであるならば、眼や耳などの六根も明ではないから無明となってしまい、妥当性を欠くということである。この議論は、無明を単に明の否定とすることが包括的すぎて不適切であることを指摘している。また、「明の非存在」(明無)とする説は、無明を無(無所有)と同一視することになり、煩悩としての機能を説明できなくなるため、これも否定される。

これらを踏まえ、世親は無明を「明に対立する別なる法」(vidyāyāḥ pratidvandvabhūtadharma)と定義する。これは、無明が単なる明の欠如ではなく、明と対立する力動的な存在であることを示している。この定義は、次の論点へと展開される。

このような無明の定義に従って、無明実有論が登場する。つまり、無明の実有性の論議であり、無明は単なる「明の欠如」ではなく、独立した実体として存在すると主張される。「明翻別無明 如非親實等」(明の対治は別なる無明、例えば非親、非実など)という偈頌は、この点を明確に示している。非親が親の単なる不在ではなく、親と対立する関係性を示すように、無明も明の単なる欠如ではなく、明と対立する(逆なる)力として存在すると考えられる。これは、無明が単なる概念ではなく、具体的な作用を持つ根本煩悩であることをかなり強調していると考えられる。

無明と他の心所法との関係、区分について、無明は「悪慧」や「見」と区別される。「非惡明見故」(悪明、見にあらざる故に)という偈頌は、悪慧と無明を混同する見解を批判している。この偈頌は、無明が悪しき明(悪慧)や、それ自体が見(悪見)ではないことを示している。悪慧は「見」を含むから無明とは異なるとされ、無明は「見」と相応するが、それ自体は「見」ではないという、より根源的な無知であることを示している。これは、無明が単なる知的な誤りではなく、認識の根底にある根本的な無知であることを示している。

智慧との関連については、無明は「染慧」(慧を染める)として説明され、智慧を汚し、不清浄にする力として捉えられている。「説能染智故」(能く智を染むと説くが故に)という記述は、無明が単なる無知ではなく、認識や心の働き全体に影響を及ぼす力であることを示している。これは、無明が単なる知識の欠如ではなく、認識を歪める力、あるいは真実を覆い隠す力として存在することを示している。

業果との関連については、 無明は「不了別諦實業果」(諦実の業果を了別せず)と関連付けられている。これは、無明が単なる知識不足ではなく、倫理的な判断や行為にも影響を及ぼすことを示唆している。真実の道理(四諦)と業報を知らないということは、正しい行為の基準を見失い、苦しみを招く行為へと導かれることを意味する。

以上の議論を踏まえると、世親の無明論の特質というなら、まず、無明の実有性、即ち無明実有論が明確になっている。つまり、無明を単なる明の欠如ではなく、独立した実体として捉える点。これは、無明が単なる概念ではなく、具体的な作用を持つ根本煩悩であることが強調されている。次は、他の心所法と峻別され、無明の定義をよりもっと明確になっている。つまり、 無明を悪慧や見などの他の煩悩と明確に区別する点。これは、無明が単なる知的な誤りではなく、認識の根底にある根本的な無知であることを示している。または、無明が認識や心の働き全体に能動的に影響を及ぼす力として捉えられている点。これは、無明が単なる知識の欠如ではなく、認識を歪める力、あるいは真実を覆い隠す力として存在することを示している。

世親は、否定辞「a-」の議論を基盤としながら、様々な異論を批判的に検討することで、無明の本質を明らかにしている。特に、無明を独立した実体として捉える無明実有論は、世親の無明論の最大の特徴と言えるだろう。元々無明は明と相対的な関係にあるが、世親は無明の実有性を強調することで、その力動的な側面を浮き彫りにした。また、無明を明に対する独立した別法とし、煩悩の根本原因としての意義を明らかにしたと考えている。以上のように、世親の無明論は仏教における無明の一般的な理解と共通する部分を持ちながらも、独自の理論を展開していることが確認できた。世親の無明論などの思想は唯識の種子説(前世の業の蓄積)をはじめとし、後世の仏教思想の発展に重要な基盤を形成する役割を担っていたと言えるだろう。

――――――

【参考文献】

世親造、玄奘訳. 『阿毘達磨倶舍論』30巻. 大正新脩大蔵経 第29巻 No.1558

世親造、真諦訳. 『阿毘達磨倶舍論』22巻. 大正新脩大蔵経 第29巻 No.1559

青原先生 授業レジュメ

桜部 建 2002年 『倶舎論』 大蔵出版

发表评论

滚动至顶部